林家魯肉飯

「スイゴニュ、リハ」

チェンさん、こんにちは。いらっしゃいませ」

「&%*$$#@??@@>~?¥?!——」


 台北に住み、語学学校に通い早九ヶ月。まだまだわからない言葉も多いけれど、中国語の日常会話にはある程度慣れたつもり。しかし、台湾語でまくし立てられたら、もうお手上げだ。


小澎シャオポン! あんたまた!」


 林媽媽が助けに来てくれた。


 タクシー運転手の陳さんは、林媽媽の弟だ。なにが楽しいのかわたしと顔を合わせるたびに、台湾語を捲し立ててからかってくる。

 悪気がないのはわかっているのだけれど——わたしはこの小父さんが、ちょっと苦手だ。


ヂェー。ちょっと挨拶しただけだよー」

「まったくあんたは毎度毎度飽きもせずになにやってるんだい! 小鈴が困ってるだろう? 小鈴、あんたと曉慧のお昼ご飯用意してあるよ。こんなの構わなくていいから、さっさとご飯お食べ」

「うん。ありがとう、林媽媽」

「ありがとうは言わなくていいって、いつも言ってるだろう? まったく、小鈴はいつまでも他人行儀でしょうがないね」


 カイくんの葬儀のあと一週間も経たないうちに、林媽媽はお客さんが待っているからと食堂の営業を再開した。

 きっと忙しくしているほうが、寂しい気持ちが紛れるのだろう。わたしですらそうなのだから、林媽媽がカイくんを失った寂しさを、そんなに容易く乗り越えられるわけがない。

 近所の人たちもお店のスタッフも常連さんもみんな、林媽媽の気持ちを察し、応援してくれている。



 飲食店や商店と住宅が混在し、生活感溢れる大安ダーアンエリアの一角に、林家魯肉飯はある。

 飾り気のない店内は、レトロなテーブル席が並んでいるだけ。よくある下町の食堂といった風情の店構えだが、味はお世辞抜きで格別。なかでも店の看板料理である魯肉飯ルーローファンは絶品で、観光ガイドでもたびたび紹介されているほどだ。


 当然ながら、ランチタイムは戦争状態。林媽媽やほかのスタッフが走り回っているなか、芙蓉姐も店先で汗を拭いながら、持ち帰り弁当の注文をひっきりなしに受けている。

 無理をしないほうがいい、アルバイトを雇いなさい、と、周囲に説得されても林媽媽はけっして聞き入れない。

 そこで、カイくん亡きいま、午後からの時間を持て余しているわたしは、お店を手伝うと申し出た。


 客足が落ち着く午後二時過ぎ、やっとスタッフが食事にありつける。

 わたしは厨房で小鈴特製ランチと揶揄される魯肉飯セットと曉慧の料理が乗ったお盆を受け取り、定位置を目指す。

 テーブルでは、読みかけの本を脇に置いた曉慧が、早く来いと手招きしている。曉慧が待つのはもちろん、わたしではなく鶏肉飯ジーローファンだけれど。


「あー、お腹空いた!」

「お待たせしました。鶏肉飯と青菜炒め、魚のつみれスープです。ごゆっくりお召し上がりください」


 高級レストランのウエイトレスを真似た口上と一緒にお盆を置くと、曉慧にじっとり白い目で睨まれた。


「もう! ふざけないでさっさと座ってよ。冷めちゃうじゃない」


 よほどお腹が空いているのか、少々ご機嫌斜めのようだ。


「曉慧。こんな時間なのにまだお昼ご飯食べてなかったの?」


 曉慧がビニール袋から取り出した箸の先を、とんっとテーブルに打ちつけた。


「それがさぁ、私、今日は休みなのに会社から呼び出されたのよ。なにか重大なトラブルかと思って慌てて行ったらなんのことはない、同僚の些細なミスでさ。だったらあの子を呼び出せばいいのに、連絡がつかなかったから私って、なによそれって感じ!」


