第一章 死王①

「実にくだらない」

 すみつぼに蓋をし、いましがた書き上げた文書の乾きを確認しながら、そんえんめいはやわらかな笑顔で吐き捨てた。

「怪談に事欠かない後宮とはいえ、こうとうけいな事この上ない。だれです、そんな幼稚なつくり話を広めたのは」

 つくえの脇で縮こまるのは、延明の小間使いである童子だ。

「わかりません。でも孫尚書、夜い回る小さな影を見たという者がたくさんいるらしいんです……」

えきていはなにをしているのでしょう。流言飛語の犯人などさっさと調べあげて、始末してしまえばよい」

 延明はまだおびえた顔の童子ににこやかに告げ、筆をかせて立ちあがる。文書のしかるべき行先については他の官に任せ、尚書室を後にした。

 昼でも薄暗い尚書室とは対照的に、外はまぶしくよく晴れていた。春らしいやさしい風が、唯一肌を露出した頰をなでる。植えられた紅梅は青空のもと満開だった。

 かいろうの欄干からその一枝に手をのばしたとき、背後で人の気配とともに、ギシと床板が音をたてた。

「始末だなんて言いぐさ、あぁ怖い怖い。さすがは中宮尚書・孫延明、ようかいだといわれるだけのことはある」

 ふり返れば、立っていたのは予想通りの人物だった。つるりとしたはくせきの肌に大きな目。特徴的なのはそのひとみの色だ。まるでこの快晴の空を写しとったかのように、澄んだ青をしている。彼は北方より宮中に献上された異民族だった。

「狐狸妖怪ではなくせいです。勝手に人を妖怪に仕立てないでください、てんせい

 延明は狐精──美しい妖狐とたとえられるそのがんぼうで、やわらかに笑んでみせる。この、穏やかに見えつつどこかあやしげな『妖狐の微笑み』は延明の代名詞だ。

 点青は可笑おかしいとばかりに鼻を鳴らす。

「狐精も妖怪も大した違いはないだろ。むしろ狐精のほうがよっぽどたちが悪い。なにせ狐精は男に化けて女性と交わり、精気を吸うという。〝中宮娘娘こうごうさまのお気に入り〟に対するこの上ないだ」

「まあそうですね。とくに『男に化けて』というところが、なんとも我らかんがんを侮辱するのに適していて面白い」

 笑みを深めると、点青は「おー怖っ!」と楽しげに肩をすくめて見せる。

 延明が「我ら」と言った通り、点青も延明自身も、そして延明につき従う童子に至るまで、性をとり払われた浄身──宦官だった。

「ところで、何用なのです? ほんとうの〝中宮娘娘のお気に入り〟であるあなたが、そんなくだらない話をするためにこちらへ?」

「ああ、娘娘ニヤンニヤンがお呼びだと伝えにきた。怪談がらみで頼みがあるらしい。さっきおまえのところの童子も怖がってた、あの幽鬼の話さ」


 死王が生まれた。

 それが現在、だいこう帝国の宮城──なかでも皇帝の女たちを囲う後宮をにわかに騒がせている怪談である。

 いわく、先だって謀殺された後宮のひんが犯人をうらみ、死後に赤子の幽鬼を産み落とした。幽鬼は母の怨みを晴らすため、謀殺の首謀者をさがして夜な夜な後宮を這いずり回っているのだという。

 この赤子は男児であり、無事生まれていればいずれは王に冊封されたことから、だれともなく『死王』と呼びはじめたのだとか。

「だいたい、おかしいではありませんか。自身めらがもうりようの伏魔殿にくらす妖魔でありながら、たかだか幽鬼を恐れるなど」

 中宮、あるいは北宮とも呼ばれる皇后宮の正殿へと急ぎながら、延明は愚痴をこぼした。

「こらよせ。だれかに聞かれたら獄送りになるぞ。それに断っておくが、娘娘は怪談を恐れたりはしていない。大家ターチヤになんとかしてくれと泣きついたのは妃嬪たちのほうだ」

 皇后宮の正殿・しようぼう殿でんへと間もなくたどり着く。椒房殿と皇后の文書係りである中宮尚書の執務室は、そう離れていない。

 皇后きよは正殿の御座にて、延明を待っていた。きんらんじゆくんにゆったりとしたうわぎを重ね、高く結ったもとどりに金冠をのせた姿は威容に満ちている。四十に差しかかりながらも衰えを知らぬ美貌もまた、見る者を圧倒した。

