第三章 狼の微笑み

 給仕に案内されたクラウスたちを見つけると、ジョルジュは椅子から立ち上がり、嬉しそうに二人を歓迎した。


「やあ、待っていたよ。さ、席へどうぞ」


 にっこりと笑いながら二人に着席を促す。ちゃんと席は二人分用意されていた。彼らが来ることが最初から分かっていたかのようだった。


 だからこそ怖い。何故彼女は自分たちがここに来ることを知っていたのだろうか? クラウスは恐ろしく思った。


「ありがとうございます。それでは、失礼して」


 ジョルジュに促されてユリカは席に座った。クラウスもそれに続いてユリカの隣に座った。


「食事は済ませてきたかな?」


「はい。ですけど、デザートがまだですので、こちらでいただこうかと」


「ははは。それにはいい。デザートは乙女の嗜みだ。ぜひ楽しむといいよ」


「それでは、お言葉に甘えて」


 ユリカが給仕を呼んで、ケーキと紅茶を注文した。クラウスもコーヒーを一つ注文した。


 そんな二人を見ながら、ジョルジュは今日もエスプレッソを美味しそうに飲んでいた。その様子がいちいち様になるのだから、不思議なものだ。


「さて、今日は私に何か用があるようだけど、どんな話なのかな?」


 唐突に切り出してくるジョルジュ。クラウスは即座に質問を返した。


「君は、どこまで知っているんだ?」


 いきなりの問いかけにジョルジュは首を傾げた。


「さて? それはどういう意味の質問かな?」


「君は私たちがここに来ることを知っていた。どうしてここに来るとわかっていたんだ?」


 自分たちより先に店に来て、二人が来たら案内するように給仕に依頼していた。さらに自分の席には二人のために席を二つ用意していた。自分たちの行動を読んでいたとしか思えなかった。


 本当は全て知っていたのではないか? そう思えてならなかった。


 質問の意図を把握したのか、ジョルジュはまるで手品師のように両手を広げた。


「大したことじゃないさ。実は私はとても耳が良いから、君たちのことは遠くからでもわかるのさ。モンデリーズに来るようだったから、私も会いに来たというわけさ」


 冗談とわかる話をするジョルジュ。しかし、ここまで用意周到だと、本当にそうなのではないかと思わずにいられなかった。クラウスはそれ以上何も言い返さなかった。


「まあ、そんなつまらない話をしてもしょうがない。何か私に話があるのだろう?」


 先を促すジョルジュ。それに応えるようにユリカが口を開いた。


「単刀直入に訊きます。ジョルジュ様。貴方は一体何が目的なのでしょう?」


 ユリカの問いかけにジョルジュがニィッと笑みを浮かべる。ユリカの質問を楽しんでいるようだった。


「目的、というと?」


「ジョルジュ様。貴方たちアンネル情報部が何かを狙っていることは確かです。ですが、具体的に何を狙っているのかまではわかりません。貴方たちの狙いが何なのか? 差し支えなければお教えいただけませんか?」


 駆け引きも話術も存在しない。真っ直ぐな問いかけだった。しかしその言葉の中には、わずかに鋭さを感じさせた。ジョルジュに負けまいとするユリカの意志があったのかもしれない。


 そんなユリカの言葉を楽しんでいるのか、ジョルジュは心地よさそうに笑った。


「狙い、か。なるほどね。いいだろう。実を言うと私もそれに関して君たちに提案したいことがあるんだ。それも含めて今日はお話させてもらおう」


 思わず腰を浮かしかけるクラウス。本当に教えてくれるのか、半信半疑だった。だが、ジョルジュという少女が嘘を言うとも思えない。クラウスは黙って彼女の言葉を待った。


「この際だからはっきり言おう。私たちの目的、それはグラーセン軍が策定している、対アンネル戦争の作戦計画。その内容が私たちの目的だ」


 ジョルジュの言葉にクラウスもユリカも沈黙した。あまりにあっけなく答えてくれたからか、ジョルジュの言葉を理解するのに時間がかかってしまった。


「……対アンネル戦争の作戦計画?」


 やっとのことで言葉を吐き出すクラウス。それに対してニッコリと笑みを返すジョルジュ。


「そう。グラーセン軍が推し進めている我が祖国との戦争計画。それを手に入れることが、私たちの目的なのさ」


 その時、給仕が注文された料理を持ってきた。料理を置いてウェイターがその場を離れると、再びジョルジュが口を開いた。


「スタール宰相閣下の演説、そこから始まった帝国再統一運動。この事態を前にして、我がアンネルと貴国との間に緊張が生まれている。のんびり屋のアンネル政府も勤勉さを取り戻し、軍部も予算の増額を求めるようになった。アンネル軍ではすでに戦争準備を始めている」


