第二章 迷い

 その日もいつもと変わらない朝だった。いつものように起床ラッパの音色が響き渡る。その音色がクラウスを現実に引き上げてくれた。


 ベッドで目を覚まし、体を起こすクラウス。すっかりラッパの音が身体に馴染んでしまったのか、以前よりも目覚めるのが楽になっているのを感じていた。


 ここで生活するようになってから、すっかり軍での生活に慣れてしまった。軍属とは言え、やはり軍隊に身を置く以上、彼らと寝食を共にしたいと思っていた。


 子供の頃に抱いていた夢をこんな形で叶えている。人生とはどうなるかわからない。それを改めて思い知るクラウスだった。


 身支度を整えてから、彼はユリカの部屋に向かった。いつものように彼女の部屋で食事を取るためだ。ユリカの部屋まで来て、ドアをノックした。


「ユリカ。私だ。入っていいか?」


 ユリカはいつも朝は早い。いつもならとっくに身支度を整えて、すぐに入室を促してくれる。


 ただ、この日は違った。部屋からは何も返答がなかった。


 クラウスは首を傾げる。もう部屋にはいないのだろうかと思い、彼はもう一度ドアをノックした。


「ユリカ。いないのか?」


「あ、クラウス?」


 今度こそユリカの声が帰ってきた。ただその声はどこか戸惑いがあり、何故か困ったような雰囲気があった。


「どうした? 何かあったのか?」


「えっと……」


 口ごもるユリカ。すると部屋に誰かいるのか、ユリカともう一人、部屋で会話しているのが聞こえてきた。少ししてからユリカから声が返ってきた。


「いいわよ。入って」


 中に入るのをためらうクラウス。とはいえ許しを得ている以上、ここで入らないのもおかしな話だ。クラウスはドアを開いた。


「おや? ルシアナさん?」


 クラウスは驚いた。部屋にいたのはユリカともう一人、ルシアナだった。ルシアナは参謀本部の食堂で働く女給だ。ユリカとは気が合うようで、よく二人で楽しそうに会話していた。


 そんなルシアナが、今はユリカの隣に座っていた。その顔は不安そうにしていて、いつもの笑顔がどこにもなかった。そんな彼女を見つめて、ユリカが困ったように笑っていた。


「失礼、邪魔だったなら席を外そうか?」


 とても中に入れる空気ではなかった。そのまま回れ右したい気持ちだったのだが、ユリカがそれを呼び止めた。


「いいえ、あなたもいてちょうだい。お願いだから」


「いや、しかし……」


 さすがにクラウスも困ってしまう。そんな彼にルシアナが声をかけてきた。


「私からもお願い」


 いつもと様子の違うルシアナにクラウスは面食らってしまう。ルシアナははこんな風に弱々しい顔を見せたりはしない。彼女がこんな顔をするなんて、想像もしていなかった。


 そんな顔をされては、さすがに退室する気にはなれなかった。クラウスは無言で席に着いた。


「それで? 一体何があったんだ?」


 話を促すクラウス。口を開いたのはユリカからだった。


「実はね、ルシアナ様は今、お付き合いされている方がいらっしゃるの」


「……え? ルシアナさんが?」


 耳を疑うクラウス。ルシアナは参謀本部でも有名人だった。気立てもいいし魅力的な女性だ。しかし彼女には今まで浮いた話なんて一つもなかった。


 そんな彼女が誰かと恋仲になっている。その事実は驚くに値する話だった。


「相手を聞いても?」


 思わず問いかけるクラウス。その答えは意外なものだった。


「以前参謀本部で火事が起きたでしょう? ジョルジュたちが起こした火事、覚えているでしょう?」


「ああ、覚えている。忘れるなんてできないさ」


 以前、参謀本部で火災が起きたことがあった。それはアンネルのスパイ、ジョルジュが参謀本部で作られていた、グラーセンの機密文書を盗み出すために起こしたものだった。


 あのジョルジュの事件と相まって、クラウスの記憶に鮮烈に刻まれていた。


「その火事がどうしたんだ?」


「あの時、あなたとルシアナ様を保護してくれた憲兵さんたちのこと、覚えていない?」


 クラウスはその時のことを思い出す。あの火災の時、宿舎にいたクラウスとルシアナは憲兵に保護されて、彼らに守られながら避難していた。


「ルシアナ様はね、あの時の憲兵さんとお付き合いしているの」


「え! そうなのですか!?」


 思わず声を上げるクラウス。その声にルシアナはこくんと頷いた。


 そういえばとクラウスは思い出す。あの事件の後から、よくユリカとルシアナが楽しそうに会話しているのを目にしていた。今思えば、あれはルシアナと恋話をしていたのだろう。ユリカはそういう話が大好きだから、二人で楽しんでいたのだろう。


