真心話
「あはは! それで? アマンダはどうしたの?」
「そりゃ逃げたに決まってるさ。そうだろ? 小鈴」
林家のダイニングで、林媽媽と芙蓉姐に一連のことの顛末を報告し——ふたりが大笑いしている原因は、アマンダだ。
篠塚さん帰国のあの一報からはじまった騒動は、じつのところ、一時帰国を帰国と聞き間違えたアマンダの大いなる勘違いの賜だった。
本当にアマンダの勘違いだったのか、それは、定かではない。もしかしたら、月老がなにか細工をしたのかもしれないが、それはともかくとして。
原因はなんであれ、曉慧が自分の気持ちに素直になれて、篠塚さんとの未来を考えるようになったのだから言うことなしだ。
ただ、申し分のない結果を得られたにも関わらず、曉慧の怒りは、それはそれは大変なもので。
篠塚さんとの短い別れを惜しみつつ手を振り見送ったあとで、振り返った曉慧の怖いことといったら、悪魔や妖怪が恐れをなして逃げるのではないかと思ったほどだった。
「あんたたち……騙したわね?」
「なんのこと?」
「とぼけるんじゃないわよ! 誰? 修が帰国するなんて大嘘ついたのは!」
「えっ?」
帰国するんじゃなかったの? わたしは咄嗟にアマンダを振り返った。
「ア、マ、ン、ダ? あんた——」
身の危険を察知したアマンダの行動は素早い。曉慧の鬼の形相を見た途端、身を翻したかと思うと、脇目も振らず逃げだした。
「こらっ! 待ちなさいよ!」
待てと言われて待つお人好しがどこにいる。アマンダ……慣れているね、と、状況も忘れその逃げっぷりに感心してしまった。
「もういいじゃない。アマンダだって悪気があったわけじゃなし。曉慧を心配しすぎて、うっかり勘違いしちゃっただけだよ」
「うっかりって、アマンダはうっかりしすぎよ! それに……」
曉慧が、自分の出で立ちを見下ろした。普段のお洒落さとはほど遠い夜市で買った怪しいキャラクターTシャツにジャージのショートパンツ。足元はこれまた見事な突っかけ履き。髪は先ほどゴムで結わいただけ。
これは、たしかに酷い。酷すぎる。
お洒落に無頓着なわたしですらあり得ない着の身着のままスッピンで、人波を縫い、街を突っ切り、電車に乗り、空港を走り、搭乗口前という人の集まる公の場で、ラブシーン同様の行為を繰り広げたわけで。
「あの曉慧が部屋着のまま、空港へ行ったわけよねぇ」
「わはは。さすがの曉慧も形振り構っちゃいられなかったんだろうよ」
「それにしても、部屋着で突っかけってさー」
これは、末代までの語り草だね、と、大笑いしているこの人たちにかかったら、末代以前。
明日には立派な尾ひれがつき、感動の大ロマンスとして近所中に広まること請け合いだ。
曉慧——お気の毒に。
「なにはともあれ、収まるところに収まって、あたしゃホッとしたよ」
「そうだよねー。あの意地っ張りのおかげで、周りがどれだけヤキモキさせられたか。このツケ、たっぷり払わせてやるんだから」
「ハハハッ! なにを言ってるんだい! あんただって曉慧と似たようなもんだったじゃないか」
「媽!」
「私は恋愛なんかよりキャリアなんちゃらのほうが大事なのとか、口を開きゃ偉そうにわけわかんない屁理屈ばっかりでさ。そうかと思えば、詠健とくっつくのくっつかないの大騒ぎだろう? 結局なんのことはない、あっさり仕事辞めて結婚しちまうんだもの。振り回されたこっちはどれだけ胃の痛い思いをさせられたかってねぇ」
「媽! 私はそこまで大騒ぎしてないわよ?」
「おや? 都合の悪いことはみんな忘れちまったってのかい?」
「ああもうっ! 覚えてるわよ! 覚えてるからもういいでしょう?」
あんたも親になればあたしの気持ちがわかる。ちょっとは感謝して、先輩の助言はありがたく聞くもんだよ、と、得意げに笑う林媽媽を恨みがましく一瞥した芙蓉姐は、それでもうれしそうに笑っている。
曉慧と篠塚さんの恋の行方に、周囲がどれほど気を揉んでいたか。だからといって周りが口や手を出しても余計なお節介。結局は、当の本人が行動を起こさなければなにもはじまらないのだ。
紆余曲折あったけれど、うれしい結論を得て、自分のことのように喜ぶ人々の温かさに囲まれて曉慧は幸せだ。
そしてなにより、自分と篠塚さんだけではなく周囲の人たちをも含めた将来を真剣に考え、行動した曉慧は、頑張った。