 スタールの演説に対し、アンネルは明らかに反発していた。明確な意志を見せてはいないが、敵対する姿勢は見えていた。


「そんな中、グラーセンがアンネルに対する戦争計画を立てていると情報を仕入れた。そこで私に計画書を盗んで来いと命令が下ったわけさ」


 確かに両国の間には緊張感が高まっている。アンネルがグラーセンに対して警戒を強めたとしてもおかしくはなかった。


 しかしながら、戦争という過激な言葉にクラウスは戸惑いを見せた。アンネルでは戦争準備を始めているという。それほどの事態なのかとクラウスは怪訝な顔を見せた。


 そんなクラウスの疑念を感じ取ったのだろう。ジョルジュが静かに言った。


「恐らく、戦争は避けられないよ。今日の夕方なのか、それとも遠い明日なのかはわからない。だけど確実に起こる。それは絶対だ」


 その言葉に反論できなかった。恐らく多くの人があり得ないと思うだろう。だけど、感じる人は感じているのだ。戦争の気配を。


 スタールの演説は導火線に火をつけた。その導火線がどれくらいの長さなのかはわからない。だが、一度火が付けば必ず火薬庫に到達し、爆発するだろう。


 歴史を突き動かす、大きな爆発が。


「……なるほど、それが貴方の目的ですのね? しかし、質問しておいてなんですけど、私たちに教えてよろしいですの?」


 ユリカの疑問にクラウスも同じように考えた。確かに自分たちに目的を打ち明けていいのだろうか? ジョルジュの大胆さから考えれば不思議ではないが、その意図がわからなかった。


「そう。君たちに教えたのは、実は提案があるんだ」


 彼女はそう言うと、悪巧みをするような笑みを向けてきた。

 


「君たち、私たちに寝返る気はないかい?」


  

 散歩に誘うような気軽な問いかけだった。その気軽さが逆にクラウスを凍えさせた。


「……君は、何を、言っているんだ?」


 途切れがちに話すクラウス。すると今度はジョルジュもはっきりと口にした。


「私たちの計画に協力して、計画書を持ち出してくれないだろうか?」


 淡々と話すジョルジュ。その言葉の意味に気付いているクラウスは何も言い返せなかった。そんな彼に代わって、ユリカが口を開く。


「つまり、私たちに祖国を裏切れと?」


「そうだ。もちろん、ただでとは言わない。私たちの味方になってくれれば、君たちをアンネルでかくまうつもりだ。生活は保障するし、君たちが望むなら、アンネルの情報部でそれなりの地位も約束しよう。これでもデオン家の人間だからね。ある程度は融通が利くよ」


 祖国を裏切る。そんなことを言われるとは思ってもいなかった。クラウスは自分が息をしているのかさえわからなかった。それくらいジョルジュの言葉は衝撃的だった。


「今の提案でも足りないなら、何か要求するものを言ってくれ。できるかぎり叶えようではないか? どうだい?」


 反逆者にならないかと、ジョルジュは二人にそう言っているのだ。


 そんなことを言われるだなんて、クラウスは夢にも思わなかった。こんな簡単に裏切りを提案してくる目の前の少女が恐ろしかった。


 今目の前にいるのは本当に少女なのか? 本当は少女の姿をした悪魔なのではないか? クラウスは恐怖を振り払うように、彼女に質問を投げかけた。


「ローグ王国でもそうやって、協力者を作ったのか?」


「ローグ? ああ。あれか」


 クラウスの言葉にジョルジュが嬉しそうに手を叩いた。


「私のローグでの活動を調べてくれたのか。いや、嬉しいね。あれは特に上手くできた仕事だった。帰国してからのワインがとても美味しかったのを覚えているよ」


 はしゃぐように語るジョルジュ。そんな彼女にクラウスはさらに続けた。


「今話したみたいに、ローグでも協力者を作ったのか? 一体その協力者にはどんな対価を払ったんだ?」


「ああ、別に何でもないよ。彼の望みを叶えてやったのさ」


 そこでジョルジュが一息置く。それから彼女は昔話を始めた。


「あの時作った協力者は、ローグ王国への復讐を願っていたんだ」


「王国への、復讐?」 


 復讐という不穏な言葉に戸惑うクラウス。ジョルジュはそれに応えるように話し続けた。


「君たちは覚えているだろうか? 五年前に起きたローグ海軍の軍艦・カローデンの沈没事故のことは」


「カローデン? 確か当時の新造艦で、訓練中に沈没したという事故か」


「覚えてますわ。当時の乗組員のミスが原因だったと記憶しておりますわ」


 ローグ海軍が新たに建造した軍艦カローデン。就役したばかりのカローデンはドッガー海での訓練に出ていた。そこで悪天候に見舞われ、一晩のうちに沈没した。艦長を含めほとんどの乗組員が亡くなるという、ローグ海軍史上最悪の海難事故だったという。