「えっと……おめでとうございます」


 この場で言うのも違う気はするが、とりあえずクラウスはそう伝えた。


「それで、それがどうかしたのか?」


 今はとても楽しい話をしているようには思えなかった。クラウスが問いかけると、ユリカはその先を話した。


「実はね、ルシアナ様から彼のことで相談を受けていたの。戦争が近いから、色々悩んでいるんですって」


「……ああ、なるほど」


 戦争が始まれば、誰であれ無関係ではいられなくなる。軍にいる以上、その恋人も例外ではないだろう。


 しかし、そこでクラウスは思い出す。その恋人というのは憲兵だということを。


「しかし、憲兵なら戦場に行くことはないですし、心配することはないのでは?」


 憲兵は軍の規律や風紀を守る、いわば軍隊の警察組織というべき存在だ。戦場で敵と銃を向け合う戦闘部隊ではないのだ。


「うん、大丈夫。一応そういう話は私も知ってますよ」


 ルシアナが答える。しかしそれならば何を悩んでいるというのだろうか? 首を傾げるクラウスにルシアナがさらに口を開いた。


「ほら。さっき言ったみたいに憲兵って戦場に行かないんでしょう? そのことであの人、悩んでいるんですよ」


 戦場に行かないことを悩む。それは一体どういうことなのか? クラウスの疑問に答えるようにルシアナの話が続いた。


「あの人、他の部隊にいる友人や同僚が戦場に行こうとしているのに、自分が安全な後方にいることが申し訳ないって、ずっと悩んでいるんですよ」


 ルシアナの話を聞いて、クラウスは少し驚いたような顔をした。すぐ横ではユリカが困ったように笑っていた。


 確かにあの時話をした憲兵は、とても真面目そうな人間に思えた。よく言えば責任感の強い人物なのだと。その責任感が故に、彼は彼自身を許せないのだろう。


 ある意味美徳とも思える話だが、しかし同時にある種の過ちとも言えた。話を聞いていたユリカは、慰めるようにルシアナに語り掛けた。


「ルシアナ様。私が言える立場ではありませんが、憲兵というのも、決しておろそかにできない仕事です。彼の悩みはとても素晴らしいものかもしれませんが、彼のような人がいるからこそ、軍隊は機能するのですわ」


 どのような組織にも、裏方や後方組織というのは存在する。戦争では華やかな活躍をする戦闘部隊も、物資を運ぶ補給部隊や怪我を癒す医療部隊がいなければ、戦争を遂行することは出来ない。同じように憲兵がいなければ、軍隊は組織として規律を失う。規律を失った軍隊が敗北した事例は数多く存在する。


 誰一人として無駄な存在はいない。与えられた職務を全うしなければならないのだ。


「どうか彼に会ったら言ってあげてくださいませ。誇りをもって仕事をするようにと」


「……うん、ありがとう」


 慈しむように語り掛けるユリカ。その言葉に安堵したのか、ルシアナはほっとした様子で頷いて見せた。


 とても優しそうに微笑むユリカ。あまり見せたことのない笑みにクラウスもほっとした。ユリカは恋人たちの恋模様をとても大切にしていた。そのせいか、恋をしているルシアナとその彼のことを、本気で応援したいようだった。


 クラウスにもその気持ちはわからなくはなかった。色恋沙汰とは無縁そうだったルシアナが誰かと恋仲になる。それがどれほど素敵なことなのか。クラウスにも感じ取れた。


 その時、ルシアナが戸惑いながら口を開いた。


「ありがとう。でも、やっぱり申し訳ないなって私も思うんですよ」


「申し訳ないとは、どういうことです?」


「ほら、私の場合彼が憲兵だから、戦場に行くことはないけど、実際に行くことになる人に申し訳ないって思うんです。食堂で働くみんなや、街に住んでいる友達の中には、家族や恋人が軍人になっている人がいます。その人たちの中には、戦場に行ってほしくないって、相手を引き留めてる人もいるそうですよ」