 延明は深いゆうれいで顔をかくしながら、皇后の前へと進み出る。御座の前でりようひざをついて、ひたすらに身を低くした。

「ごあいさつ申し上げます、娘娘」

「免礼。面をあげよ」

 許されて顔をあげる。皇后のお気に入りである点青は、すでに皇后の脇へと侍っていた。

「昨夜、みかどがいらした」

 前置きやわずらわしいあいさつを省いてはじまった話の内容に、延明は「お、」と思った。

 許皇后は皇太子を産んで以来の二十二年間、ほぼくうけいをかこつ身だ。皇帝は義務は果たしたとばかりに側室である後宮たちをで、特に現在、後宮最高位であるばいしようちようあいしている。

 おかげで許皇后の地位は皇太子を擁しながらも不安定で、本来であれば妃嬪たちを従える立場でありながら、いまや後宮は梅婕妤にすっかり掌握されているのだが、それが、夜に皇后のもとをおとなったとは。

「なんでも、ここ数日に広まった幽鬼の目撃談のせいで、後宮の夜警がままならぬのだそうだ。不寝番すら泣いていやがる者がいるという。よって、こちらから人手を派遣し夜警の支援をするようにとの命であった」

 なんだ、と内心で延明は落胆した。ねやを訪ったのではなく、後宮で妃嬪をお楽しみになったあとの帰り道、それを命じるために立ち寄っただけのようだ。しかも内容からして、妃嬪の閨で泣きつかれた内容をそのまま持ってきたのではないだろうか。

 いったいそれをどんな思いで承ったのか。延明は許皇后をひっそりとうかがったが、彼女の美貌はいつもの鉄面皮で覆われ、その感情をうかがい知ることはできなかった。

「ではそのお役目を私に、ということでございますね」

さいは任せた。今夜から頼む。──なぜそちなのかはわかっているだろう?」

「もちろんでございます」

 延明は表向きの命、そして言外に求められた仕事、両方に対して承諾の礼をとった。


    ***


 春の宵は白梅の香りに満ちている。

 冷たい夜風がほのかに甘くはかない香りを運んでくるなか、延明は六名の部下を連れて後宮の門を目指した。

「なぜ、我らがこのようなことを……」

 部下のひとりが手提げ灯ろうを掲げて歩きながら、ぽつりとこぼす。肩をすぼめてきょろきょろと落ちつきのない歩き方をするので𠮟しつした。

 前かがみでまたといえば、尿意の調整が利かない宦官の特徴的な歩きかたではあるが、延明の部下にそういった情けない姿勢をする者はいない。ようは恐ろしいのだろう、この先にある、幽鬼がうという暗闇が。

「よいですか、幽鬼など存在しません。しゃんとなさい」

「しかし延明さま……目撃したという下級宦官やぼくがたくさんいるんですよ」

「見まちがいでしょう。おかしなうわさが立っているから、枯れた尾花の影でさえ幽鬼に見えるのです。そもそも美人がどうして謀殺されたことになっているのですか? あの方はよくある産前死でしょうに」

 死王を産んだとされる妃嬪の名を李美人という。李が姓、美人は階級をあらわす。

 彼女は妊娠ななつきを迎えた妊婦であったが、これに不審なところはなかったと医官によるけん結果が出ていた。すなわち、毒症状や外傷はなかった、と。

 子を身ごもった妃嬪が謀殺されるなど珍しくもない話ではあるが、それ以上に珍しくないのが、妊娠や出産にともなう死である。李美人は以前から妊娠中毒による全身しゆや、はげしいどうが確認されていた。つまり病死だ。

「おかしなうわさに惑わされてはいけません、我らはこれから後宮女官とともに夜警に臨むのですよ。娘娘の期待に沿わなくてはなりません。わかっていますね?」

 部下たちひとりひとりの顔を見て、念を押す。みな宦官だが、どれもよく整ったきれいな顔立ちをしていた。そういう者を厳選した。

「これは好機です。大家に泣きついたのはあの梅しようだというではありませんか。おかげでこうして堂々と後宮に乗りこむことができるのですから、なんとも皮肉で気味のいい話ではありませんか」

 さえざえとした月影のもと、延明はようえんに微笑んで見せた。

 暗闇に乗じて女官を誘惑し、後宮のじようを切り崩すための内通者とせよ。それが延明たちに与えられた真の任務である。

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