林媽媽と芙蓉姐母娘の忌憚のないやり取りに時々口を挟みながら、わたしは思った。
心からの望みを叶えたいのなら、体裁や恐れを捨てて、ひたむきに努力しなければならない。
わたしだって、真摯に向き合わなければいけない、と。
「曉慧もついにお嫁さんかぁ。結婚式どうするんだろう? こっちでやるのは当然として、日本でもやるのよね? そうだ! 結婚式ツアー組んで日本旅行ってどうよ? 日本の結婚式ってやっぱり和服? だったら私も絶対和服着るわ! ね? いいアイデアだと思わない?」
「……ったく、なにがいいアイデアだよ? あんたが遊びに行きたいだけじゃないか」
「芙蓉姐、それ、気が早すぎじゃない?」
「そんなことないわよ。曉慧と修の結婚だもの。みんなで祝福するのは当然だし、曉慧は有言実行の権化よ? あっという間にゴールインしちゃうに決まってるんだから、いまから計画立てたって遅いくらいだと思うわ」
「まあ、それは、言えてる……か」
「でしょう?」
日本の結婚式はどこで挙げるのか、衣装は、招待客は、と、芙蓉姐の質問攻めがはじまった。
そんなことを訊かれても、わたしはまだ二十二歳。結婚には早すぎる年齢だ。
日本での友人知人はそれなりにいるけれど、わたしの周囲も、まだ誰も結婚していないから、知っているのはせいぜい一般に出回っているイマドキ流行の情報くらい。
日本人なのになぜ知らないのかと責められる前に、まずは、日本の結婚事情から説明する必要がありそうだ。
よくよく訊いてみれば、台湾の結婚平均年齢も、日本とそう変わらず。ただし、結婚式事情は、ちょっと聞いただけでもかなり違うみたいだ。
わたしは、カイくんとの婚礼儀式しか知らないが、あれは特殊だし、あんなのはものの数には入らないと言われ。
芙蓉姐曰く「台湾の結婚式は、面白いわよー」だそうで。曉慧の結婚式が楽しみになった。
「幸せなのはいいことだよ。ただ、送り出すのは、やっぱりちょっと寂しものがあるよねぇ」
心なしかしんみりと、林媽媽が言う。
「そうねぇ。曉慧が日本へお嫁に行っちゃったら、お隣は小父さんと小母さん、ふたりきりになっちゃうもんね」
「親のお守りさせるために産んだわけじゃないからね。どこへ行ったって、一生会えないわけじゃないし。子供が幸せならそれでいいのさ。まぁ……あんたみたいに居座ってる娘もどうかと思うけど?」
「媽!」
「でもね、いまとなってはさ、こんな生意気なわがまま娘でも、いてくれてよかったと思ってるんだよ」
事情さえ許すなら、やっぱり家族は一緒が一番さ、と、林媽媽が少し寂しげに笑った。
娘は嫁に行き、夫の身内と新たな家族になる。それは、家族が増えると同時に、別れも意味しているのだ。
結果的に、詠哥が料理人で、芙蓉姐とこの家で暮らし、一緒にお店を切り盛りしているからいい。でも、もしも芙蓉姐の結婚相手が別の人で、離れて暮らすことになっていたら。
カイくんが亡くなってしまったいま、林媽媽はひとりこの家に残り、お店だって、いつまでひとりで続けられるのかわからなかったのだ。
生きているカイくんとわたしが結婚し、わたしがこの家のお嫁さんになる未来はもうない。
けれども——。
「わたし、林家のお嫁さんになりたい」
そう。わたしは、カイくんとずっと一緒にいたいだけじゃなくて、この人たちと『家族』に、なりたい。
「小鈴? 突然どうしたの?」
「急になにを言い出すかと思ったら、あんたは……」
ふたりが目を丸くした。
「林媽媽、芙蓉姐。わたし、カイくんと結婚したんだよね? だったら」
「それはいけないよ。小鈴」
林媽媽が静かではあるが少しだけ厳しい口調で、わたしの言葉を遮った。
「いいかい? 小鈴。たしかにあんたは阿海と結婚式を挙げてくれた。阿海の望みを叶えてくれて感謝してるし、無理言ってもうしわけないとも思ってる。だけどね、あれはあれこれはこれだ。式を挙げたからって、あんたがウチの嫁になる必要なんてどこにもないんだよ」
「そうよ、小鈴。私たちに気を遣う必要なんてこれっぽっちもないのよ」
「違うの。気を遣ってるとか、そういうのじゃないの。わたしはただ、林媽媽と芙蓉姐の家族になりたいの」
男女の縁は、すなわち、家族の縁。