「そんなことが……」


 無理もない話だ。誰だって大事な人に、戦場に行ってほしくはないのだ。家族や恋人。もしくは友人。自分の親しい人を引き留めたい気持ちを、否定することはできなかった。


「彼が戦場に行くことがないってのは、正直ありがたいし安心してますよ。だけど周りにいる人たちのことを思うと、あまり顔に出せなくて……」


 ルシアナの複雑な心境に理解を示すクラウス。確かにルシアナのような立場だと、周りに対して申し訳ない気持ちになっても仕方ないだろう。


 困ったように笑うルシアナ。何か言葉をかけるべきか迷うクラウス。そんな中、ユリカがルシアナに声をかけた。


「あまり思いつめてはいけませんわ。あなたが悩んでいたら、彼も辛くなりますわ」


 ユリカがとびきりの笑顔を見せる。ルシアナを元気付けるように、満面の笑みを向けた。


「……うん、そうだね。ありがとう」


 ユリカの言葉がどう響いたかはわからない。だが少なくとも、ルシアナを元気付けることには成功したようだった。


「でも、そちらも大変ですよね。すごい困っているんでしょう?」


 その時、ルシアナが奇妙なことを口にした。軍が困っているとは、何のことだろう? クラウスが問いかける。


「ルシアナさん。私たちが困っているとは、どういうことです?」


「ほら、さっきも言っただろう? 軍人になった家族が戦場に行かないように引き留めているって。そのせいで上層部の間で問題になっているって聞いてますよ」


 初めて耳にする話にクラウスとユリカが顔を見合わせるのだった。




「君たちの言うとおり、軍内部で少し問題になりつつある」


 そう言って参謀本部作戦課・クラビッツ少将はため息を吐いた。その言葉を受け止め、クラウスとユリカはお互いに困り顔を見せていた。


 ルシアナから話を聞いた二人は、すぐにクラビッツの部屋にやって来た。ルシアナの話が本当かどうか、クラビッツに訊きに来たのだ。その二人にクラビッツは話を続けた。


「各部隊の指揮官から報告が上。っているのだ。所属している将兵たちが、家族から引き留めにあっていると相談されているそうだ、指揮官たちも頭を抱えているとのことだ」


 わざわざ報告が来ているくらいなのだ。家族の引き留めというのも、相当なものなのだろう。


「そうですか……やはり引き留めにあっている人たちは、除隊を望んでいると」


「いや、そうではない。全く出ていないわけではないが、ほとんどの将兵は除隊を考えていないと言っているそうだ」


 意外な言葉にクラウスたちが首を傾げる。てっきり除隊願いが出ていると考えていたのだが、クラビッツはそうではないと返してきた。


「閣下。それでは何が問題なのでしょう?」


「そうだな。問題は引き留めにあっている将兵たちの中に、迷いが出ているというのが問題なのだ」


「迷い、ですか?」


「その通りだ。将兵のほとんどは退役を考えておらず、軍人としての責務を果たすと答えているらしい。本音はどうあれ、軍から逃げるようなことはないようだ。ただ、親しい人間から引き留めにあっている者は、戦争に行くことにためらいを持っているようなのだ。要するに彼らの迷いというのは、戦争に対する恐れではなく、家族の言葉という足枷なのだ」


 クラビッツの説明にクラウスたちも納得で頷いた。


 軍人も人間であり、家族や友人、恋人がいる者もいるだろう。彼らにとって大切な人たち。そんな人たちから『行かないで』などと言われて、迷わない人間はいないだろう。


 その迷いを否定することなど、誰にもできないのだ。


「軍隊とは戦う組織だ。個人が一つに集まり、意思を統一させて、同じ目的に向かって行動する組織だ。だが、一部の人間の中で迷いが生じてしまっては、組織としての行動は難しくなってしまう。軍隊は可能な限り統一された機構でなければならない。だが、引き留めにあっている将兵の数は多く、組織として機能することに支障をきたしているようなのだ」


 軍人である彼らも感情を持つ人間であり、個性を有する存在だ。軍隊とはそういう人間の感情や個性を可能な限り排し、統一された意思の下に動く組織でなければならない。


 逆に言えば、将兵の間に迷いがあってはいけないのだ。一部の人間の中で迷いが生じ、意思が統一されることがなければ、組織として機能しなくなる。


 つまりは、戦争の遂行すら難しくなるのだ。


「確かに、それは大きな問題ですわね」


 クラビッツの言葉にユリカも頷く。彼女も情報部とはいえ、軍学校で基本的な教練を受けている。そこで彼女は軍隊における集団行動や規律、統制の大切さを学んでいた。


 将兵たちに迷いが出る。それがどれほど大変なことか、身をもって知っているのだ。


「とはいえ、大事な家族を引き留める気持ちを否定することも憚られる」


 そう呟きながら、クラビッツがもう一度ため息を吐く。


「彼らの気持ちを考えれば、親しい人が戦場に行くことなど、望むことはない。死ぬかもしれない場所に行かせたくはないだろう。それは私たちだって同じだ。私や他の指揮官だって、大事な部下を死なせたくはない。だが軍人である以上、我々は国の命令に服し、死神が闊歩する戦場を歩かなければならないのだ」


 軍人に私心は許されない。国から命令を受け、それを遂行する。そこに個人の感情が立ち入る隙間はなく、軍人として命令に従う。それが軍人として正しい在り方なのだ。


「部下を死なせたくない。口では何とでも言えるが、結局戦争は誰かが死ぬのだ。私たち作戦課は、一人でも多く生きて帰れるように、完全な作戦計画を策定している。だが、どれだけ完璧に思えても、戦場というのは何が起こるかわからぬものだ。私たちが何年もかけて考えた作戦も、戦争という嵐はいとも簡単に飲み込んでしまうのだよ」


 誰も死なせたくはない。だというのに戦争は必ず誰かが死ぬ。それがわかっているのに彼らは戦争に向かう。軍人とはそうした矛盾した想いを持ちつつ、その矛盾とも戦う存在だのだ。


「昔、上官に言われたことがある。戦争もなく、武勲を立てられない平和な時代。そんな退屈な時代に生きて良かったことは、部下を一人も死なせることがないことで、それが一番良かったことだと」


