第一章 開戦

 ユースティア大陸の北方に広がるドッガー海。アンネルやグラーセンの北に広がる海で、さらに世界最強のローグ王国が位置する海域。


 豊富な漁場であり、普段は穏やかな海域だが、冬になれば暴風が吹き荒れ、海は嵐に包まれる。


 そんな海であっても、いや、だからこそかもしれない。ドッガー海も戦争と無関係ではいられなかった。


 大陸で起きた戦争は、この海域を戦場に変えていった。多くの船がこの海で戦い、その度に多くの船が沈んでいった。海は多くの命を飲み込み、今も海の底で眠っているのだ。


 そのドッガー海で今、激しい嵐が吹き荒れていた。火薬と血の匂いが漂う、血生臭い嵐だった。



 グラーセン海軍・大洋艦隊は、アンネルのピピータ港に向けて作戦行動中だった。航海は予定通りに進行しており、そのまま目的の海域まで到着するはずだった。


 その目論見は簡単に崩れてしまった。ピピータ港まであと少しというところで、大洋艦隊の目の前に、アンネル海軍の艦隊が出現した。


 敵もグラーセン海軍の行動を予測しており、待ち伏せをしていたようだった。


 大洋艦隊の目論見は外れたが、敵との遭遇も想定内だった。大洋艦隊の旗艦にいたオーベル司令官は戦闘開始を下令した。


 これまでに激しい訓練を繰り返してきた大洋艦隊。今こそ訓練の成果を発揮するべきと、将兵は士気高く、敵艦隊との戦いに立ち向かった。



 そうして数時間後、大洋艦隊は黒煙に包まれていた。



「司令官!」


 旗艦に立つオーベルの下に、顔を青ざめさせた士官が走り寄ってきた。


「報告! 敵艦からの砲撃により主力艦一隻、補助艦二隻が撃沈! 他にも補助艦一隻が大破しており、戦闘行動は不可能とのこと!」


 それは絶望的な報告だった。オーベル率いる大洋艦隊は、敵艦隊の攻撃に一方的な損害を出していた。戦いが始まってから数時間で、主力艦を含む三隻の軍艦が沈められたのだ。


 オーベルが乗る旗艦も、敵の砲撃を受けて黒煙を上げていた。損害こそ軽微だが、水兵たちの悲鳴が聞こえてくる有様だった。


 そんな中、オーベルは目の前の光景から目を離せずにいた。いや、正確には一隻の軍艦から目を離すことができなかった。


「あれは……なんだ?」


 そんな呟きがオーベルの口から漏れ出た。オーベルの視線の先には、アンネル海軍の軍艦が航行していた。


 いや、それを軍艦と言ってよいのか、オーベルは自分の目を疑っていた。それはもはや化け物と呼ぶべき船だった。


 オーベルの乗る旗艦も大きな船だった。グラーセン海軍の中で最も大きな船だと思う。だが、目の前にいるアンネル海軍の船は、オーベルの船より二回りも巨大な船だった。


 それだけではない。グラーセン海軍の砲撃を跳ね返す装甲。大洋艦隊を圧倒的に上回る速力。そして、数多く施された砲門から放たれる砲撃は、大洋艦隊に大打撃を与えていた。


 オーベルは海軍に入隊してから、長い軍歴を重ねてきた。そんな彼の軍歴の中でも、目の前にいる船は、彼の常識を破壊させるほどの衝撃を持っていた。


 あの船一隻に、大洋艦隊は敗退しようとしていた。


「司令官。いかがしますか?」


 士官がオーベルに指示を請う。


 オーベルは迷った。まだ戦うための戦力は残っている。このまま撤退することは彼の矜持にとっても許しがたいことであり、また海軍の戦略目標を達成できないことになる。


 しかし、すでに一方的な展開となっているのも事実であり、このまま戦っても損害が増すのは目に見えていた。


 オーベルは士官に顔を向けて問うた。


「海に投げ出された者たちの救助は済んだか?」


「はっ! 救助は完了したと報告がありました!」


 その報告を受けて安堵すると同時に、オーベルは指揮官として命令を下した。


「これ以上戦っても損害が増すだけだ。直ちに戦線から離脱する。全艦撤退を伝えろ」


 その命令を下すのにどれほど勇気が必要だっただろうか。彼とて軍人であり、敵に一矢報いたい気持ちもあっただろう。


 だが、彼は多くの船と将兵たちの命を預かる司令官なのだ。彼一人の感情でそれらを失うことは許されないのだ。


「……了解。直ちに命令を伝達します」


 オーベルの気持ちを察したのか、士官は粛々と命令に服した。


「司令官! あれを!」


 その時、別の士官から声が上がった。彼は敵旗艦を指差して叫んだ。


「敵艦に信号旗が上がってます! こちらに向けられているようです!」


 オーベルが顔を上げると、彼が化け物と呼んだ敵艦のマストに信号旗が上がっていた。


「読み上げろ!」


 オーベルの命令に士官が信号を読み上げ始めた。


「……ワレ グンカン ゲトリクス……我、軍艦ゲトリクス。世界に覇を唱える者なり」


 その場にいる誰もが凍り付いた。信号を読み上げていた士官は、最後まで信号の内容を言えたのか、自信がなかった。


 かつて大陸を駆け抜けたアンネルの英雄・ゲトリクス。大陸のほとんどの国に勝利し、大陸の大部分を手中に収めた皇帝。


 もはや悪夢でしかなかった。かつて世界を手にした英雄の名を冠した軍艦。そんなものが目の前に現れたことに、オーベルたちは目眩を覚えていた。


 軍艦ゲトリクスのマストに軍旗がたなびいていた。まるで、勝利を高らかに祝うような姿だった。


 その光景に悔しさがこみ上げる。オーベルはその悔しさを押し隠し、命令を下した。


「全艦撤退だ! 急げ!」


 司令官の命令に艦隊が動き出す。それを見送るようにゲトリクスも回頭した。




 ピピータ港沖海戦と呼ばれることになるこの戦いは、アンネル海軍の一方的な勝利に終わった。対してオーベル率いる大洋艦隊は作戦を中止して撤退。壊滅的敗北は免れたが、彼らは被った損害以上の打撃を受けた。


 軍艦ゲトリクス。世界を制した英雄の名を冠した軍艦。その規格外の能力を前に、彼らは失った船以上のものを失ったのである。



「……報告、ご苦労だった」


 クラビッツ少将がそう告げると、報告に来ていた将校が部屋から退室していった。


 部屋に残ったのはクラビッツとクラウスと、そしてユリカだった。気まずい空気が流れていた。


 将校からの報告は、ピピータ港沖海戦でグラーセン海軍が敗退したというものだった。一方的な敗戦。作戦の失敗など、気が滅入る話ばかりだった。


 そして何より、将校から聞かされた敵旗艦の名前に、クラウスたちは衝撃を受けていた。


 軍艦ゲトリクス。かつての皇帝戦争で、グラーセンやクロイツ帝国など、大陸全土を制圧したアンネルの皇帝。その英雄の名を冠する軍艦が現れたことに、心臓を射抜かれたような気分だった。


