第六章 新たな出発
その日の朝はぼんやりとした目覚めとなった。クラウスはすぐにベッドから起き上がり、身支度を整えると、そのまま食堂に向かった。
「おはようございます。クラウスさん。お加減はいかがですか?」
食堂にはアイゼンと、すでに起きていたユリカが着席していた。
「おはようございます。まだ少しぼんやりとしますよ」
「あら、それはいけないわ。すぐに食事にしましょう。食事をすれば頭も冴えるわ。きっと」
「そうですね。それでは早速いただきましょう」
そんな会話を交わしながら、クラウスも席に着席し、朝食をはじめた。
「ほら、クラウス。これ読んだかしら?」
そう言ってユリカがクラウスの前に何かを差し出した。
「これは?」
「新聞社・コメルサントの世紀のスクープよ。一部丸ごと、暗殺事件について書いてあるわよ」
ユリカはすでに中身を読んでいるのか、その内容にご満悦のようだった。
クラウスたちが未然に防いだ皇帝暗殺事件。事件のことが明るみになった途端、パブロフスクにある新聞社の間でスクープ合戦が始まった。
そんな中、コメルサントは一部全てを暗殺事件について書かれた新聞を売り出した。ユリカとの取引もあり、コメルサントは他の新聞社では知り得ない情報まで仕入れており、そのセンセーショナルな内容に市民の興味は強く刺激されていた。
コメルサントは今、最も読者が多い新聞社となったに違いなかった。
クラウスも新聞を開いた。そこには暗殺事件に関わった人々についても書かれていた。
フォードルを狙った犯人は警察署で全てを自供した。彼らに協力したグループのことも市況しており、そのグループも逮捕、投獄されているという。後は裁判にかけられることになるだろう。
「色々ありましたが、これで一応の解決にはなりましたね」
「そうですね。これで少しは落ち着くと思いますよ」
アイゼンも一息つく。彼もこの数日間は働きづめだったに違いなかった。
「そういえば、例の件について、本国から返答はありましたか?」
クラウスの問いかけにアイゼンが答えた。
「はい。ドネプルなど飢饉に苦しむ地域に対して、グラーセンも支援を行う用意があると、返答がありました」
その答えにクラウスが嬉しそうに笑う。クラウスは本国に対し、ドネプルなどの地域に支援できないかと、アイゼンを通じて問い合わせていた。ありがたい答えにクラウスも喜んでいた。
アスタボ皇帝の暗殺未遂事件。その原因となったアスタボ南部での飢饉。アスタボが事実を公表したことで、大陸中の人々が真実を知り、注目する事件となっていた。グラーセンでも多くの関心を集めているという。
「グラーセン政府も支援について協議中とのことです。まだ色々と時間は必要でしょうが、必ずグラーセン政府は動いてくれるはずです」
グラーセンにとってもアスタボの安定は望ましいことだ。そのためなら支援を惜しむことはないだろう。
「と言っても、どこまで支援できるかはわかりませんがね。どれほどの規模の支援が必要なのか、想像ができませんから」
クラウスが暗い顔をする。ドネプルで起きた飢饉の被害は予想以上に深刻なものだったようで、生半可な支援では復興は厳しいという。グラーセンもできる限りのことはしてくれるだろうが、どこまでできるかわからなかった。
「何か良い考えがあればいいのですが……」
「あ、それでしたらアイゼン大使。一つ提案があるのですが」
そこでユリカが手を挙げる。彼女はそれから、一つの計画を話し始めた。
数日後、宮殿に招かれたクラウスたちは、フォードルとハープサルのいる部屋に案内された。
「まずは、先日助けてくれたこと、お礼を言わせてもらう。ありがとう」
フォードルからのお礼の一言。皇帝から素朴な感謝を言われるというのもあまりない経験だ。クラウスも不思議な感覚になった。
「私からもお礼を」
今度はハープサルから感謝を告げられた。
「お二人は陛下をお守りいただき、事件解決にまで手を貸してくださいました。アスタボ政府を代表して、お礼を申し上げます」
国を代表する二人に感謝されるという場面にクラウスは戸惑いを見せつつも、言葉を返した。
「もったいない御言葉です。お役に立てたなら嬉しく思います」
クラウスの様子が面白いのか、横でユリカがおかしそうに笑っている。
「さて、君たちにはお礼をせねばならぬのだろうが……君たちはグラーセンと我が国との間に不可侵条約、もしくは中立を得るために来たということだったな」