 かつての皇帝戦争以来、大陸では戦争が起きることはなかった。平和な時代となったことで、軍人が活躍するための戦場はなくなり、彼らが英雄となることはなくなった。


 多くの軍人が寂しさを感じると同時に、奇跡のような平和な時代に感謝もしているのだ。


「できれば私も平和な時代が好ましいと思う。未亡人や孤児が増えることもないし、何より謝る部下は少ない方が、私もありがたいからな」


 その言葉にどれだけの想いが込められていたのだろうか? 多くの将兵の運命を左右するクラビッツの言葉。その重責は計り知れず、多くの人間の運命と、国家の命運すら彼の肩にのしかかっている。


 そんな状況であっても、彼は冷静な表情を崩すことなく、その責務を粛々と遂行しているのだ。


 改めてクラビッツという人間の恐ろしさを、クラウスたちは目の当たりにしていた。




「意外と大きな問題になっているわね」


「……ああ、それもかなり重い問題だ」


 そんな風に語りながら並んで歩くクラウスとユリカ。冷静に語り合っているが、その声には暗いものが入り混じっていた。


 家族からの引き留め。将兵の間に流れる迷い。軍上層部も頭を抱えるわけである。


 将兵たちに流れている迷いも、今はまだ下火ではあるが、これが大きなものになれば、戦争の遂行すら危うくなってしまう。


 しかし、彼らが抱く迷いというのも、クラウスたちにも理解できた。


 同じように血が流れ、涙を流す人間なのだ。そんな彼らが戦争を前に迷い、惑うのは当然のことだ。特に家族の言葉を受けてしまっては、なおさらだろう。


 だからこそクラウスたちも大いに悩んでしまう。彼らの迷いを解消する術などないのだから。


「君はどう思う?」


「そうね……」


 クラウスの問いかけに黙考するユリカ。しばらく考え込んだ後で、彼女は顔を上げて言った。


「おじい様に相談してみましょう」


「閣下に?」


「ええ。おじい様の耳にも、この話は届いているはずよ。何か手を打っているかもしれないし、行くだけ行ってみましょう」


 クラウスも頷く。確かにスタールなら宰相という立場から、この問題についても何か考えているかもしれない。


「わかった。行ってみよう」




「その話については政府や議員の間でも話題になっているよ。みんな、頭を悩ませている」


 そう呟きながら、スタールは苦笑いを浮かべた。


 スタールの屋敷にやってきたクラウスたちは、クラビッツから聞いた話をすぐにスタールに投げかけた。その答えがさきほどの苦笑いであった。


「市民の中から、戦争に対する不安が高まっていると報告を受けている。政府も対応をどうするか、苦労しているよ」


「やはりそうでしたか……」


 予想はしていたが、想像通りの答えにクラウスも苦しそうな顔になった。


「ただ、それは市民に限った話ではないのだがね」


「おじい様。それはどういう意味です?」


「戦争を恐れているのは市民だけではない。政府にいる閣僚や議員の中にも、戦争を恐れる声が上がっているのだよ」


 スタールの言葉にクラウスたちは驚いた。市民はまだわかるが、まさか政治家の中にも同じような声が出ているのは想像していなかった。


「おじい様。それは彼らが帝国統一を諦めようとしているということですか?」


 ユリカの鋭い声が響く。それは戦争を恐れる政治家たちに対する怒りが込められた言葉だった。統一を目指すユリカにとっては許せないことだ。


「いや、政府も議会も帝国を統一するという点では意見は一致している。ただ、統一するために歩む道については、意見を異にしているのだ」


「歩む道、ですか?」


 クラウスの声にスタールが頷く。


「つまり、彼らはアンネルと戦争をせずに帝国の統一ができないかと考えているのだ」


 クラウスもユリカも唖然とする。今さら何を言っているのかと、信じられない気持ちだった。


 クラウスたちも戦争をせずに済むのなら、それでいい。血を流すことなく統一が達成されるのなら、一番ありがたい話だ。


 だが、もはや戦争は避けられない事態になっている。アンネルの対決姿勢は明白であり、交渉の余地などあり得なかった。


 そのような状態で、どうやって戦争をせずに統一を達成するというのか? その疑問にスタールが答えた。


「要するに彼らは、アンネルからの要求をある程度吞むことで、統一だけでも達成しようと考えているようなのだ」


「それはつまり、アンネルに譲歩するということですか?」


 ユリカの問いかけに頷くスタール。アンネルとの交渉で、アンネルはグラーセンに要求を突きつけるだろう。統一された帝国内での軍備の配置など、グラーセンに何かを求めてくるはずだ。その要求をある程度呑むことで、統一だけでも達成しようと考えているのだ。


 はっきり言って、何をバカなという気持ちだった。もはや交渉すら不可能な状況なのだ。それを交渉で解決できると考えるのは、現実を直視していないのと同じだった。


 仮にアンネルに譲歩して統一を達成したとしても、それは一時的なものだ。いずれアンネルは統一された帝国に、改めて対決姿勢を見せるだろう。戦争が遅くなるだけの話で、何も変わらないのだ。


「閣下としては、その意見にどうお考えで?」


「そうだね。まず交渉自体不可能だろう。仮にアンネルに譲歩したとして、統一に同意してくれた関係国がグラーセンに対し、不信感を抱いてもおかしくはないだろうね。もしかしたら帝国への参加を考え直す可能性もあるかもしれない」


 アンネルに譲歩して統一された帝国に、どれほどの威光があるのだろう? 大国に対して弱腰になるような国に、他の国が信頼を置くだろうか?


