第二章 冤罪のなる木①

 宮廷において、路門の内を内廷といい、外を外廷と呼ぶ。

 路門はまたの名を禁門ともいい、これより内の内廷は、限られた者しか出入りの許されないみかどの生活空間──禁中となっている。

 その禁中のもっとも外側にあるのが、帝が側近とともに政治の重要事項を決定するための朝堂である。


「おや、こんなところをが歩いている」

 聞こえよがしのちようしように、禁門をぬけて外廷へと出ようとしていたそんえんめいは足を止めた。

 正面からやってきたのは、ちようであるばいしようの父たちだ。今日の朝議はとうに終えていたが、どうやら個人的に帝へのえんけんの時間を得たらしい。

 延明は体を隅へとよけて、深々とした礼をささげる。

「家畜のなんと臭うことか」

「ほんとうに、一里さきでも騾馬は臭う」

 過ぎざま、梅婕妤の父らがそでで鼻を覆った。恥辱に指先が冷たくなる。

 騾馬とはかんがんの数あるべつしようのひとつだ。よく働くので重宝される家畜だが、生殖能力を持たない。だれが言いだしたのかは知らないが、うまいことを言ったものだと苦々しく思う。たしかに宦官そのものだ。

 ──……耐えろ。

 延明は奥歯をかみしめた。内廷を出てしまえば、このような嘲笑は日常茶飯事だった。なにせ『欠けた者』は人ではない。なかでも子孫繁栄という最も尊い徳を捨てた宦官は、家畜とひとしい存在なのだ。

わしなら、生きてはいられぬな。腐刑よりも死を選ぶ」

 ──だろうとも。

 ほうの袖で顔を隠すようにしながら、延明はくらい目で彼らを見た。

「なあ、

 最後尾を歩いていた次男が、足を止めて延明に声をかけた。

「満足か?」

 答えない延明に、さらににやりと笑って問いを重ねる。

「家畜に身を落としてまで生きながらえて、満足か? ああ、いや、身分はとりもどしたのだったか。しかしそれでもおまえが宦官であることにかわりはないな」

 延明はただただ、袖のうちに表情をうずめる。

「満足なのだろうな。なにせ男でなくなったおまえは、どの重臣よりも深く禁中にはべることができるのだから」

 足音が遠ざかる。彼らが十分離れてから、延明はふたたび歩き出した。


「ひどい顔をしているぞ」

 間近からかけられた声にハッとした。気がつけば、いつのまにか目的の場所へとたどりついていた。

 宮廷にありながら宮廷の外とされる宮──太子がくらす東宮、その院子にわである。

「殿下」

 あわてて数歩下がり、ひざをついて深々と礼をささげる。気遣わしげに延明の顔をのぞきこんでいたのは壮健な青年。東宮のあるじである太子だった。

「堅苦しくせずともいい。まずは茶でも飲まないか? しかしなぜ、いつもその服でくるのか。もう宦官でいる必要はないのだぞ」

 太子はあきれたように延明の衣服をながめた。青緑色をした、宦官特有の長袍だ。

「いいえ、身分をとりもどそうとも、欠けた者にかわりはありません」

「強情だな、はく

「……いまは延明と」

「名ももとに戻せばよいであろうに。父君らもそれを望んでいよう」

 どうだろうか、と延明は思う。

 太子のせんせいであった父は、まっすぐで誇り高い男だった。もし死者が口をきけるのなら、現在の息子を見てなんと言うだろう?