「軍艦ゲトリクス……話を聞く限り、とんでもない軍艦のようね」


 帰還したオーベル司令官が報告する軍艦ゲトリクスの能力は、グラーセン海軍に衝撃を与えていた。


 それまでの軍艦を遥かに凌ぐ巨体。全ての船を逃がさない高速航行。そして何門も配備された絶大な破壊力を持つ艦砲。


 ゲトリクスはそれまでの海軍の常識を覆す軍艦であり、三世代先を行く軍艦と言われた。


「ゲトリクス……大層な名前をつけたものだな」


 溜息交じりに呟くクラビッツ。軍人にとってかつての英雄の名は、あまりに偉大な名前であり、その名を名付けられたというのは、アンネル軍の自信の表れでもあった。


「アンネル海軍もとんでもないものを建造したな。間違いなく秘密兵器として建造されたに違いない。大洋艦隊とオーベル司令官も、運がなかったとしか言えないな」


 もはや怪物と言っても差し支えない軍艦相手に、むしろ艦隊の損害を最小に抑えたと評価するべきだろう。


「しかし腑に落ちないな。ゲトリクスがアンネルの秘密兵器だったとしても、アンネル海軍がそれほどの軍艦を建造できるとは思えない。一体何が起きたのだ?」


 クラビッツの言うとおり、アンネル海軍にそれほどの軍艦を建造する能力があるとは思えなかった。


 しかし実際にアンネル海軍は、怪物とも言える軍艦を生み出している。魔法の壺から取り出したと言われても納得しそうな話だ。


「それに、ゲトリクスに搭載されている艦砲。それにも心当たりがある」


「心当たり……ですか?」


「ああ、信じたくはないが、しかしそうとしか考えられないのだよ」


 クラビッツにしては珍しく歯切れの悪い話し方だった。何だろうかとクラウスが首を傾げていると、クラビッツは淡々と答えを出した。


「君たちも知っていると思うが、今回の戦争で我が陸軍に新型砲が配備されている。我々はそれをエッセン砲と名付けているのだが、ゲトリクスに搭載されているのはエッセン砲と同型のもののようだ」


 グラーセン陸軍に配備されているエッセン砲。それまでの大砲の性能を大きく上回る、最新式の大砲。グラーセン陸軍はアンネルとの戦争に備え、エッセン砲の開発・生産に注力し、陸軍のほぼ全ての部隊に配備することに成功した。間違いなく、世界最先端の大砲だった。


 そのエッセン砲がゲトリクスに搭載されている。信じられない話だ。


「閣下。そんなことがあり得るのでしょうか?」


「信じられないが、話を聞く限りでは間違いないだろう。そう考えれば、大洋艦隊の主力艦が撃沈されたのも納得できる。エッセン砲ならそれも可能だからな」


 冷静に語るクラビッツだが、クラウスたちは信じられない気持ちだった。ゲトリクスもそうだが、そこにエッセン砲と同じ大砲が搭載されているというのは、あり得ない話だった。


 一体どうしてそんなことが起きているのか、クラウスもユリカも寒気を感じていた。


「軍艦ゲトリクス。そんな巨大な軍艦など、ローグ海軍ぐらいしか建造できないだろうに。アンネル海軍はどんな魔法を使ったのだ?」


 クラビッツはそんなことを呟いた。本人からしたら何気ない呟きで、特に意味のない言葉だったに違いない。


「……え?」


 そのクラビッツの言葉にクラウスが顔を上げた。何気ないクラビッツの呟きが、クラウスを一つの答えに導こうとしていた。


 そして、クラウスはその答えに辿り着いた時、その事実に寒気を感じた。それは悪夢とも言うべき真実だった。


「クラウス、何かわかったの?」


 ユリカが声をかけてくる。クラウスは自らが到達したその答えを口にした。


「ああ。たぶんだが、これはジョルジュの手によるものだと思う」


 クラウスがその名前を口にした時、ユリカが驚いた表情で、クラビッツが淡々とした様子でクラウスを見つめていた。


 アンネルのスパイ、ジョルジュ・デオン。かつてクラウスたちの前に立ちはだかり、その鮮烈な印象を彼らに刻みつけた、彼らの最大の敵。


 軍艦ゲトリクスが彼女の手によるもの。クラウスがそう告げるのを、ユリカが信じられない様子で見ていた。


「ジョルジュって、彼女が一体何を……」


 そこまで言いかけて、ユリカはあることを思い出した。それはクラウスが到達した答えを同じ考えだった。クラウスは自らが辿り着いたその答えを口にした。


「数年前、ジョルジュはローグ海軍から、新型艦の設計図を盗み出すことに成功している。おそらく、その設計図を使ってゲトリクスを建造したに違いない」


 今も語り継がれるジョルジュの仕事の一つ。それは世界最強のローグ海軍から、新型軍艦の設計図を盗み出したというものだった。彼女は現地で協力者を雇い、彼と共に設計図を盗み出すことに成功している。


 彼女がやり遂げたこの仕事は、ローグ海軍との間にあった海軍力の差を埋めることに成功した。それは王国と間にあった二十年の差を縮めたとまで評されていた。


 そう考えると、アンネルが軍艦ゲトリクスを建造できたのも頷けた。


「なるほど。しかし設計図を盗み出せたとして、それだけで建造できるものなのか? 技術的な問題もあるだろう?」


「閣下。彼女はローグで海軍の技術者をスパイの協力者として仲間にしています。彼女は仕事を終えた後、その技術者をアンネルに連れて帰っていると言っていました。おそらくその技術者は、アンネル海軍に協力をしているのではないかと思われます」


 ジョルジュはローグで協力者にした海軍の技術者をアンネルに連れて帰っている。その技術者が持つ知識は、ローグ海軍の秘蔵の技術に他ならない。アンネルはその技術者から知識も手に入れたことになる。


「なるほど。確かにそれなら辻褄が合う。しかし、ゲトリクスはそれで建造できるが、肝心の大砲はどうなのだ? その技術者が設計したわけはないだろう?」


 ジョルジュがローグから盗み出したのは軍艦の設計図であり、それだけでは軍艦しか建造できないはずだ。エッセン砲と同じ大砲をアンネルが持っていることの説明にはならない。


 クラビッツがその疑問を投げかけると、クラウスはさらに口を開いた。


「単純な話です。ジョルジュはエッセン砲の設計図を盗み出したんです」


 一瞬の沈黙が流れる。エッセン砲の設計図が盗み出されたなど、それこそ信じられない話だ。


「クラウス。設計図を盗み出したって、一体どこから?」


「ここだよ。この参謀本部から盗み出したんだ」


「いや、そんなはずはあるまい。確かに参謀本部にエッセン砲の設計図は保管されていたが、盗まれたという報告は受けていない。設計図は今も参謀本部に保管されている。盗み出されたということはないはずだ」


 エッセン砲の開発は参謀本部主導で、秘密裏に進められていた。エッセン砲はアンネルとの戦争で重要な兵器となるのは間違いなく、その情報は最高機密に指定されていた。


 今も設計図は参謀本部に保管されており、それが盗み出されたはずはなかった。


 しかし、ここでクラウスが隠された真実を語り始めた。


「閣下。正確にはジョルジュが盗み出したのは設計図そのものではありません。彼女は設計図の情報を盗み出したのです」


「……? それはどういうことかね?」


「閣下は女給として参謀本部にいたリタさんという方を覚えていますか?」


 リタとはこの参謀本部で働いてた女給のことで、クラウスたちとも話をしたことのある少女だった。そして何より、リタはジョルジュの協力者で、ジョルジュが参謀本部から対アンネル戦争計画を盗み出すのに協力した人物だった。


「ふむ……ジョルジュに協力したという娘だな。彼女がどうしたというのだ」

「閣下は知らないと思いますが、リタさんは絵を描くのが得意な人でした。しかも彼女は一目見たモノを完璧に記憶できる能力を持っていました。おそらく、彼女はエッセン砲の設計図を見て、それを書き写したのだと思います」