クラウスたちの目的。それはグラーセンとアンネルの戦争のために、アスタボとの間に不可侵を結ぶためだった。フォードルは一呼吸置いて口を開いた。
「今回は私を助けてくれた。それにアスタボの新しい不凍港の建設にも譲歩してくれる。ここまでされて、それに報いないわけにはいかないだろう」
「それでは……」
クラウスたちの顔が綻ぶ。そんな二人にハープサルが伝えた。
「不可侵条約までは難しいかもしれませんが、少なくとも中立だけはお約束しましょう。グラーセン政府やスタール閣下にも、そうお伝えください」
もし皇帝の前でなければ、クラウスはここで拳を突き上げていたかもしれない。自分たちの望んでいた答えを得たのだ。感情が爆発しそうな気分だった。
それに対し、ユリカは淑女らしく、優雅にその場で膝を折った。
「ありがとうございます。陛下と閣下の寛大な御言葉に嬉しく思います。我が祖父、スタールとグラーセン国民を代表し、深く感謝申し上げます」
優雅に、踊るように微笑むユリカの様子を、クラウスは驚きながら見ていた。さきほどまでの自分の態度を恥じると同時に、さすがはハルトブルクの令嬢だと感心していた。その時、クラウスが気になっていることを質問した。
「そういえば、例の犯人たちはどうなったのですか?」
皇帝暗殺を企てた反逆者。彼らは近代化に伴う痛みの被害者であり、そのために大切な家族も失っている。皇帝に反する大罪人ではあるが、その一言で済ませることが、クラウスにはどうしてもできなかった。
そんなクラウスの心情を察したのか、フォードルが自ら答えた。
「理由はどうあれ、彼らは暗殺を企てたのだ。極刑まではないだろうが、それ相応の処罰を与えられるだろう」
相応の処罰。長きに渡る懲役か、遠く彼方への流刑か。どちらにせよ、厳しい刑罰には変わりなかった。
仕方ないこととはいえ、冷たい結末にクラウスの顔が暗くなる。
「まあ、それも長くはない。来年には釈放されるだろう」
そんなクラウスに告げるようにフォードルが唐突に呟いた。
「釈放? 来年にですか?」
思わず問い直すクラウス。皇帝暗殺を企てたにしては、あまりに早い気がする。見れば横にいるユリカも同じように首を傾げていた。
不思議そうな顔をする二人に、フォードルは何でもないことのように呟いた。
「来年、皇帝の世継ぎが生まれるのだ。犯人たちにも特赦が与えられるだろう」
「……え?」
皇帝の世継ぎ。その言葉を受けたクラウスもユリカも口を開いて驚いた。
「それは、つまり、皇后陛下が御懐妊を?」
声が震えるクラウス。するとハープサルが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「まだ公表はしておりませんが、医者の目立てでは来年お生まれになる予定だそうです」
皇帝に子供が生まれる。それは十分特赦を与えられるだろう出来事だ。
「それは……おめでとうございます!」
「おめでとうございますわ!」
クラウスたちが祝いの言葉を口にする。ただそれを受け取ったフォードルは、複雑な顔をした。
「ありがとう……だが、人の親や家族を失わせておいて、自分には子供が生まれるというのだ。皮肉な話だ」
自分を狙った暗殺犯のことを言っているのだろう。確かに皮肉な話ではある。しかもその子供が生まれることで、その暗殺犯には特赦が与えられるかもしれないのだ。神の気まぐれというのは、どこまでも迷惑なものだった。
「陛下。そのようなことを言ってはかわいそうですわ」
そんなフォードルにユリカがそんなことを言い出した。
「陛下のお子様の御誕生を皮肉と言ってしまっては、お子様も皇后様もかわいそうではありませんか」
ユリカの言葉にフォードルが驚いた顔を見せた。
「まずは喜びましょう。新しい命の誕生は呪われたものではなく、祝われるものではくては」
確かにその通りだ。たとえ神が祝福しなくても、父となるフォードルだけでも祝福しなくてはならない。そのことに気付かされ、フォードルが小さく笑った。
「ユリカ殿の言うとおりだ。ありがとう」
ユリカの言葉にフォードルは、少しだけほっとしたようだ。今回の件も含めて、君主として色々と背負っていたのだ。その重みが少しだけ軽くなった。
せめて素敵な瞬間くらいは、君主としての苦しみから解放されてほしい。クラウスはそう思った。