 曉慧はカイくんと同じ二十四歳、わたしより二歳年上だ。カイくんとは家が隣同士で、幼稚園から大学までずっと一緒の幼馴染み。よく言えば兄弟、わるく言えば、これ以上ない腐れ縁だと曉慧は笑う。


 わたしが曉慧とはじめて会ったのは、カイくんと出会ったあの日。カイくんに日本語で「オレの彼女だよ」と紹介されたのに——。


 林媽媽に言われ、最近になってやっと確かめたところ、曉慧曰く、幼少期より何度か告白はされたが、付き合った覚えは一度もないのだそう。

 だからあれは、カイくんの希望的観測、あるいは、日本語を間違って使った、そのいずれかだ。


 そうとも知らず、わたしはあっさりその言葉に騙されてしまったのだが。


「小鈴、お店はもういいのよね? これ食べ終わったらすぐに行くよ」

「え? 行くってどこへ?」

「はぁ? あんた、なにを言ってるの? 今日は九月十三日、農暦の八月十五日、中秋節、月老ユエラオの誕生日だよ! お参りに決まってるでしょうが!」

「月老の誕生日って?」

「だ、か、らぁ! 月老の誕生日はすごく御利益の高い日なのよ。お参りに行かないでどうするの?」


 月老——月下老人は、紅い糸で良縁を結んでくれる、独身男女にとってもありがたい神様だ。


「曉慧、またお参りするの? ついこの間行ったばかりなのに?」


 よく煮込まれた豚肉とご飯をバランスよく箸に乗せひとくち。うん。おいしい。


「いいのよ! 幾度お参りしたって! どうせ相手はひとりなんだし……」

「うん?」

「あ? ああっ、なんでもない。独り言だから気にしないで」

「ふうん?」


 ほんのりと染まった頬を隠すように、そっぽを向いて鶏肉飯をかき込んでいる曉慧の様子がおかしくて、つい笑ってしまう。


「わ、笑ってんじゃないわよ! あんただって今日はちゃんとお参りするんだからね」

「えぇえ? わたしはいいよべつに……」

「あのさあ……」


 曉慧がテーブルに茶碗と箸を置いてため息をつき、真面目な顔でわたしに向き直った。


阿海アーハイのことがあってまだ日が浅いから、そんな気にならないのはわかるわ。私だって辛いのは一緒よ。でもね、小鈴。冷たく聞こえるかも知れないけど、死んだ人はもう戻ってこないのよ」

「曉慧……」


 正直なところ、カイくんに恋した気持ちは、原因はなんであれ失恋し、いつの間にか友だちや家族への愛情と同じような気持ちへ変わった、と、わたしは思っている。

 だからけっして、カイくんを忘れられないから新しい恋ができないのではない。


 ただ、カイくんの気持ちを思うと、そんなことを考えるのはまだ早く、自分勝手な気がして、もやもやと割り切れないだけなのだ。

 それ以前に、いまは留学中の身。恋愛どころではないのも本当だし。


「まあいいわよ。いますぐどうこうってことじゃなくてもさ。ただ、出会いっていつどこであるかわからないでしょ? だからお願いしておくことが大切なの。それは、わかるよね?」

「うん。まあ……」

「わかったらさっさと食べて行くわよ」

「……わかった」

「あ、そうそう。その折りたたみ傘、縁起悪いから置いて行くのよ!」


 愛用のトートバッグから顔を出している折りたたみ傘を、曉慧が箸で指した。


「え? でも、天気予報では雨が……」

「そんなの関係ないわ。あんたのせいで私の縁が散じたら、一生恨むからね」


 ギロリと睨まれた。


「…………」


 中国語で傘はサンと発音する。まったく同じ音調ではないけれど、離散の散も同じサン。

 こちらのひとたちは、ダジャレのようなかけことばで、縁起担ぎをするのだそうで。


 知らなかった。月老のお参りに傘が禁忌とは。

 それなら、いままでのお参りはやはり——うん。傘は持っていなかったことにしよう。

 心のなかで許せと、手を合わせた。

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