 リタはこの参謀本部で、よく絵を描いていた。しかも彼女は一瞬でも目にしたモノを寸分の狂いなく、記憶する能力を持っていた。


 それにリタたち女給たちは参謀本部の中を自由に歩き回れる存在だった。リタも参謀本部の中を警戒されることなく歩くことができたし、どこかでエッセン砲の設計図を見ることもできたかもしれない。


 難しい文章や数式はわからなくても、設計図を絵として見るのであれば、リタにも書き写すことができたはずだ。


 あとは書き写した設計図をジョルジュに渡すだけでよかった。これでジョルジュはクラウスたちに気付かれることなく、エッセン砲の設計図を盗み出すことに成功したのだ。


「あくまで推測ですが、あのジョルジュのことです。彼女ならこれくらいやってのけるでしょう」


 クラウスは思い出す。高らかに笑うジョルジュの姿。今も記憶に残る恐るべき敵。クラウスたちは今、その恐ろしさを改めて思い知らされていた。


「なるほどな。やはり彼女は恐ろしい敵だな。たった一人でこれだけのことをやり遂げるとは。彼女一人で世界が踊らされたような気分だ」


 事実その通りだろう。彼女はローグで軍艦の設計図を。グラーセンで大砲の設計図を盗み出した。そうしてアンネル海軍は軍艦ゲトリクスを建造したのだ。


 グラーセン海軍・大洋艦隊は、たった一人の少女に敗北してしまったのだ。


 後世の歴史家は信じられないだろう。一人の少女が大洋艦隊を敗北させたということを。


 クラウスは内心で舌打ちした。今もジョルジュは自分たちの前に立ちはだかっている。あまりに恐ろしい敵を前に、クラウスもユリカも身震いしていた。


「しかし閣下、大丈夫なのでしょうか?」


 そこまで話したところで、ユリカが口を開いた。


「何がだね?」


「今回の海軍の敗戦は、戦争に何か影響するのでしょうか?」


 彼女が気になっているのは、ピピータ港沖での敗戦が、戦争全体に何か影響を与えるのではないかということだ。かつてゲトリクスも、ローグ王国海軍との戦いで敗北したことにより、ローグとの戦争に敗北している。この海戦の結果が何をもたらすのか、横にいたクラウスも気になっていた。


 その問いかけにクラビッツは冷静に言葉を紡いだ。


「まあ……影響が全くないと言えば嘘になる。元々海軍に要求していたのは、ピピータ港を海上封鎖し、ここを補給基地にしないことが目的だったのだ」


 ピピータ港は戦場になるであろう地域に近い場所にあり、ピピータ港はその補給基地になることが予想された。実際ピピータ港から出発する鉄道は、グラーセンとの国境に近い地域にも向けて線路を敷設しており、、ピピータ港からアンネル陸軍の前線に補給線が設定されることが予想されていた。ピピータ港の海上封鎖に成功すれば、アンネル陸軍に圧力を加えることができ、その行動を制限することができた。


 しかし、その目論見は今回の敗戦で未完成に終わった。グラーセン海軍はまだ作戦行動は可能ではあるが、軍艦ゲトリクスの出現により、積極的な攻勢に出るのは難しいだろう。すでに数隻の艦を喪失しているのだ。もしこれ以上損失を生んでしまえば、グラーセン海軍は軍艦ゲトリクスに太刀打ちできなくなり、逆にグラーセンがアンネル海軍による海上封鎖を受ける可能性があった。


 グラーセン海軍はこれから、防衛を主目的とした戦略に転換することになるだろう。


 問題は、この海戦が陸軍の戦略にどのように影響するかだ。クラビッツがその影響について語り出す。


「ピピータ港を封鎖できないのは致命的ではないが、しかし懸念材料であることに変わりはない。アンネルとの戦争は陸戦が主体となる。海軍による影響はほとんどないが、しかしピピータ港が補給基地に使用されることは確実だ。その封鎖に失敗したとなると、アンネルは余裕ある補給が行うことができる。無視できない話だ」


 全ての戦争において、補給・兵站は最も重要な問題だ。飢えた軍隊が戦争に勝ったことはないし、補給を軽視する指揮官が戦死した例はいくつもある。


 補給基地となるであろうピピータ港封鎖の失敗。それはアンネルにとっては福音であり、グラーセンにとっては頭痛の種であった。


「作戦計画に大きな変更はない。しかしピピータ港からの補給・増援によってアンネル軍の前線が増大化する前に、敵に打撃を加える必要が出てきた。我が軍の進撃速度を上げねばならないだろう」


 敵の兵力が増大する前にこれを叩く。兵法の基本であり、敵が強くなるのを黙って見ている理由はないのだ。


 ピピータ港を使えば大規模な援軍を送ることも可能となる。そうなる前にアンネルとの戦いを終わらせなければならなかった。


「かつてゲトリクス皇帝は、ローグ海軍との海戦に敗れた。その敗戦が巡り巡って、皇帝の敗北に繋がった。我々も皇帝と同じ道を歩まないことを願うばかりだ」


 クラビッツの呟きに押し黙るクラウスたち。あまりに暗い想像に何も言い返すことができなかった。


「しかし、私としてはそれ以上に恐れていることがある」


「恐れていること、ですか?」


 クラウスが訊き返す。その問いかけにクラビッツはさらに厳しいことを口にした。


「戦争の緒戦で負けたこと。しかも相手は軍艦ゲトリクス。そんなことが世間に広まれば、士気が低下するかもしれない。私はそっちの方が恐ろしいことだと思う」


「……なるほど。確かにその通りですわね」


 クラビッツの言葉にユリカが頷いた。


 意気揚々と戦争に突入したグラーセン。国民もこの戦争を勝ち抜こうと団結を見せていた。そんな勢いを持った中、いきなり出鼻をくじかれたのだ。


 それに何より、相手は軍艦ゲトリクス。かつて大陸全土を制覇した英雄の名を冠した軍艦なのだ。その英雄が再び自分たちの前に立ちはだかろうとしているのだ。戦意を挫かれたとしてもおかしくはなかった。


 かつての英雄の亡霊。ゲトリクスの影が、彼らの前に立ちはだかる。あまりに強大な敵だった。


「では閣下、この敗戦は国民には知らせないでおくつもりですか?」


 情報操作は誉められることではないが、戦争を継続させるためには国民の士気を保つのも重要なことだ。いきなり負けたなどと知らせるのは、避けるべきかもしれない。


 だが、クラウスの問いかけにクラビッツは首を横に振った。


「いや、隠してもしょうがないだろう。すでに知っている者もいるだろうしな」


 実際艦隊の敗北は事実であり、すでにそのことを知る者もいるだろう。事実は事実として知らせねばならなかった。


「どちらにせよ、明日の新聞はコーヒーが不味くなるだろうな」


 敗北の報を見ながら飲むコーヒーは、いつも以上に苦く感じるだろう。クラビッツは首を横に振るのだった。



「幸先の悪いことだな」


 クラウスの呟きが虚空に漂う。そのクラウスの前で、ユリカは沈黙を保っていた。


 クラビッツとの話を終えた後、二人はクラウスの部屋に戻っていた。特に何をするでもなく、何を話すでもなく、ただ向かい合って椅子に座っていた。


 海軍の敗北は、二人にとって大きなショックだった。


 皇帝の名を冠した軍艦の出現は、その名と歴史を知る者にとって、あまりに大きな存在だった。


 皇帝ゲトリクス。この大陸全土を支配下に置いた英雄。かつてクロイツ帝国を破り、帝国を歴史用語に変えてしまった恐ろしき敵。


 そのゲトリクスが再び彼らの前に立ちはだかる。二人だけでなく、グラーセン国民のほとんどは思い出すに違いない。かつて皇帝に敗北してしまった歴史を。


 クラビッツが言うように、この敗北は局地的なものであり、戦争全体に影響するほど、致命的なものではない。しかし、この敗北がもたらすものは、想像以上に大きいのかもしれない。


