殺人鬼X

 警察に通報すべきか、それとも大家に連絡するべきか。

 隣人の事に気づいた僕は、その晩、頭を悩ませる羽目になった。


 だが、どうやら人間の脳みそというのは、どうやら思ったよりもイレギュラーな出来事に弱くできているらしい。結論の出ないままに、僕は人生初、徹夜というものをする事になった。窓越しに、久方ぶりに邂逅をはたした朝日を見ながら、太陽とはこんなにも眩しいものだっただろうか、とそんな事をぼんやりと考えた。


 どちらでもいいから連絡をいれるべきだったのではないか、という事に気づいたのは、大学に到着してからのことだった。

 警察に通報しようが、大家に連絡をいれようが、どちらにせよ最終的には、警察から大家に、大家から警察に、連絡が行く筈だ。なんて馬鹿みたいな事で頭を悩ませていたんだ、と過去の自分を心の中で罵りながら、僕は講義室の空いている席に腰をおろした。


 家を出る時に見た隣室のドアには、まだ黒い紐がたれていた。隣人が帰宅していないのか、それともこちらを警戒してそのままにしているのかはわからない。

 だが僕が隣の部屋が空いている事を知っている事ぐらい、隣人にも簡単に想像がついている筈だ。だというのにあのような軽率な行動を取ってきた僕に、はたして隣人は何を思うだろうか。僕だったら不審に思い、警戒するだろう。


 隣人は、何者か。そんな疑問が僕の中に浮かぶ。


 空き巣、泥棒の類だとしたら、住人もいない部屋に入る筈もない。ならばどういう条件下でなら人が誰も住んでいない部屋、または家に人は入るのだろうか。


 答えの出ない問いを前に頭が辟易していくのを感じた。寝不足というのもあって、いつもよりも頭の回転が鈍い。いつもは頭の回転が早い方かと言われたら、そんな事はないのだけれど。


 考えるのをやめて机の上に突っ伏した。授業が始まるまで寝ようと思った。これ以上頭を動かしていると、授業に支障が出る気がした。

 しかし望んだ眠気はやっては来なかった。代わりにやってきたのは、講義室内に響き渡る賑やかな学生達の声だった。


「おはよう」

「今日締め切りレポート間に合った?」「午後からカラオケ行く人」

「昨日のゼミの先輩が」「ごめん、今日バイト」「次の授業、誰か代返頼めない」「次の講義なんだっけ」――。


 瞼で作り上げた薄暗闇越しに聞こえる会話達が、僕の中にある眠気を霧散させていく。


 雑多に際限なく飛び交う会話達を耳にしながら、まるで動物園のようだな、と思った。色々な方向から色々な動物達の鳴き声で賑わう動物園。もし動物園の動物達の言語が、皆同じ言語で、僕らにもわかる言葉であったのなら、動物の鳴き声で満ちるあの空間は、今の講義室のような光景になるのだろうか。

 なんにせよきっと、うるさい光景である事には変わらないし、僕のような人間に向けられる言葉というのもないのだろうな、とそんな感想を抱く。


 仕方ない。寝るのは諦めよう。そう思って身体を起こそうとした、その時だった。

 その会話が聞こえてきたのは。


「ねぇ、聞いた? 例の殺人鬼のニュース、ついに10人目だって」


 殺人鬼――、物騒な単語に、机上にくっついたままの僕の肩がぴくりと動いた。


「例の殺人鬼って、あの連続殺人鬼Xの事?」と誰かが言葉を返したのが聞こえる。「そうそう、その殺人鬼Xのやつ」と最初に声をあげたと思われる人物が返答をする。


「今朝、ニュースでやってた。今度は20代の男性だって」

「見た見た、なんだっけ、近隣の高校の教師だっけ」

「スマホで検索したら出る?」

「あ、このニュースじゃね?」

「うわっ、この事件現場、隣の県じゃん。しかも県境」

「げぇー、まじか、超近いじゃん」

「どうするよ? この辺に殺人鬼が隠れてたりしたら」

「やっだー、やめてよ」


「こわーい」、と冗談とも本気とも取れない笑い混じりの声が、ケラケラとその場に響くのと同時に、チャイムが鳴った。

 がらり、と講義室前方のドアが開き、教授が現れる。ざわついていた室内が、一気に講義用の静かな空気に切り替わる。「こわーい」と笑っていた学生達の声も聞こえなくなる。

 

 が、僕の周りだけはなぜか異様にうるさかった。バクバクと、何か低いものが打ち鳴らされ続けている音が、僕の鼓膜をせわしなく揺らす。

 その音が自分の内側から鳴らされているものだと気づくのには、そう時間はかからなかった。


 バクバクとうるさい音の中で、その声だけが、やけにハッキリと僕の頭の中に再生される。


『どうするよ? この辺に殺人鬼が隠れてたりしたら』――。


 人が誰も住んでいない場所に身を置くのはどうしてか。なんとなく、その答えがわかったような気がした。


 結局その日、僕は閉門時間ギリギリまで大学に居残る事にした。授業が終わってからは、食堂や図書館、中庭なんかで時間を潰した。なるべく人が多いところに居たかった。


 夜、大学から締め出される形でアパートへ帰宅してきた僕を出迎えたのは、朝はたれていた筈の黒い紐が消えていた隣の部屋のドアと、自分の部屋の郵便受けに入っていた「ありがとう」の5文字が記載されたレポート用紙だった。

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