(自称)ご主人様は僕にだけデレてくれる

烏丸英

第1話 ハチ公、ご主人様と出会う

 八神狛哉やがみ はくやがそれを目にしたのは、高校の入学式を迎えた朝のことだった。

 人で混み合っているバスに揺られていた彼は、すぐ近くに立っている少女が自分と同じデザインのブレザーを着ていることに気が付き、彼女のことを見やる。


 ボリュームのある暗い橙色の髪をツーサイドアップに纏めたその少女は、首に巻いたリボンの色から察するに自分と同じ新入生であるようだ。

 十五歳の女子にしてはやや背が低く見える彼女であるが、ブレザーの胸部分がその体格に見合わない膨らみを主張していることを見て取った狛哉は自分の不埒な行動を恥じるように視線を逸らそうとして……異変に気が付く。


 百五十cmにも満たないであろう少女の背後、そこに立つサラリーマン風の男性が手にしている鞄の角が彼女の尻に当たっている。

 最初は偶然か、あるいは男性の方も気が付いていないのかと思った狛哉であったが、すぐ近くに見える少女の横顔が歪み、小さな呻きを発したことでこれはそういう問題ではないと考えを改めた。


 あれは故意の痴漢……直接的な接触を避けることで偶然を装い、告発されたとしてもわざとではないと言い逃れするために彼女の尻に鞄を押し当て、その感触を楽しんでいるのだと、狛哉は男性の行動を悪意を持ってのものであると判断した。

 だが、ここで声を上げたとしても先に述べた通り偶然だと言い逃れされる可能性が高いし、もしかしたら本当に偶然だということもあり得る。


 僅かに悩み、逡巡し、決断を迷った狛哉であったが……意を決すると、バスの揺れに合わせて一歩前に踏み出し、男性と少女との間に割って入るように体を滑り込ませた。


「うっ……!?」


 突然、自分の目の前に割り込んできた狛哉の顔を見た男性が驚きの表情を浮かべる。

 仏頂面を浮かべ、冷ややかな視線を真っ直ぐに自分へと向ける彼の姿は、痴漢という犯罪行為を働いていた自覚のある人間にはひどく堪えるものだろう。


 狛哉の身長が平均よりも高く、人によってはその無表情が恐ろしく見えることも男性をたじろがせる大きな要因だったかもしれない。

 獲物である少女から引き剥がされ、自分の犯した罪を見透かしているような顔をした男子高校生に睨まれた男性は狛哉の視線から逃れるようにそっぽを向くと、必死に彼を意識していない風を装い始めた。


(これで大丈夫、かな……?)


 心の中ではびくびくしていたのだが、それを顔に出さずに痴漢の魔の手から少女を助けることができた狛哉が小さく安堵の息を吐く。

 そうした後、僅かに振り向いて背後に立っている少女の様子を窺ってみれば、同じくこちらへと視線を向けている彼女と目が合った。


「……っ」


 もう大丈夫だとか、安心していいよだとか、そういった気の利いた言葉を口にすることもできずにただ彼女と視線をぶつかり合わせる狛哉。

 少女の方はというと、痴漢から自分を守ってくれたはずの彼に対して複雑な感情を滲ませた表情を見せた後、ぷいっとそっぽを向いてしまった。


 気まずいな、と狛哉は思う。

 彼女からしてみれば痴漢に尻を撫でられていたところを同級生となる男子に見られていたということになるわけで、それを恥と思うのは決しておかしな話ではない。

 感謝されたかったわけでもないし、何かを期待していたわけでもないが、こういう時に女の子にどう接すればいいのかがわからない彼は、自分が助けた少女に何を言うわけでもなくバスに揺られ続け……目的地であるバス停で、彼女と一緒に車から降りた。


「あ、あの……」


「……声かけないで。励ましとか慰めの言葉とかいらないから、黙ってて」


 何かを言わなければいけないと思い、バス停で二人きりになったタイミングを見計らって少女に声をかけた狛哉であったが、返ってきたのはそんなつっけんどんな言葉であった。

 羞恥と怒りを入り混じらせた複雑な感情を抱いているであろう彼女は、ぶっきらぼうにそう言い捨ててから小走りで校内へと走り去ってしまう。


 参ったな、と頬を搔きながら困ったような表情を浮かべた狛哉は、その場で立ち止まったまま深くため息を吐いた。

 自分のしたことに後悔はないが、入学初日からとんだトラブルに巻き込まれてしまったものだと自身の運の悪さに辟易としながらも気持ちを切り替えた彼は、これから三年間を過ごす高校へと足を進ませていく。


 とりあえず、さっきの出来事は忘れてしまおう。それが自分にとっても、彼女にとってもベストな判断なはずだ。

 これから先、通学時に顔を合わせて気まずくなるかもしれないが、それもまあ時間をずらしたりすれば対応可能だし、そのうち慣れてくるだろう。


 通学の際に同じバスを使っている、彼女と自分との接点はそこだけだ。

 そこさえどうにかできれば後は時間が全てを解決してくれるのだから、別に焦ったり悩む必要なんてないのだと、そう狛哉は考えていたのだが――

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