 ゲトリクスの出現がかつての敗北の歴史を思い出させるのなら、彼らは考えるに違いない。


 再び敗北の歴史を繰り返すのではないかと。


 国民全体に厭戦感が蔓延し、軍部においては戦意を喪失してしまうかもしれない。ゲトリクスの名は、それくらい恐ろしいものなのだ。


 言い換えれば、人々はゲトリクスの影に恐れ、怯えているのだ。彼がこの大陸を走り抜けたのは、もう数十年前のことなのだ。数十年前の英雄の影に、人々は未だ恐怖しているのだ。


 それに軍艦ゲトリクスの存在は、クラウスたちにとって別の意味をもたらしていた。


 軍艦ゲトリクスは、彼らの恐るべき敵・ジョルジュが生み出したものだ。彼女がローグ王国から盗み出した新型艦の設計図。そして、ジョルジュがリタと共にグラーセン軍から盗み出したエッセン砲。その二つがゲトリクスを作り出したのだ。


 彼らの心に刻まれた恐るべき敵。そのジョルジュが生み出したという事実が、クラウスたちにショックを与えていた。


 やはり彼女は最後まで、自分たちの前に立ちはだかるのだ。そのことにクラウスは打ち震えていた。


 沈黙が部屋に満たされる。その沈黙が気まずかったのか、クラウスが口を開いた。


「今日の海戦の報せは、スタール閣下の耳にも届いているのかな?」


 その問いかけに返ってくる言葉はなかった。変に思ったクラウスが顔を上げると、ユリカは何も聞こえていないのか、目を閉じて黙り込んでいた。


 そんなユリカから、クラウスは目が離せなくなった。いや、離してはならないと思った。


 沈黙する彼女からは、苦しみや悲しみが滲み出ているように感じた。


 海軍の敗退はもちろん悔しいに違いない。しかし、彼女は悔しいというより、苦しそうに沈黙しているのだ。その静かな顔は、まるで祈るような雰囲気があった。


「ユリカ。どうした?」


 クラウスが呼び戻すようにユリカに声をかけた。その声にやっとユリカが顔を上げた。


「あ、何? どうかした?」


 いつものように微笑みを浮かべるユリカ。いつもの変わらないその笑みに、クラウスは戸惑いつつも先ほどの問いかけを繰り返した。


「いや、海戦の報せはスタール閣下も知っているのかと訊いたんだが……」


「ああ、そうね。おじい様も知っているはずよ。すでに対応に走っていると思うわ」


 ユリカは手元の紅茶を手に取り、口に運んだ。一口飲んでから彼女は話を続けた。


「正直初戦で負けたのは、政府にとっても手痛い結果だわ。戦争に勝つにはイメージ戦略も必要になってくる。特に国民に対して軍が負けているという印象を与えるのは、国民の戦意を失う恐れがある。そうなれば戦争を遂行すること自体が不可能になるわ」


 政府にとって世論というのは、ある意味戦う敵よりも恐ろしい相手かも知れない。世論が戦争不支持になれば、政府に対する支持は急落し、戦争遂行すら危ぶまれる状況になってしまう。


 特に軍艦ゲトリクスに敗北したという事実は、予想以上の衝撃を国民にもたらすことが考えられる。政府とスタールは、そのことを恐れているのだ。


「それに、この敗北は外交的にも問題になりかねないわ」


「外交? それはどういう意味だ?」


「クラビッツ少将が言うように、この戦争は出来る限り早く決着させる必要があるわ。もし戦争が長期化すれば、アンネル以外の国が介入してくる可能性がある。グラーセンが負けを重ねるようであれば、それまで情勢を見守っていた国が、アンネル側に立って参戦する可能性もある。そうならないために短期決戦を挑む必要があるのよ」


 確かにユリカの言うとおりだ。この戦争はグラーセンとアンネルとの二国間戦争として始まった戦争だ。アンネルの西方に位置するエスコリアルは、アンネルと同盟を結んでいるが、今のところエスコリアルが部隊を派遣する兆しは見えていない。しかし、このままグラーセンが不利と見られれば、エスコリアルも積極的に部隊を派遣してくる可能性がある。


 それはエスコリアルだけではない。自分たちの利益になるのであれば、他の国だって参戦する可能性があるのだ。


 終戦直前になって参戦して利益を得る。誉められることではないが、歴史上同じことをしてきた国はいくつもある。


 そうなる前にグラーセンは勝利を得なければならないのだ。


「きっと政府は軍部に勝利を求めるようになるわ。クラビッツ少将もその必要性を認めているだろうし、予定より早く戦いに挑むことになるはずよ」


 一度の敗戦を取り戻すために、一度の勝利を手にしなければならない。それがどれほど難しいかは、彼らにもよくわかっていた。


 だが難しいからと言って、挑まないわけにはいかないのだ。


「もうすぐ陸軍がアンネル領内に進撃する。きっとどこかで戦闘が始まるわ」


 もうすぐ戦いが始まる。その一言にクラウスは身が引き締まる想いがした。


 改めてクラウスは思い知る。自分たちは戦争の時代に身を置いているということを。



 ピピータ港沖での海軍の敗北は世界に大きく報じられた。


 大洋艦隊が一方的な敗北を喫したことに、グラーセン国民は衝撃を受けた。


 しかしそれ以上に世界が驚愕したのは、ゲトリクスの名を冠した新型艦が誕生したことだった。


 ゲトリクスの名はグラーセン国民にかつての敗北の歴史を思い出させ、その他の国にも皇帝の恐ろしさを思い出させる結果を生んだ。


 また、新型艦の設計図を盗まれたローグ王国においては、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。海軍上層部は責任を問われ、ローグ国内ではアンネル脅威論が大きく論じられるようになった。


 世界は再びゲトリクスとアンネルの強さを目の当たりにし、この戦争はアンネル優位に動くのではと、そんな声も聞こえるようになってい

た。


 クラウスたちが恐れていたことが、少しずつ現実になりかけていた。




 その日、グラーセン陸軍はアンネル領内に足を踏み入れたと、参謀本部に報告が届いた。敵地への侵攻に、参謀本部も緊張が高まった。


 当然その報せはクラウスたちにも伝わっていた。彼らが所属する情報部も、アンネル領内に派遣された諜報員からの情報を集め、その分析に走り回っていた。


 特にクラウスはアンネルへの留学経験があり、グラーセン軍が侵攻する地域の情報についても熟知していた。その情報を分析し、前線部隊への助けにしようとクラウスは働き続けた。


 そんな日々が続いたある日の午後。クラウスたちは一緒にお茶をしていた。休憩中であり、仕事で疲れた頭を休めていた。


 ただ、二人の心までは休まることはなかった。その原因は、クラウスが読んでいた新聞にあった。彼は新聞を読みながら溜息を吐いた。


「やはり海軍の敗北は、かなりの影響になっているな」


 クラウスが手にしている新聞には、国民の間にアンネル脅威論が増していることが報じられていた。このまま陸軍も敗北してしまうのではないかと、そんな意見が出ていると新聞に書かれていた。