わたしがこの家のお嫁さんになる。それは、わたしが新しい家族を得られること。
カイくんと結婚し、大好きな林媽媽や芙蓉姐の家族として、ずっとこの家で支え合い苦楽をともにする。
いまならはっきりとわかる。わたしは、家族が欲しかったんだ。
月老のミッション——わたしに真の望みを叶えろと言ったあの言葉の真意は、これだったんだ。
「林媽媽。芙蓉姐。わたしは自分の気持ちが、わかってなかった。カイくんと結婚式を挙げたのは、林媽媽に頼まれたからでもカイくんの気持ちに応えたかったからでもなかったの。わたし、カイくんが好き。だから、お嫁に来たかったの。カイくんと結婚して、林媽媽や芙蓉姐に家族として受け入れられたかっただけだったの」
最後の声は、嗚咽混じりになってしまった。自然と涙が溢れ、止まらない。
「小鈴の気持ちはうれしいよ……でも」
「そうだよ。小鈴。それはダメだ」
「わたしじゃダメなの? どうして? 両親もいなくて、実家もあるとは言えないわたしじゃ、林家のお嫁さんに相応しくないから?」
篠塚さんと別れようとした曉慧の気持ちも、今ならわかる気がする。
育った環境や生活に違いのある結婚には、立ちはだかる障害が多い。だから、似たような環境の者同士が結ばれるのがよい。これは、小母さんたちの噂話からもよく耳にする話だ。
だからって、早くに亡くなった両親を恨みはしないし、わたしを引き取って育ててくれた叔母には感謝もしている。
けれども、叔母や叔父、従兄弟たちがわたしを気遣ってくれても、ふとした弾みに笑い合っている彼らを見てしまうと、やはりわたしは他人なのだと思い知らされる。
ひとりぼっちだからこそよけいに、誰とでも仲よく、明るく、前向きにと頑張った。けれども、ふと気づけば、いつでもどこかで線を引いて遠慮してしまっていたのだ。
「そんなことを言ってるんじゃないよ。小鈴、あんたはいい子だ。素直で、あたしたちをとっても大事にしてくてる。あたしだってあんたが嫁に来てくれたらとずっと思ってたさ。でもダメなんだよ。だって——阿海はもう、いないんだからね」
林媽媽が、苦しそうに眉間に皺を寄せ目を閉じた。
「カイくんは——カイくんは——いる! ちゃんといるの!」
「小鈴?」
「ほら、いまだってここに……わたしのすぐ横にいるの! ねえ、カイくん。林媽媽と芙蓉姐がわかるようになにかして? 大きな音を立てるとか、なにかを倒すとか、できることたくさんあるでしょう? カイくんはここにいるんだよって、証明してよ!」
水を打ったような静けさのなか、わたしとカイくんが睨むように見つめ合う。
交わるカイくんの視線は、哀しそうに、それでもなにかを言いたそうな色を湛えている。
だがそれもつかの間。視線を逸らしたカイくんは、拳を握り締め、わたしから顔を背けた。
カイくんは、わたしの想いに、応えてくれなかった。
カイくんもわたしと同じ気持ちなのだと信じていたのに、それはわたしの独り善がりだったのか。
「小鈴。この話はもう終わりにしよう? 小鈴の気持ちは、わかったから。だからね?」
「芙蓉姐、違うの。カイくんは本当にいるの。カイくんは霊魂になっちゃったけど、毎日どこでなにをするのも一緒で、たくさんお喋りもして——信じられないだろうけど、本当のことなの! 嘘なんかじゃないの!」
テーブルの上で色が変わるほどきつく握り締めていたわたしの手に、林媽媽が手を触れた。カサカサして少し堅い、温かいその手が、わたしの手を解すように撫でている。
「小鈴。いいかい? よくお聞き? あたしはね、あんたを娘だと思ってる。これは、嘘じゃないよ。あんただって本当はわかってるだろう? 阿海の霊魂がいるかいないかなんて、どうでもいいんだ。あの子はもう死んで、この世にはいないんだからね。でも、あんたは生きてる。若くて、健康で、未来があるんだよ。これから先いくらだっていい相手に巡り会えるさ。結婚して、たくさん子供を産んで、新しい家族と幸せになるんだ。だから、あんたを嫁にはできない。あたしはね、小鈴。あんたにちゃんと幸せになってほしいんだ。小蓉だって同じさ。これが、あたしたちの望みなんだよ」
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