 ──名を戻せなどとは、決して口にしないだろうな。

 なにせ祖父がぎぬを着せられ罪に落とされたとき、なにを申し立てるまでもなく自死を選んだ男だ。祖父もおなじく、縄につくまえに自死を選んだ。

 ひどく苦い思いが湧く。延明は、祖父や父のようにはなれなかった。

 祖父の罪により連座で捕らえられた際、延明がしたことといえば、冤罪であると叫びつづけることだけだった。

 愚かだったといまは思う。

 真実を叫んで死ぬことが正しいのだと信じていたのだ。それが名誉と誇りを守ることだと信じて疑わなかった。

 まさか、ぎりぎりで死を免じられるなどとは夢にも思わなかった。友が──太子が、延明の助命を帝に嘆願したのだ。

 延明のあずかり知らぬところでそれは聞き入れられ、延明は死罪を減じて腐刑──性を切りとられての宮仕えの身となった。

「このままの方が殿下にも、そして娘娘ニヤンニヤンにもお役にたてるかと存じますゆえ」

 延明は、いまやすっかり仮面のように貼りついた微笑みでゆうしゆした。太子は困ったように笑う。

「それを否定できぬとわかって口にしているな? 底意地が悪い」

「そうでなくては伏魔殿で生き延びてはおれません」

「母上のもとで働いて三年目になるか。愚直ともいえるほどに真面目であったおまえがずいぶんともまれ、したたかになったようだな」

 太子はどこか満足げに言い、場所を室内へとうつした。

 書物を好む太子の居室は昔と変わらずに質素で、典籍と墨のにおいが香に勝っているようだった。

「友と飲む茶が一番うまいな」

「この私をまだ友と呼んでくださいますか」

「なにを言う。これまでも、これからも変わることはないぞ。ほんとうならば、いますぐにでも手もとに戻したいくらいだ」

 ありがたく茶のお相伴をしながら、延明はそっと視線を下げる。

 ──友、か……。

 延明はときどき、自分がこの太子を友として慕っているのか、それとも憎んでいるのかがわからなくなる。

 少なくとも友に──太子に「生きよ」と言われたあのときから、延明のなかで友という言葉の意味は変わってしまったのだ。

 生きよとは、祈りでもなく懇願でもなく、ただ逃れることのできない命令であった。

「ところで」と茶をのみ干してから、太子は問うた。「覚えているか? 病児へいじという宦官のことだが」

 延明は、胸のなかで嵐のような感情がどっと吹き荒れるのを感じた。胃の奥が燃えるように熱くなる。

「……ええ。覚えておりますとも」

 その名を忘れる日など、こようはずがない。

 病児は延明が腐刑を受けた際に、蚕室で働いていた宦官だった。

 術後、満足に身動きのできない延明に対し、宦官がいかにおぞましく底辺の生き物であるかを身をもって知らしめた相手でもある。

「彼が、なにか?」

 声が震えぬよう、つばをゆっくり飲んでのどを湿らせてから問い返す。なにを言われるのかと身構えた延明だったが、太子が発したのは意外な一言だった。

「死んだ。それも殺されたそうだ」

 なんだ、と拍子抜けした。宦官が殺されたということは内廷での事件なので、決して喜ばしいことではないが、殺されて当然だという思いがあった。病児は多くの宦官を蚕室から送りだし、そしてその前後には多くの屈辱的なりようじよくをくわえていた人物だ。買ったうらみはひとつやふたつではきかないだろう。

「それはそれは」

「殺したのは、かんかんという宦官だそうだ」

 その名にこそ、延明はきようがくした。


    ***


「あ」

 後宮において最高の地位にある女主人を前にして、とうはもっともその場にそぐわない、まぬけな声を上げた。

 視線の先にあるのは、すそからのぞいている自分のつま先──が踏んづけている、絹のはくだ。

 もちろん自分のものであるはずがなく、天女の羽衣のごとくひらひらと長い絹は、驚いてふり向いた梅しようの肩へとつづいている。

 院子で散策をしていた婕妤につき従っていたはずが、歩きながらうとうとしていたらしい。風でながれてきた披帛に気がつかず踏んでしまった。

 とんでもない失敗に、サッと血の気が引く。梅婕妤はなにもなければ特に問題のある主人ではないが、不快を覚えたことには一切の容赦がない。先日も、輿こしを担いでいたかんがんつまずいたせいで揺れたとして、むち打ちにされたばかりだった。

「婕妤さま!」

 梅婕妤がなにかを言うより早く、動いたのはさいだった。

 硬直している桃花を突き飛ばしたかと思うと、そのまま披帛のはしを拾いあげ、婕妤の肩から巻きとってしまう。

「さ、才里?」

「婕妤さま、これで大丈夫でございます!」

 あっけにとられている婕妤に、才里は深く頭をさげる。

「臭いの強い虫が披帛にとまっておりましたが、もうご安心ください。桃花が退治いたしました。こちらは臭いがついているといけませんから、新しいものをすぐにお持ちいたします」

 桃花がぽかんとしていると、才里は「ほら、ちゃんととどめを刺しなさい!」と𠮟しつせきして、桃花の足もとあたりの地面をぐりぐりと踏みにじった。もちろん、虫などどこにも存在しない。

 ささっと土をかけてごまかしたあと、才里は桃花の手を引いてその場を後にした。

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