「やはり国民は、アンネルは恐ろしい敵であると思っているようだ」


「そうね。というよりは、みんなが本当に恐れているのは、皇帝ゲトリクスの方だと思うけどね」


 ユリカの言葉にクラウスも同意した。


 軍艦ゲトリクスに敗北したという事実を前に、国民は皇帝ゲトリクスの再来だとか、皇帝戦争の再現だとか、そんなことが口々に囁かれていた。


 それだけゲトリクスの名は偉大ということだし、その考えにはクラウスも反論は出来なかった。だからと言って、数十年前の人間一人に恐怖しているという事実は、後世の歴史家から嘲笑されるかもしれない。


 そう思うと、クラウスたちは苦笑いを浮かべるのだった。


「おじい様とも話をしたけど、議員の間でも意見や質問が出ているそうよ。政府としてはこの事態をどうお考えか? 海軍の敗北をどのようにして取り返すのか? 何人かでおじい様に詰め寄ったそうよ」


「なるほどな。それで、閣下はどのようにお答えになったんだ?」


「ふふ、それがね」


 そこで何故か笑みを浮かべるユリカ。クラウスが首を傾げていると、彼女は面白そうに口を開いた。


「目の前に集まる議員を前にして、一本葉巻を取り出して火を付けたんですって。とても自然で落ち着いた様子だったから、議員の人たちの方が呆気に取られたそうよ」


 思わずクラウスは笑ってしまった。その時の光景が容易に想像できて、彼らしいと思えた。


「それで呆然としている人たちに笑いながら『大丈夫ですよ』て言ったそうよ」


「ほう……それはまた、閣下らしいというか」


「でしょう? あまりにどっしり構えているものだから、みんなも丸め込まれて出て行ったそうよ。最近はそんなことばかりしているらしいわ」


 スタールも宰相として、多くの議員と論戦を繰り広げるのだ。むしろこれくらいの態度でいるのが普通なのかもしれない。


 それに彼の場合、相手は議員だけでなく、国民や世論とも戦わないといけないのだ。戦争遂行のために挙国一致体勢を築いたが、その情熱もいつ冷めるかわかったものではない。国民が帝国統一に情熱を燃やしている。スタールはその炎に石炭を投入し続けないといけないのだ。


「でもまあ、おじい様が軍を信頼しているのは本当よ。海軍のことは不運だったと思うけど、だけど今のグラーセン陸軍が負けるとは思えないわ。陸軍は厳しい訓練を続けてきたし、クラビッツ少将が策定した作戦計画もこれ以上ない出来に仕上がっている。絶対大丈夫よ」


 そんなことを言いながら、ユリカは微笑んで見せた。


「ふむ……まあそうだとは思うのだがな」


 それでもクラウスは不安だった。元々の性格もあるのだろう。物事を楽観的に考えられないのは、自分の欠点であるとはクラウスも自覚していた。


 しかし、そうでなくてもクラウスは不安だったに違いない。絶対不敗の軍勢など、存在しないことは歴史が記録している。それは皇帝ゲトリクスの敗北が証明しているのだ。


 グラーセン軍も不敗ではないのだ。どうしてもクラウスは不安をぬぐい切れずにいた。


 そんな彼の心情を察したのか、ユリカが苦笑いを浮かべた。


「ねえ、食堂に行かない?」


「え? 食堂に?」


「そう。気晴らしにお茶でも飲みに行きましょう。たまには場所を変えた方が気分も変わると思うわよ」


 その提案が自分を案じてのことであることは、クラウスにもわかっていた。実際気分を変えたいのも事実なので、クラウスはその提案に同意した。


「そうだな。たまにはいいかもしれないな」



 二人はまだ誰もいない食堂にやって来た。配食の時間はまだ先なので、人がいないのは当然ではあった。


 ただこの時間にも何人かの女給が準備に来ていることがあった。その中の一人、ルシアナに二人は会いに来ていた。


「ルシアナさんは厨房かしら?」


 そう言って厨房に向かうユリカ。クラウスも彼女に続く。


 ユリカがそのまま厨房に入ろうとした。だが、彼女は厨房に入る手前で立ち止まった。彼女はそこで何かに気付き、そのままどうするべきか迷う素振りを見せていた。


 クラウスが何事かと声をかけようと近寄ると、振り返ったユリカが人差し指を鼻に当てて、静かにするようクラウスに目で訴えた。


 ますます怪訝な顔になるクラウス。その時、厨房の奥から小さな泣き声が聞こえてきた。


 驚くクラウス。彼はユリカと共に厨房を覗き込んだ。


 そこにはルシアナを中心に何人かの女給が集まっているのが見えた。そしてその内の一人がルシアナの胸に顔を当てて、小さく泣いている様子が見えた。


 一体何事なのかと、クラウスは声を上げずにその様子を見ていた。すると、二人がいることにルシアナが気付くと、彼女はごめんと目で語り掛けてきた。


 それからしばらく、小さな泣き声が厨房に響き続けるのだった。



「ごめんね。変なところを見せちゃいましたね」


 そんな風に、ルシアナは申し訳なさそうに笑って見せた。


 あれから少しして、ルシアナ以外の女給が立ち去ったところで、クラウスたちは厨房に足を踏み入れた。ルシアナは二人を招き入れると、三人分の紅茶を用意してくれた。


「こちらこそ、気を使わせてしまって申し訳ありませんわ。お邪魔ではありませんでした?」


「いえ、大丈夫ですよ。こっちも落ち着きたいと思っていましたし。それに、話し相手が欲しかったですしね」


 ルシアナはそう言うと、お茶を一口飲んでから、深く息を吐いた。まるで心に溜まった疲れを一気に吐き出すかのような吐息だった。


 ルシアナが顔を上げると、彼女は寂しそうな笑みをクラウスたちに向けた。


「さっきの子たち。家族や恋人が出征している人たちなんですよ」


 その一言にクラウスたちはハッと顔を上げた。以前ルシアナからも聞いていたが、ここの女給たちにも、親しい人が軍人になっている人がいた。当然その人たちも戦争に参加しているし、すでにアンネル領内に侵攻する部隊に所属する人もいるだろう。


「さっき泣いている子がいたでしょう? あの子の恋人も軍人で、今はアンネルにいるんだって。みんな、やっぱり不安で怖くて、仕方ないんですよ。私はここを取り仕切っているから、そんな子たちの悩みを聞いてあげてるんですよ」


 きっと今日だけでなく、戦争が始まってからずっと誰かの悩みを聞いてきたのだろう。それがどれほど精神的に負荷がかかるものか、クラウスには想像できなかった。


「それにほら、私にはよくわからないけど、海軍が負けたんでしょう? しかも相手は軍艦ゲトリクスだとか。あの皇帝様の名前が出てくるもんだから、みんなとっても怖がっているんですよ」


「そうでしたか……やはりみなさん、動揺しているのですね」


 わかってはいたが、海軍の敗北は相当な影響を与えているようだ。クラウスたちは現実に起きていることを目の当たりにしたわけだ。


「ルシアナ様は大丈夫ですの? みなさんの悩みを一人で受け止めて。それにお相手のこととかも」


 ルシアナの恋人は参謀本部で憲兵として働いている。戦場に行くことはないが、そのことを恋人は申し訳ないと悩んでいたらしい。そのことはルシアナにとっても辛いことだったし、周りに対して彼女も辛く思っていた。