 ビュルテンやシェイエルンなどの関係国は、グラーセンを信頼して帝国の再統一に同意してくれたのだ。グラーセンが弱腰の姿勢を見せてしまっては、彼らの信頼を裏切ることになる。


 そうなった時、彼らは疑問に思うだろう。統一された帝国に価値があるのか、と。


「少なくとも、アンネルとの戦争は避けられない。ここでアンネルとの戦いに勝利して、グラーセンが帝国を統一するのに相応しいと内外に示す必要がある。そうしなければ、帝国の威信は保たれないのだから」


 かつてのクロイツ帝国は強大な国家であり、大陸の大部分を統治する国だった。名実共に『世界に冠たる帝国』だったのだ。


 グラーセンがその帝国を復活させるためには、帝国と同等か、もしくはそれ以上の国力を世界に示す必要があるのだ。


 グラーセンが世界に冠たるに相応しいのだと、勝利によって見せつけないといけなかった。


「まあどちらにせよ、今から交渉するのは難しい状況だし、私もアンネルに譲歩する気はない。ただ議員や政府の中で意見が異なる状態は好ましくない。戦争に対しては挙国一致で挑まなければならない。今言ったような不安定な状態で戦争に突入するのは、あまりに危険すぎる」


 政府にとって戦争というのは、相手国との戦いだけでなく、国内との戦いでもあるのだ。歴史上戦争に敗れた国は、国内の混乱が原因で敗れた国もあった。戦争によって疲弊し、国に不信感を抱く人々によって、王朝や政府が倒されることもあった。


 この状況のままグラーセンが戦争状態に入ったなら、国内は混乱に陥るだろう。そのような状況では戦争の遂行など不可能だ。


 そうなれば残された道は、敗戦への道だ。


 幾万の民を指導する立場にあるスタール。この状況を前に苦しい立場にあるのは明白だった。


「まあしかし、戦争を恐れる彼らの気持ちもわからなくはないがね」


「と、言いますと?」


「かつての皇帝戦争以来、この大陸では戦争が起きたことはない。今この時代を生きる人々は、戦争を知らない世代だ。だが、彼らは世界に覇を唱えたゲトリクス皇帝とアンネル軍の強さを知っている。そのアンネルとの戦争なのだ。恐れない方がおかしいだろう」


