第7話 その日の夜、入浴中のこだま

「変な奴……本当にダメな犬だったわね……」


 夜、湯船に浸かりながら天井を見上げていたこだまは、口にしている言葉とは裏腹などこか愉快気な口調でそんな呟きを漏らしていた。


 思い返すのはハンバーガーショップでのやり取りと、今日出会ったばかりの駄犬が言ってのけた馬鹿みたいな返事。

 まさか本当にと犬の鳴き声で自分に応えるだなんて……と考えたところで、クスリと微笑んだ彼女が浴槽の縁に肘をつきながら小さな声で呟く。


「いい奴だったな、あいつ……単純で、お人好しで、こんなあたしの話を怒らないで聞いてくれる、底抜けに優しい馬鹿だ」


 目を細めて嬉しそうに笑いながら、感情の籠った声でそう狛哉を評したこだまがゆっくりと瞳を閉じる。

 朝の出来事は最悪だったし、自分の醜態を目撃した男とクラスメイトになって、しかもとても近い席になった時にはどうしようかと思ったが、その男が正真正銘のお人好しでよかったと、狛哉に対する感謝を心の中で抱いた彼女はそこで目を開くとため息を吐いた。


「……もう少し、優しくしてあげればよかったな」


 自分がプライドの高い面倒な性格をしていることはこだまもよく理解している。

 周囲の人たちからの優しさに素直になれず、作らなくてもいい敵を作り続けて、その癖独りぼっちを寂しがったり、強がってできないことをできると言い張ってしまうのは本当に良くない部分だと、彼女自身も自覚していた。


 狛哉には痴漢の対処なんて簡単だと言ったが、それもそういった性格のせいでつい言ってしまった嘘だ。

 初めてのバス通学で、直接でないとはいえ見ず知らずの男に体を触られるという事態に直面したこだまは、恐怖でただただ身を竦ませることしかできなかった。


 不躾な視線を向けられることもコンプレックスである体型をからかわれることも相応に経験していた彼女であったが、それと体を実際に触れられるというのでは感じる恐怖の度合いが違う。

 痴漢の被害に遭った時、自分なら絶対に大声を出して犯人をとっちめてやろうと思っていたが……実際は何も抵抗できず、耐え続けることしかできなかった。


 だからなのだろう、狛哉にその窮地を救ってもらった時に強がってしまったのは。

 頭の中に思い浮かべていた強い自分と、弱々しい実際の自分自身との差を自覚してしまったからこそ、彼に助けは要らなかっただなんて言ってしまったのだと思う。


 本当は怖かったし、助けてもらえて嬉しかった。素直にその気持ちを伝えて、彼にありがとうと言える性格だったならどれだけ良かっただろうか。

 意地っ張りで、我がままで、暴力的で、どこまでも素直になれない自分自身のことはあまり好きになれない。

 だからこそ、こんな自分のことを気遣ってくれる狛哉の言葉が、存在が、こだまにはありがたく思えていた。


「……言えるかな? 明日は、ちゃんと。助けてくれてありがとうって」


 痴漢から庇ってくれたことも、自分が被害に遭わないように守ってくれようとしていることも、本当は凄く感謝している。

 その気持ちをきちんと言葉にして、狛哉に伝えることができるだろうか?


 ……多分、無理だ。そう簡単にできたら、こんなに悩んでいない。

 だけれども、せめて少しくらいは彼に優しくしてあげられたらなと、直接は言えずとも行動で感謝を示すことくらいならできるはずだとこだまは思う。


「ありがとう。本当にありがとうね、ハチ……」


 今、浸かっている湯のような温もりを感じさせる声で、この場にはいない狛哉へと感謝を伝えるこだま。

 いつかこの言葉を彼に直接言えるようになれたらいいな……と考えながら、高校生活で初めてできた友達のことを考える彼女は、柔らかな笑みを浮かべて心地良い微睡に身を預けるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る