 今もそのことで悩んでいるのではないか? そう思ってのユリカの問いかけだった。しかしルシアナはその問いかけに、満面の笑みを向けてきた。


「心配しなくても、もう大丈夫ですよ。私も、あの人も、ここで戦うって決めましたから」


 その微笑みには力があった。迷いや悩みを感じさせない、勇気の込められた微笑みだった。


「以前お嬢様が言ってくれましたよね? 残る人、見送る人にも戦いはあるって。あの人とその話をしたら、悩みも吹っ切れたみたいで。一緒にここに残って、自分の務めを果たそうって、今も頑張っているんですよ」


 ユリカは以前、恋人のことで悩むルシアナに伝えたことがある。戦いは戦場だけで行われるものではない。家族を見送る人々にも、そこでの戦いがあるのだ。彼らが帰ってくる場所を守るという戦いが。


「私も今、一緒に戦っているんです。さっきの子みたいに不安になっている人。怖くて恐ろしくて泣いている人。その人たちを守って、一緒に戦争に立ち向かうために。それが私にとっての、この戦争との戦いなんだって」


 そんな風に語り、ルシアナは誇らしげに笑って見せた。彼女自身、迷いや悩みはあるはずだ。それでも彼女はその迷い全てを受け止めて、その上で笑って見せた。


 その微笑みがとても眩しくて、クラウスはただ見惚れてしまっていた。


 ユリカはそんなルシアナを見て、嬉しそうに笑っていた。


 戦争は絶対誰かが死ぬ。一人の戦死者も出ないなんてことはない。でも、ルシアナはそれでも笑みを絶やすことなく、自らの戦いを乗り越えるだろう。


 彼女のような人が背中にいる。それがどれほどの勇気となることか。


 その微笑みを前に、思わずクラウスは口を開いた。


「ルシアナさん。いつかお時間ができたら、またお茶をしませんか? 今度はお相手の方も一緒に」


 クラウスとユリカ。そしてルシアナたちの四人で一緒に。


 きっとそこでクラウスは、ルシアナの恋人に伝えるだろう。ルシアナという素敵な人と結ばれたことに対する祝福を。


 ルシアナのような女性と結ばれたことは、相手にとって幸福であり、そして最高の名誉だろう。


 伝えずにはいられない。それはとても素敵なことだから。


 そんなことを言われたルシアナは、ニンマリと笑って見せた。


「あの人、よく言ってますよ。クラウスさんとも話がしてみたいって。きっと喜んで来てくれますよ」


 そんなことを言われて、嬉しくないわけがない。クラウスは嬉しそうに笑みを返した。


「その時が来るのを、楽しみにしてますよ」




「来てよかったわね」


 宿舎に帰る途中、隣にいたユリカがそう呟いた。


「そうだな。ルシアナさんとお話ができて、本当に良かった」


 そう言って、クラウスは満足そうに笑った。


 最初は気分転換のために来ただけだった。しかしルシアナとの話は、彼らの中に新鮮な風を送り込んでくれた。


 戦いは戦場だけのものではない。残った者、見送る者にも戦いはある。そこにいる人は与えられた役目を果たそうと、懸命に働いている。


 そんな姿を見ることができて、クラウスたちは勇気を得ることができた。


 彼らと共に働けること。そのことにクラウスは誇りを感じていた。


「でも、一つだけ言っておきたいことがあるわ」


「ん? 何だ?」


 その時、ユリカが意地悪そうな笑みを浮かべていた。


「あなた、ルシアナさんの笑顔に見惚れていたでしょう? 私が隣にいるのに他の女性に見惚れるなんて。ひどいのではなくて?」


 確かにクラウスは、ルシアナの笑顔に見惚れていた。そのことを否定する気はなかった。


 だけど、そんなユリカの言葉にクラウスも意地悪そうな笑みを返した。


「そういう君だって、ルシアナさんの顔に見惚れていたんじゃないのか?」


 あの時、ルシアナに見惚れていたのはクラウスだけではない。隣にいたユリカもルシアナから目が離せなくなっていた。クラウスもそのことに気付いていた。


 そのことを指摘されたユリカは、特に嫌な顔せずに微笑みを返した。


「そうね。私ってかっこいい人も可愛い人も大好きだから」


 そんな風に笑うユリカと、同じように笑みを浮かべるクラウス。


 二人は笑みを交わしながら、隣並んで歩くのだった。




 その日の勤務も終わり、二人は部屋に戻ろうとしていた。その途中、意外な人物と会った。


「おや? クラウスさん。それにお嬢様も」


「あら? フェリックス大尉」


 フェリックスは参謀本部に所属する軍人で、クラウスたちとは以前、ビュルテンでの任務で一緒に働いたことのある仲間だった。


 彼も軍人なので参謀本部にいること自体は不思議ではない。ただ、フェリックスは参謀本部の鉄道課の所属なので、情報部であるクラウスたちと顔を合わせるのは珍しいことだった。


「どうされました? ここで会うのも珍しいですね」


「ええ。実はクラビッツ少将に呼ばれてたんですよ」


「クラビッツ少将に?」


 クラビッツが直々にフェリックスを呼び出したということにクラウスたちは余計に驚いた。クラビッツが呼び出すくらいなのだから、何か特殊な事情があるのではないか? そんな風に考え込むクラウス。


 そんなクラウスにフェリックスが声をかけた。


「お二人も今からお休みですか? よろしければ少しお話しませんか?」


 フェリックスのその提案を、クラウスたちは快く受け入れた。



「へえ。ルシアナさんにお付き合いされている方が。それは驚きですね」


 クラウスからルシアナのことを聞かされて、素直に驚きを見せるフェリックス。ルシアナも参謀本部ではそれなりに有名人だ。そんな彼女が誰かと付き合っているというのは、やはり興味を引く話題のようだ。


 さらにクラウスは、さきほどルシアナと話したことをフェリックスにも伝えた。その話をフェリックスは感心したように聞いていた。


「なるほど。ルシアナさんはそのようなことを。彼女らしいと言えばらしいですね」


「そういう大尉はどうなんですの? 恋人の方とは、最近お会いになりましたの?」


 そう問いかけるユリカ。フェリックスには婚約者がいた。フェリックスもその婚約者と色々なことがあった。戦争が近づくと不安になった婚約者から、軍を辞めるように言われていた。


 だが、その後はフェリックスとの話し合いで、彼らも共に戦争を乗り越えようと、想いを新たにしていた。


 そのことを知っていたユリカは心配して問いかけてみたのだが、それに対しフェリックスは苦笑いを浮かべた。


「いえ、面目ありません。最近は働いてばかりで、外にも出ていないんです」


 参謀本部の人間は眠ることを知らないのか、休んでいる姿を見ることがほとんどなかった。戦時というのもあるのだろうが、同じ人間とは思えないほどの働きぶりだった。


 鉄道課に所属するフェリックスも同様で、陸軍は進軍のために鉄道をフルで活用している。そのダイヤや車両の確保、補給・運搬など、鉄道課は特に忙しいようだった。


 フェリックスもあまり休めていないようで、恋人とも会っていないという。さすがにクラウスも心配になった。


「それは大丈夫なのですか?」


「ええ、大丈夫ですよ。明日は久しぶりに外に出れそうなんです。久しぶりに会いに行こうと思いますよ」


 そう語るフェリックスは嬉しそうに笑っていた。


 戦争が近づいていた頃、その恋人は心配するあまり、フェリックスに除隊するよう彼に願っていた。だが、その恋人も今はフェリックスと共に戦争を乗り越えようと約束してくれた。