「そうだな。新しい世継ぎが生まれるのだ。その子のためにも、この国と国民を残してやりたいものだ。そのためにまずは地方の立て直しを急がないといけないな」
「そうですな。時間はかかるやもしれませんが、成し遂げなければなりませんな」
そんな風なことをフォードルとハープサルが呟いた。世継ぎの誕生を前に決意を固くしていた。
「あ、陛下。そのことなのですが」
と、そんな二人にユリカが手を挙げた。
「南部の飢饉については、私に考えがるのですが、聞いてもらえませんか?」
「考え、ですか?」
ハープサルが問いかける。一体どんな考えなのか、フォードルも耳を傾けた。その二人にユリカが答える。
「陛下。あの美術館に展示してある帝室の財宝を、グラーセンにある美術館に貸し出してはいただけませんか?」
「あの財宝を? それは構わないが、貸出とはどういうことかね?」
あそこにある財宝は元々売却を考えていた。そうして得た資金でドネプルの復興資金にするつもりだった。それをユリカは買取ではなく、貸してほしいと申し出た。
真意のわからないフォードルが問いかけると、ユリカはにっこりと笑った。
「あそこにあるアスタボ帝国の栄華を伝える財宝の数々。その品々を我がグラーセンの美術館で展示会を開きたいと思っているのです」
「展示会か。しかしどうしてまた?」
フォードルのさらなる問いにユリカはその真意を伝えた。
「我がグラーセンの美術館で展示会を開くことで、グラーセン国民からドネブルの復興資金の義援金を募ろうと考えております」
ユリカの計画にフォードルもハープサルも驚きを見せた。その二人にさらにユリカが語り掛ける。
「あれほどの素晴らしい財宝なのです。グラーセン国民も一目見たいと集まってくれるはず。そこで国民にドネプルでの惨状を訴え、復興の義援金を募れば、国民から少ないながらも資金が集まるはず。もちろん、展示会の入場料も全てアスタボに義援金として譲渡いたします」
「そ、それは……よろしいのですか?」
大胆な申し出にさすがのハープサルも戸惑いを見せる。その戸惑いに対し、ユリカは笑みを見せたままだった。
「すでにアイゼン大使にも提案しております。おじい様……スタール宰相にもお伝えすれば、快く賛同してくれるはず。それに、これは我々にとっても利益になるはずです」
「と、言いますと?」
両国にとっての利益。それが何を意味するのか。ユリカはその意味を説明した。
「グラーセン国民の中にも、少なからず貴国に対する脅威を感じている者もいるはず。私が考えているのは、アスタボ帝国の財宝を展示することにより、両国の友好を促進することにあります」
「ほう? 友好の促進?」
ユリカの申し出にフォードルも興味深そうに身を乗り出す。
「あれほどの財宝の展示会を開けばグラーセンとアスタボの友好、交流につながるはず。陛下には中立を約束してくれましたが、そこに疑いを持つ者もいないとは限りません。であれば、これを両国の外交事業の一環として、両国の関係深化に繋げられればと考える次第です」
アスタボの財宝の展示会。それを利用した外交事業。アスタボはドネプルの復興資金を。グラーセンはアスタボとの友好を深める。それがユリカの狙いだった。話を聞いた時はクラウスも驚いた。そんなことを考えつくとは、思ってもいなかった。
もしかしたら彼女は、将来的にグラーセンとアスタボの同盟に繋げようとも考えているかもしれない。
一人の少女の大胆な計画。長く政治に関わるハープサルも驚きを見せていた。その横ではフォードルが感心したように頷いていた。
「なるほど。さすがはスタール宰相の孫娘ということか。そのような策を練り上げるとは、さすがとしか言いようがないな」
「まさか帝室の財宝にそのような価値を見出すとは……」
フォードルたちの言葉にユリカは慣れた様子で笑って見せた。
「グラーセンの女の子は綺麗な宝石が大好きですから、みんな集まってくれますわ。きっと義援金も集まるはずです。どうぞ、有効に使ってくださいませ」
そんな彼女の笑みがどう映って見えたのか。フォードルが呆れ笑いを見せた。
「おかしな話だ。たった一人の少女に我が国が救われようとしている」
そうして、フォードルはユリカとクラウスを交互に見た。彼の目には感謝の色が見えていた。
「君たちは私だけでなく、我が国幾万の民も救ってくれる。個人としても皇帝としても、君たちに二人に感謝したい。ありがとう」