 かつては大陸全土を駆け抜けたゲトリクス皇帝とアンネル軍。その歴史から数十年経っているとはいえ、アンネルの強さは変わることはない。


 何より、彼らが最も恐れているのは、ゲトリクス皇帝の影なのだ。世界を制覇した皇帝の記憶が蘇りつつあることで、国民はアンネルを恐れているのだ。


 どれほど訓練された軍隊がいても、最新の兵器を揃えたとしても、戦うのは人間なのだ。戦意なき人間が勝利することなどあり得ない。


 ゲトリクス皇帝の影というのは、そんな彼らの戦意を挫くのに十分な質量があるのだ。


 変な話である。もう数十年前の歴史書の人間一人に、人々は恐れを抱いているのだ。


 その事実にクラウスたちは困惑するのだった。


「私も政府もなんとかして、この状況を改善しようとは思うが、あまり良い意見が出ていないのが現状だ。そういうわけで私も悩んでいるというわけだ」


「心中、お察しします」


 相談しに来たはずのクラウスたちだが、逆にスタールの悩みを聞く立場に変わっていた。それほどこの問題は根深いものなのだ。


「失礼します」


 その時、屋敷の女給が部屋に入ってきた。


「どうした? 何かあったのかね?」


「申し訳ありません。今この屋敷に、若旦那様が訪ねてきたのですが……」


 若旦那という言葉にクラウスが怪訝な顔を見せる。一体誰のことかと考えていると、ユリカが驚いて席を立った。


「お父様がここに!?」


「え? お父様?」


 ユリカの叫びにクラウスが驚愕する。若旦那、つまりはユリカの父親ということだ。その父親が今、この屋敷にやって来ているというのだ。


「おや? 予定では明日来るはずだが?」


「はい。私もそう聞いていたのですが、予定が変わってしまったということで、すぐにこちらに来たということでして……いかがしますか?」


「ああ、構わない。こちらに案内してくれ」


「畏まりました」


 そう言って退室していく女給。彼女を見送った後、ユリカがスタールに向き直った。


「お父様がここに来てるって、本当ですの?」


「ああ、すまない。明日来るはずだったが、聞いた通りだ。後で話そうと思って黙っていたのだよ。すまなかった」


「そうでしたの……いえ、大丈夫です。むしろ嬉しいですわ」


 その時、クラウスがユリカの顔を見た。その顔は確かに嬉しそうに笑っていた。


 ただ、彼はどこか気になってしまった。嬉しそうにしてはいるのだが、どこか不安そうな色も見え隠れしていた。


 ユリカは軍で働いてから、あまり実家に帰ることがないという。父親と会うことも少ないはず。おそらく久しぶりの再会のはずだ。


 それが嬉しくないはずはない。しかしユリカは何故か困ったような笑みも見せていた。どうしてもクラウスには、それが気になってしまった。


 そんなことを考えていると、先ほどの女給が戻ってきた。


「どうぞ、こちらです」


「ありがとうございます」


 女給に案内されて、その男が部屋に入ってきた。彼が部屋に入ると、ユリカが彼に向かって駆け出していた。


「お父様!」


「やあ、ユリカ。久しぶり」


 嬉しそうにはしゃぐユリカと、彼女を優しく抱きしめる男。父と娘の喜びの再会だった。


「お久しぶりです! 今日はお母様はいらっしゃらないのですか?」


「ああ、アイリスは家に残っているよ。どうしても屋敷を空けられなくてね。君に会いに来れないのを残念がっていたよ」


「そうですの……残念ですわ」


 少し語り合ってから、男はスタールにも声をかけた。


「父さん。連絡もせずに急に来てしまって申し訳ありません。予定が変わってしまいましたので、そのままここに来てしまいました」


「いや、構わないよ。ご苦労だったね」


 三人で楽しそうに語り合うのを、クラウスは居心地悪そうに見ていた。そんなクラウスにユリカが顔を向けてきた。


「お父様。こちらがお話していたクラウスですわ」


 いきなり紹介されたことで、クラウスが驚いて身を固めてしまった。そのクラウスを男が静かな眼差しで見つめた。


「君があの……」


 男は優しく微笑みながら、クラウスに向き直った。


「はじめまして。ユリカの父。ヘルベルト・フォン・ハルトブルクです」


「は、はじめまして。クラウス・フォン・シャルンストです」


 穏やかな人物だった。クラウスより少し背の高い紳士で、立ち居振る舞いから礼儀正しさが垣間見えた。スタールと違って、静かな雰囲気が似合う人物だった。


 そのヘルベルトが、穏やかな視線をクラウスに向けてきた。


「ユリカからよく話を聞いています。ユリカがお世話になっています」


「あ、いえ。こちらこそ、お嬢様にはよくしてもらっております」


 その時、クラウスは嫌な予感がした。一体ユリカは父親に、自分のことをどんな風に話しているのか、気になってしまった。


「あの、お嬢様から私のことはどんな風に説明を?」


 その質問にヘルベルトは何かを察したのか、穏やかな笑みのまま答えた。


「ユリカは貴方のことを、とても信頼できる仲間だと話してくれました。貴方がいてくれて助かっていると」


 それが真実かどうかはわからないが、その答えにクラウスはほっとした。いつもなら恋人とかありもしないことを言われて、クラウスが困るのをユリカはよく楽しんだりしていた。


 そうではないとわかって、クラウスは安堵するのだった。


 そんなクラウスにヘルベルトが優しく言葉をかけた。


「クラウスさん。私からもお礼を申し上げます。ユリカを助けてくれて、ありがとうございます。願わくば、これからもユリカをよく助けてやってください」


「は、はい。もちろんです」


 そう答えるクラウスに微笑みかけるヘルベルト。その微笑みは娘を想う父親そのものであり、ユリカを大事に思っていることが伺えた。


「えっと……それでは自分はこれで」


 どうしても居心地の悪いクラウスは、失礼と思いつつも、その場を後にしようとした。


「おや? もう帰るのかね?」


「ええ。せっかくの再会をお邪魔するのも悪いですから」


 スタールにそう伝えると、クラウスはユリカに向き直った。


「ユリカ。話したいこともあるだろうし、せっかくだから今日はこちらに泊まっていったらどうだ?」


「そう? まあそれくらいは大丈夫だろうけど、あなたは残らないの?」


 おそらくクラウスも食事に誘おうとでも考えていたのだろう。辞退するのも失礼ではあるが、さすがに家族の団欒を邪魔する気にはならなかった。


「ああ。帰って参謀本部の料理を楽しむことにするよ。そっちもゆっくり楽しんでくるといい」


「……ええ、そうするわ」


 ユリカが静かに微笑む。いつもの笑みと違い、そこにはどこか寂しさのようなものがあるのを、クラウスは横目で見ながら感じ取った。




 参謀本部への帰路を歩くクラウス。その途中でクラウスは、ユリカが見せた笑みを思い出す。


 父親と再会できて嬉しそうに笑うユリカ。しかしその笑みにはどこか、複雑そうな色も垣間見えた。


 よく考えてみると、彼女は祖父のスタールのことはよく話したりするが、父親の話をしたことがあまりなかった。


 少なくとも父親が嫌いということはないようだ。実際久しぶりに会えて嬉しそうだったし、あの嬉しそうな顔に嘘はなかった。


 だが、嬉しいと思うと同時に、彼女は何かに困っているようにも見えた。


 嬉しいのに困っているとは、一体どういうことなのだろうか?