 その恋人はこうして、フェリックスに力を与えてくれる。彼らもまた残る者として、ここで戦い続けているのだ。


「そういえば、さきほど少将に呼ばれていたとか。何かありましたか?」


「ああ、実は少将からビュルテンでの鉄道工事の進捗状況について質問されたんです」


「工事の進捗ですか?」


 以前クラウスたちはビュルテンで一緒に働いたことがある。その目的は、ビュルテンとグラーセンを鉄道で繋げるために両国の間で同意を取り付けることだった。


 両国を鉄道で結ぶことができれば、ビュルテンのある南部からのアンネル侵攻が可能となり、大きな優位性を手にすることができるはずだった。


 ただ、アンネルがその鉄道が完成する前に開戦に踏み切ってきたことで、グラーセンの目論見である南部からの侵攻は不可能となった。


 鉄道工事はある程度進んでいるらしいが、まだまだ大部隊を進軍させるほどの状況ではないはずだ。そのことはクラビッツも知っているはずだが、何故かこうしてフェリックスを呼び出し、工事の状況について質問している。


「まだ鉄道は通っていないんですよね? 少将がそのことを知らないとは思えませんし、どうしてそのようなことを……」


「私も不思議に思いました。でも実際に閣下からは色々と質問されました。どこまで線路が敷設されているのか。途中にあるトンネルはどれほどの大きさになっているのか。そんなことを質問されましたよ」


 あのクラビッツのことだ。興味本位での質問ということはないはずだ。何か策でも講じているのではないかと、そんな風に勘ぐるクラウスだった。


「少将は何か仰っていましたか?」


「いえ、ただ私の答えを聞いて、少し考え込む様子を見せていました。特に何かお話はされてませんが、何かを考えている様子ではありました」


 フェリックスの話にクラウスもユリカも顔を見合わせる。クラビッツが何を考えているのか、二人とも気になった。


 だがクラビッツの頭脳に何が渦巻いているのか、それを言い当てることなど不可能だろう。


 数学の難問はいつかは解決されるだろうが、クラビッツの考えは誰にも答えることはできない。そんな気がした。


「そうだ。ビュルテンと言えば、ラコルトさんから手紙が届いているんですよ」


「まあ! ラコルト様から?」


 その名前を聞いて、ユリカが嬉しそうに笑った。


 ラコルトはビュルテンの鉱山労働者をまとめている有力者で、クラウスたちと鉄道敷設について話し合った相手だ。今ではヴュルテンで新たに始動した鉄道会社の運営を任されており、グラーセンとビュルテンを繋ごうと協力してくれる仲間となっていた。


 そのラコルトからの手紙。ユリカだけでなく、クラウスにとっても嬉しいことだった。


「ラコルトさんは何か仰っていますか?」


「ええ。鉄道敷設やビュルテンの状況。あとこちらのことを心配してくれています。戦争が始まったから、ビュルテンの人たちも気にしているそうです」


 ビュルテンではグラーセンと共に帝国統一に参加することに賛同しており、この戦争は彼らにとっても未来を決める戦いなのだ。


「何か協力できることがあれば、何でも言ってほしいとのことでした」


「それはありがたいことですわ」


 そう答えるユリカは静かに微笑んだ。クラウスもまた、嬉しそうに笑みを零す。自分たちの戦いを見守る人がいる。自分たちの戦いに仲間がいる。それを知ることができて、クラウスたちは嬉しくて笑うのだった。



「それでは、自分はこれで」


 部屋から退室するフェリックスを見送るクラウスたち。


「こんな時に言う事ではありませんが、落ち着いたらまた、ゆっくりお話ししましょう。大尉」


 戦争が起きている中、あまり言うべきことではないかもしれない。それでも、また一緒に歓談できる日が来るのを願ってしまう。それくらいにこの時間は素敵なものだったのだから。


 それはフェリックスも同じだったのだろう。彼も微笑みを返してくれた。


「はい。その時はまた、楽しくお話しましょう」


 そう言ってフェリックスは背を向けて歩き出した。その背中は大きく、歩みは力強く。そんな彼を見送るクラウスとユリカは、彼と戦友でいられることを嬉しく思うのだった。


「さ、私たちも負けていられないわ。またがんばりましょう」


「ああ、そうだな」


 ユリカも言葉に笑みを返すクラウス。


 すぐそばではフェリックスやクラビッツたちが。遠くではラコルトが。きっとそれ以外にも多くの『戦友』が、一緒に戦ってくれているのだ。


 以前ユリカが言っていた。誰かが一緒に歩いてくれる。それだけで心強いのだと。


 その言葉の意味をクラウスは思い知るのだった。




 翌日。いつもの朝を迎える参謀本部。すっかり慣れてしまった起床ラッパで目を覚まし、そのまま身支度を整えるクラウス。


 自分の姿をチェックする。以前はよく、髪がボサボサだったり眠そうな顔をしていると、ユリカはそれを面白そうに笑うことがあった。今では彼女に会いに行く前に身支度のチェックをするのが、すっかり身に沁みついてしまっていた。


 今日も問題がないことを確認して、クラウスは胸を撫で下ろす。彼は自室を出て、ユリカの部屋へと向かった。


 ユリカの部屋に着く。ノックをすると「どうぞ」と声が返ってくる。クラウスはそのままドアを開いた。


 いつものように笑みを浮かべたユリカがそこにいた。彼女の前にあるテーブルには、すでに食事が並んでいた。


「どうぞ。もう用意はできているわ」


「ああ、ありがとう」


 そうしてクラウスも席に着く。それを合図に朝食が始まった。


「昨日はよく眠れたようね」


「ん? ああ、そうだな。いつもより気持ちよく眠れたよ。わかるのか?」


「ええ。だって顔色が昨日よりいいから。何か楽しい夢でも見たのかしら」


「いや、どちらかというと夢を見る暇もないくらい、気持ちよく眠れたよ」


 そう語るクラウス。実際いつもより寝つきが良く、沈み込むように眠ってしまった。


 おそらく、昨日のフェリックスとの会話が程よい刺激になったのだろう。人間は疲れると眠たくなるものだが、極度に疲れすぎるのも睡眠に悪影響があるらしい。最近は参謀本部の仕事が激しく、極度の疲労に襲われることが多かった。