皇帝からの直々の御言葉。畏れ多い感謝の言葉にクラウスもユリカも頭を下げた。
歴史書には残らない時間。物語にもない出来事。しかし確かにそこにあった真実。
アスタボ皇帝と一人の少女の邂逅は、こうして終わった。それは誰にも知られない、しかし確かに国を、歴史を動かした瞬間だったのだ。
大使館に戻り、部屋で一息つくクラウス。さすがに皇帝との会談は緊張しっぱなしだった。疲れた様子のクラウスにユリカが笑って近寄る。
「まるで年を取ったみたいな疲れ方ね」
「ああ。それも悪い年の取り方だ。疲れるばかりで全く成長していないようだ」
いつまでもこうしたことには慣れることはない。自分でも情けないとクラウスは思った。
「君はいつも堂々としているな。さすがだ」
「ふふ、ありがとう。あら?」
その時、ユリカが何かを見つけた。机の上にいくつかの小包があった。
「これ、私とあなた宛てよ。何かしらね?」
二人に届けられた小包。手に取ってみると、そこにはミハイロ美術館からの荷物だと書かれていた。
「ああ。美術館で買ったお土産だ。さっき届いたみたいだな」
それはミハイロ美術館で買った雑貨やお土産だった。あの日は皇帝を狙った爆発事故もあり、美術館はしばらく閉館していた。それも再開したようで、その時買ったお土産もやっと届けられたようだ。
「ああ、本当ね。よかった。やっと届いたのね」
小包を手に取ってユリカが嬉しそうに笑う。そんな彼女の顔を見てクラウスがあることを思い出す。
「ユリカ。いいか」
「ん? 何?」
クラウスはそのまま、小包の一つを開けた。そこから彼はティースプーンを二本取り出すと、一本をユリカに差し出した。
「これ、受け取ってくれるか?」
いきなりのことにユリカが可愛く首を傾げる。
「これ、私に?」
「ああ。私とお揃いの物を買っておいた。使ってくれ」
あの日、ユリカは皇帝一族が使っていたという食器に目を輝かせていた。それを見ていたクラウスは、彼女にティースプーンを買ってあげようと思い立ったのだ。
自分とユリカ。それぞれ一本ずつ。お揃いのティースプーンだ。ユリカはスプーンを顔に掲げて見せた。綺麗に光るスプーンを見て、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。クラウス」
買ってよかった。その笑顔を見られるだけでそう思うのだから、クラウスには不思議だった。
「でも、それならちょうどよかったわ」
その時、ユリカが声を上げた。今度は彼女が小包を開いた。彼女はそこから二人分のティーカップを取り出した。そして、その内の一つをクラウスに差し出した。
「はい。こっちはあなたのカップよ」
今度はクラウスが首を傾げた。彼女の手には二つのティーカップ。つまりお揃いのカップということだ。
「まさか、君もお揃いのカップを買っていたのか?」
「ええ、そうよ。あなたとお揃いよ」
彼女はそう言って、自分のカップとクラウスからもらったスプーンを持った。
「二人とも、考えることは同じみたいね」
おかしそうに笑い出すユリカ。お互いにお揃いの物を買うなど、二人は提案もしていないのに、同じことをしてしまっている。そのことにユリカは面白そうに笑った。
クラウスも笑った。こんなことがあるのかと。
「こういう偶然も、あるのだな」
「あら。偶然じゃないわ。きっと」
「ん? どうしてだ?」
そこでユリカがいつもの笑みを零した。いつもの笑みを浮かべたまま、彼女は答えた。
「だって、私とあなただから、運命に決まっているわ」
一体どこにそんな根拠があるのだろうか? 彼女は自信満々に答える。
しかし、根拠も何もないはずなのに、彼女が言うとその通りかもしれない。そう思えるのだから、不思議だった。
そして、それが彼女の魅力なのだとも、クラウスは思うのだった。
「あ、そうだわ」
そこでユリカが手を叩く。
「今からお茶にしない? 美味しい茶葉があるから」
「そうだな。せっかくだから、淹れてもらえるか?」
その言葉にユリカはニンマリと笑った。
「ええ。喜んで!」
そう言ってユリカはすぐにお茶の用意を始めるのだった。
アスタボに夕日が沈もうとしていた。二人で勝った二人分のティーセット。それで飲む紅茶はきっと、美味しいに違いなかった。
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