 答えの出ない疑問を抱え、クラウスは怪訝な顔をするのだった。

「……あれ?」


 その時、クラウスの目に見知った人物の姿が映った。


「フェリックス大尉?」


 クラウスの目の前にフェリックスがいた。クラウスが声をかけようするが、出かかった声が喉で止まった。


 フェリックスはいつもと違い、暗い顔をしていた。まるで今にも泣き出しそうなほどに悲しい顔だった。


「……おや? クラウスさん?」


 そのフェリックスがクラウスに気が付いた。とっさに笑みを浮かべて見せたが、やはり感情までは変えることは出来ず、どこか歪な微笑みになっているのは否めなかった。


「これからお帰りですか?」


「え、ええ。そうなのですが……」


 思わず口ごもるクラウス。その反応で察したのか、フェリックスが苦笑いを浮かべた。


「やっぱり、見られちゃいましたか」


 まずいところを見られたという風に笑うフェリックス。少し辛そうにしているその笑みを前にして、クラウスも訊かずにいられなかった。


「何か、ありましたか?」


 その問いかけにフェリックスは何も答えない。少し黙り込んだ後、フェリックスが顔を上げた。


「帰る前に、少し飲んでいきませんか?」


 その誘いにクラウスも断ることは出来なかった。




 街の片隅にある小さな酒場。人の出入りも少なく、静かに話をするにはちょうどいい場所だった。


 クラウスたちは酒場に入り、カウンターに座る。二人ともビールを頼むと、店主が二人の前にビールを置いた。


「乾杯です」


 フェリックスがグラスを掲げる。それに倣うようにクラウスもグラスを掲げ、フェリックスのグラスに軽く当てた。


 二人同時にビールを飲む。色々な感情を全て飲み下すように、一気に飲んだ。


 口から麦の香りと苦みが漂ったところで、フェリックスが語り出した。


「実は今日、恋人に会っていたんです」


 その言葉にクラウスの記憶が刺激される。以前クラウスたちがビュルテンに行った時、フェリックスから国に残した恋人のことで話をしたことがあった。その恋人のことを話していた時のフェリックスは幸せそうだったと、クラウスは記憶を呼び起こしていた。


 同時に疑問に思う。その恋人と会ったというのに、さっきはあんなに暗い顔をしていたというのか。


 クラウスに嫌な予感がした。


「まさか、婚約を破棄されたのですか?」


「え? あ、いやいや。違います。すいません。そういうことではないんですよ」


 笑いながら否定するフェリックス。その答えにホッとするクラウス。


「それならいいのですが……」


「すいません。婚約破棄とか別れたとかではありません。むしろ……その逆かもしれません」


 歯切れの悪いフェリックス。すると彼はクラウスに問いかけた。


「クラウスさん。最近軍人のみなさんが、家族や親しい人から、戦争に行くのを引き留めを受けているという話を聞いていませんか?」


 あまりにタイミングの良い話にクラウスの心臓が跳ね上がる。今日はその話を調べるために歩き回ったのだ。


 その話をフェリックスがしたということは、もう答えが出ているようなものだった。


「はい。実はそのことで色々と調べていたんです。ということは……大尉も?」


 コクンと頷くフェリックス。彼は少しビールを口に運んでから、また口を開いた。


「彼女に言われましたよ。戦争に行かないでほしい。軍を除隊してほしいと」


 予想通りの話にクラウスはもう驚かなかった。ただフェリックスという身近な人間まで同じような状況になっているという事実に、少なからず動揺していた。


「あまり大っぴらには言えませんが、自分は参謀本部の人間です。前線に出ることはほとんどない立場の人間です。だから大丈夫……と言って

あげたかったのですが」


「……言えなかったのですか?」


 クラウスの問いに頷くフェリックス。


「言えませんでした。自分はやはり軍人で、何があるかわかりません。それに前線に出る人たちのことを思うと、口にしにくいことでもありました。それに、どんなことを伝えたとしても、彼女は納得できなかったと思います。どう言い繕っても、私は軍人ですから」


 市民にとって軍人はどうしたって軍人だ。部署や職務の違いくらいは理解しているだろうが、どうしたって軍人は『戦う人間』なのだ。その恋人にとっても、軍人であるフェリックスが戦争に行ってしまうのだと思っているのだ。