 それもフェリックスと話したことで、クラウスの疲労も心地良いものになったようだ。


「それならよかった。みんなも心配していたのよ。あなたが疲れた顔をして、倒れるんじゃないかって」


「そうなのか? それは悪いことをしたな」


 確かに最近は仕事続きで、あまり顔色も良くなかったかもしれない。知らぬ間に心配させていたのであれば、クラウスも申し訳ない気分だった。


「それに、女給のみんなが怖がっていたわ。疲れたあなたの顔、いつもより怖いんですって」


「……それは本当に申し訳ない」


 そんな風に呟くクラウスをユリカは面白そうに笑った。そう言えば最近、女給たちが自分を避けるようにすれ違っていくのを、クラウスは不思議に思っていた。


 普段から不愛想な顔のクラウス。それは彼自身も自覚していた。それが疲労によってさらに怖くなっていたのであれば、女給たちが怖がるのも無理はなかった。


 申し訳なさそうにするクラウスをユリカは楽しそうに見つめるのだった。


 そんなことを話しながら食事をする二人。その時、ふとクラウスが声を上げた。見るとユリカが食事を終えていた。


「ユリカ。もう食べないのか?」


 そんなことを問いかけるクラウス。ユリカは用意された食事を半分しか食べていなかった。


「ええ。ちょっと食欲がなくて」


「大丈夫か?」


 さすがに心配になるクラウス。彼女は小柄な体だが、人一倍多く食べるし、いつも大げさなくらい美味しそうに食べるのだ。


 食べることが大好きな彼女が、食欲を失くしている。さすがにクラウスも心配になった。


「大丈夫。私もちょっと疲れてるみたい」


「そうなのか? それなら今日は休んだ方がいいんじゃないか?」


 クラウスはそう言葉をかけるが、しかしユリカは力強く笑って見せた。


「大丈夫よ。食欲がないだけで、身体は元気だから」


「そうか……無理はするなよ」


 彼女に無理はしてほしくないが、心配されるのを彼女は嫌がることがわかっていた。クラウスはそれ以上は何も言わなかった。


 その時、参謀本部に急報を告げる鐘の音が鳴り響いた。


「なんだ?」


 参謀本部では何か緊急事態が発生した際に、鐘を打つことになっていた。それも今日はいつも以上にけたたましく響いているように思えた。


「何かあったのかしら?」


 ユリカも立ち上がり、一緒に外を見る。見れば何人かの将校が走っていくのが見えた。


 その時、ドアを激しくノックする音が響いた。


「失礼します!」


 返事をする間もなく、若手将校がユリカの部屋に入ってきた。


「どうしました?」


「アンネル領を進軍中の前線部隊より緊急電が届きました! 前線の第一軍団がアンネル軍と接触。このまま戦闘に入るとのことです!」


 将校の言葉がクラウスたちの意識に突き刺さる。彼らはそのまま部屋を抜け出し、走り出していた。


 鐘の音が鳴り響く。遠く遠くまで音色を届かせるために。



 参謀本部にある大会議室。クラウスたちが会議室に向かうと、そこに多くの将校たちが集まっていた。その中にクラビッツもいた。クラビッツは会議室の長机に着席し、その周りに高級将校たちも着席していた。机には大きな地図が広げられており、その地図をクラビッツたちはじっと見つめていた。


 そんな会議室を伝令と思しき将兵たちが、所狭しと走り回っていた。時々戦況を話し合うためか、クラビッツや将校たちが何かを話し込む様子が見られた。


 彼らが何を話しているのか、クラウスたちには遠すぎてわからなかった。二人は近くにいる兵士に声をかけた。


「失礼。戦闘が始まると聞いているのですが、どうなっているのですか?」


「はっ! 先ほど第一軍団より戦闘開始の連絡が届きました。すぐに第二、第三軍団に戦場への急行と合流の命令を出しております」


 すでに戦闘が始まっている。その言葉に心臓が高鳴るクラウス。


「状況はわかりますでしょうか?」


「まだ始まったばかりですので何とも。ただ第一軍団だけでは兵力に劣っているらしく、すぐに救援要請を出してきたそうです。第二・第三軍団には早く合流するよう急がせております」


 兵士の言葉にクラウスも緊張する。遠くで戦いが始まっている。その事実が彼に現実を叩きつける。そんな中、彼は奥にいるクラビッツを見た。ただ椅子に座り、静かに佇んでいた。


 切迫した状況のはずだが、奥にいるクラビッツは動じることなく、ただ粛々と己の責務を果たそうとしているようだった。


 その時、クラウスはユリカを見た。彼女は胸に手を置き、どこか苦しそうな顔になっていた。


 やはりこの状況に恐れを抱いているのだろうか? クラウスは彼女の肩に手を置いた。


「クラウス殿、ユリカ大尉。ここは我々に任せて、お二人は業務に専念してください」


 兵士が労わるように声をかけてくる。確かに会議室は自分たちの入る場所はなく、ここにいても邪魔になるだけだった。歯がゆい気持ちだが、こればかりは仕方なかった。


「わかりました。ここで言う言葉ではないかもしれませんが、どうか御武運を」


 クラウスはそう言って、その場を後にした。彼の後に続くようにユリカも立ち去っていく。兵士はそんな二人に敬礼を示してから、自らの職務に走り出すのだった。




 情報部は重苦しい空気に包まれていた。そこにいる将兵たちは何も話さず、何をするでもない。ただ重たい空気が漂うだけだった。


 戦闘開始の報告から数時間。彼らも自分たちの仕事をしようとするのだが、どうしても戦闘のことが気になってしまい、仕事ができる精神状態ではいられなかった。


 上官も彼らも心情を察してか、叱責するようなことはしなかった。


「嫌な空気だな」


 そんな情報部の様子を眺めながら、クラウスが呟いた。クラウスとユリカは椅子に座り、その光景を見つめていた。


 彼らも情報部に来たものの、やはり戦闘が気になって仕事をする気になれなかった。特に話をすることもなく、ただ椅子に座ってじっとしているだけだった。


 時々将兵の間からため息が漏れていた。苦しい気持ちを吐き出すかのように、大きく息を吐いていた。


 誰もが苦しそうだった。辛そうな顔をしていた。


「ここにいる人たちも、やっぱり辛いのよね」


 ユリカが呟いた。彼女は情報部に集まった将兵たちの顔を見ながら、目を細めていた。


「ルシアナさんも言っていたけど、みんな苦しくて、辛いのよね」


「……そうだな」


 ユリカは以前、女給のルシアナに行ったことがある。残る者にも戦いがあるのだと。共に戦争を乗り越えるという戦いが。


 きっと、ここにいる誰もが共に戦っているのだ。それはとても辛くて、厳しい戦いで、苦しいものなのだ。


「君は大丈夫なのか?」


 クラウスがユリカに問いかける。彼女も辛い想いをしているのではないか? 苦しいのではないか? クラウスが問いかけると、ユリカは困ったように笑った。


「辛くないって言えば嘘になるわ。だけど、私は信じるわ。共に戦う仲間のことを」


 そう語るユリカは、しっかりとした微笑みを浮かべていた。


「みんなで乗り越えて見せるわ。この戦争を」


 きっと不安のはずだ。苦しいはずだ。だけど、彼女はここで戦うことを選んだ。今も戦場で戦う仲間を信じるという戦いを。


 そんな彼女の言葉を聞いて、クラウスも微笑みを浮かべた。


 彼女の言葉には根拠も保証もない。意味のない言葉と言われても仕方ない。だが、彼女のその微笑みを見せられると、何故かその通りと思ってしまう。


 いつもそうだ。彼女の言葉には何も裏付けはないのに、不思議と力をもらうことができる。そして何より、クラウスはそんな彼女の言葉にいつも助けられてきた。


 これまでずっと二人で歩いてきた。きっとこの戦争も、二人で乗り越えられるだろう。そんなことを考えて、クラウスは内心で笑うのだった。


 その時、ドアを勢いよく開いて兵士の一人が入ってきた。


「失礼します!」


 その場にいた全ての人間の視線が、その兵士に注がれた。クラウスたちも兵士に視線を向けた。


 多くの人間の視線が突き刺さる中、兵士は息を切らしながら声を張り上げた。



「サンブールの第一軍団より報告! 我が軍はアンネル軍の撃退に成功! 相手は後退したとのことです!」



 静寂は一瞬だった。そして、その静寂を突き破るように爆発が起きた。その場にいた将兵たちの歓喜の叫びが爆発した。


 拳を突き上げる者。共に抱き合う者。神に感謝の祈りを捧げる者。その場にいる誰もが、共通の喜びに叫んでいた。


 きっと耳をすませば、どこかで同じように歓声が上がっているに違いない。


 歓喜の嵐が吹き荒れるその光景を、クラウスもユリカも嬉しそうに見つめるのだった。

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