「彼女に言われてしまいましたよ。私と結婚したい。だから、すぐに除隊してほしいと」


 きっと彼女は、壮絶な想いで言葉を紡いだに違いない。愛する人と結婚したいと、それだけを伝えたのだ。


「最初は私からプロポーズしたのですけど、今度は逆になってしまいましたよ」


 自嘲気味に笑うフェリックス。こんなプロポーズの仕方もあるのだろうか? クラウスはそんなことを考えた。


「それで、大尉はどのようにお答えに?」


 クラウスが問いかける。フェリックスはため息を吐いて答えた。


「何も答えることができませんでした。何か答えるべきなのに、答えることができませんでした」


 いつのまにかグラスが空になっていた。フェリックスはそこで一息置いてから、また話し出した。


「私は彼女と結婚したい。以前あなたに話したように、新しくできた帝国の地図を作って、その帝国を彼女と、いつか生まれる子供と一緒に旅をしたい。それは今でも変わりません。でも、どうしてなのか。私には彼女のお願いを聞いてやることができませんでした」


 首を横に振るフェリックス。それは自分に対する呆れなのか。それともやるせない世の中への落胆から来るものだったのか。


「長く軍にいたせいなのか、私には軍を除隊するという選択肢がありませんでした。多くの部下や同僚と一緒に仕事をしてきました。共に笑い、共に夢を語り合った仲間です。そんな仲間を置いて除隊することが、私にはできませんでした」


 フェリックスの言葉を聞いて、クラウスはある言葉を思い出した。


『友が苦しんでいるなら、友の元へ駆けつけよ。たとえそこが煉獄であっても』


 グラーセン軍の標語の一つであり、戦友を見捨てはしないという、グラーセンの魂の言葉だった。


 長く軍で働いてきたフェリックス。きっと彼の魂にも刻まれていたに違いない。グラーセン軍の魂の言葉が。


 それは恥ずべきことではない。責務を果たそうとするフェリックスの在り方は、称賛されてしかるべきだった。


 だが、フェリックスが求めているのはそうした称賛の言葉ではないのだ。彼が望んでいるのは、愛する者からの言葉なのだから。


「私は、婚約者としては失格なのでしょうね」


 そんな力ない笑みを浮かべるフェリックス。自分に失望した人間の、悲しい微笑み。


「そんなことは、ないと思いますが……」


 フェリックスの笑みを見て、クラウスはそれだけしか言えなかった。こんな時、ユリカがいればどんな言葉をかけてあげるのだろうか? ここに彼女がいないことをクラウスは悔やんだ。


 ただ、クラウスにもわかることが一つだけあった。彼はそれをフェリックスに伝えてあげた。


「少なくとも、そんなフェリックスさんを相手の方は選んだのだと思います。それは事実ですし、胸を張っていいと思います」


 こんな風に思い悩むフェリックス。誠実で真面目で、柔らかい微笑みを浮かべる彼を、相手は選んだのだ。それは胸を張って自信を持っていいことなのだとクラウスは思った。


 きっとユリカならもっといいことを言ってくれるはずだ。それに比べて自分の言葉に力がない事を、クラウスは情けなく思った。


 ただ、その言葉がいくらか力になったのだろうか。クラウスの言葉を聞いたフェリックスの笑みに、少しだけ力が戻っていた。


「ありがとうございます。クラウスさん」


 その笑みに対して、クラウスもほっとして微笑みを返すのだった。


「そういえば、今日はお一人ですか? ユリカ様はご一緒では?」


「ああ。実は今日は家族と一緒にいることになったんですよ」


「家族? それって、スタール宰相と一緒ということですか?」


 この国のほとんどの人間が知っているユリカの祖父。やはり誰もが一番に思い浮かぶようだ。


「ええ。閣下もですが、今日は実家から彼女のお父さんもこちらに来ているんですよ。久しぶりの再会なので、せっかくだからあちらに泊るよ

う勧めたんですよ」


「そうだったんですか……」


 その時、注文していたビールが二人の前に運ばれてきた。フェリックスは一口飲んでからクラウスに向き直った。


「あまりユリカ様のお父上の話は聞いたことはありませんね。仲が悪かったりするのでしょうか?」


「いえ、私も会いましたけど、不仲という感じには見えませんでしたね。普通に仲のいい家族に見えましたよ」


「そうですか……」


 その時、フェリックスが黙り込んだ。何かを考えているようだった。


「どうしました?」


「いえ。この時期に会いに来るというのも、少し気になりましてね。もしかしたらお父上は、ユリカ様に軍を除隊するよう話をしに来たのかもしれませんね」


 そんなフェリックスの何気ない一言に、クラウスの脳に浸透していく。


 確かに父親と会った時、ユリカは笑っていた。しかしその笑みにはどこか、複雑な何かがあるのもクラウスは感じていた。


 今思えば、あれは父親との間に、何かわだかまりでもあったのではないのだろうか?


「まあ、大丈夫とは思いますけどね」


 そんな風に笑うフェリックス。その言葉はクラウスの耳には届いていなかった。

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