「あの事故がどうしたというのだ?」


 クラウスがそう問いかけると、彼は不思議なものを見た。彼の問いかけに対して、ジョルジュがくつくつと笑っていた。


「何が、おかしいんだ?」


「ふふ、失礼。そうだな。乗組員のミスで沈没したらしいね」


 まだ笑い続けるジョルジュ。クラウスが怪訝に思っていると、彼女はその疑問に答えた。


「あれは人為的なミスが原因ではない。あの事故は、軍艦の設計ミスが生んだ事故だよ」


「……軍艦の、設計ミス?」


 クラウスはすぐに意味を理解できなかった。軍艦一隻の沈没事故が、設計ミスが生んだという事実。信じられないのはユリカも同じようで、隣で絶句していた。


「待て、そんな話は聞いたことがない」


「それはそうだろうね。当時のローグ海軍の上層部が事実を隠したのだから」 


「事実を、隠した?」


 いきなり明かされるローグ海軍の闇の部分。あまりに不穏な内容に嫌悪すら覚えるクラウスたち。そんな二人にジョルジュは、ローグ海軍が犯した罪を話し始めた。


「新型軍艦の沈没。それだけでも責任重大なことだが、それが設計ミスによるものというのは、海軍の上層部にとっては都合が悪かったのだろう。そんなことが知られたら、海軍の権威すら失墜しかねないからね。そこで彼らがやったのは、死んだ乗組員に罪を被せることだった」


「それはつまり……犠牲者をスケープゴートにしたということか?」


 クラウスは自分で語った言葉に吐き気を催した。あまりに醜悪な話に彼は頭痛を覚え始めていた。


「乗組員は艦長をはじめ、ほとんどが亡くなっていたからね。海軍にとっては都合のいい生贄に見えたわけさ。死人に口なしとは、こういうことを言うのだろうね」


 そんな醜悪な話を、まるで笑い話のように語るジョルジュ。とても笑顔で話せるような内容ではないはずだ。しかし彼女の微笑みは変わらなかった。


「こうして沈没事故は艦長や乗組員たちのミスであるとされ、真実は隠されてしまった。だが、その話に疑問を持つ者がいた。それがさっき話した協力者なのさ」


 ローグで得た協力者。確かその人物は海軍の開発局にいたという話だった。


「カローデンに乗り込んでいた士官の一人が、彼の親族だったんだ。遺族を失った上に、その遺族が沈没の罪を着せられたわけだ。いい気分ではないだろうさ。海軍の発表に疑問を持っていた彼が密かに調べると、何か怪しいものを感じたらしい。そうして調べるうちに、あれは設計ミスだったとわかったのさ」


 元々その男は開発局にいたのだ。軍艦の設計図を見れば、ミスに気付くこともできたのだろう。


「当然彼は海軍に真実の公表を求めたらしいが、あれはもう終わったことだと否定されたそうだ。ひどい時は昇進が遅れるからやめておけなんて言われたらしい。彼は海軍に対し、ひどく失望したそうだよ」


 無理もない話だ。自分の親族に罪を被せられ、その汚名を晴らせずにいる。栄光ある王国海軍。その威光の影に彼ら犠牲者がいる。あまりにひどい話だった。


「それからというもの、彼は王国海軍への復讐を願うようになった。多くの死者に罪を着せ、自分たちの権威を守ろうとする海軍。いつか奴らに復讐をしてやると考えるようになった。そこに現れたのが私というわけだ」 


 その時のことを思い出しているのだろうか? ジョルジュは満面の笑みで笑っていた。彼と接触した時のことを、まるで思い出のように語っていた。


「我がアンネル情報部では、設計ミスのことや真実の隠蔽についてはわかっていたからね。その犠牲者の関係者に彼がいることを突き止めた。私は彼に接触して提案したのさ。君の復讐に協力するから、私たちの仲間にならないかってね」


 目の前に現れた少女。その少女が語る悪魔のような言葉。男にとって少女はどんな風に映って見えたのだろうか? 願いを叶える女神か、それとも破滅を企む悪魔か。


 確かなのは、男はジョルジュの手を取ったということだ。


「あとは転がり落ちるのは簡単だった。彼はすぐに私たちの提案に乗ってきたよ。それから私たちは新型軍艦の設計図を盗み出すことを提案し、彼は手はず通りに計画を遂行してくれた。実に手際のいい仕事だったよ」


 それからはクラウスたちも知っている話だった。事件が発覚したローグ海軍は大騒ぎとなり、責任者の多くが処分されたという。


「おそらく事故当時の責任者も処分されているはずだ。そのうち沈没事故の真相についての調査も始まるだろう。彼の願いが叶うわけだ」


 そう言いながらコーヒーを飲むジョルジュ。茶飲み話にするにはあまりに苦い話だ。


「……もしかして、協力者に事件を露見させたのは、王国海軍の威信を失墜させるためにやったことなのか?」


 話では、事件は協力者のへまによって発覚したという。しかし本当はへまなのではなく、わざとやったことではないのか? そうすることで王国海軍の威信を傷つけ、上層部の首を飛ばしたのではないか?


 クラウスの言葉にジョルジュは何も答えない。しかしその微笑みが事実であると雄弁に語っていた。全て彼女の計画通りだったのだ。世界最強の帝国が、たった一人の少女に踊らされたのだ。


「君は……」


 クラウスが口を開く。途切れがちな言葉からは、ジョルジュに対する恐れが滲み出ていた。彼は力を振り絞って口を開く。


「君はその男の、復讐心を利用したわけか?」


 復讐を願う男の執念。ジョルジュはその執念に付け入り、男を協力者に仕立て上げたのだ。クラウスの指摘にジョルジュは愉快に笑うだけだった。


「言っただろう? 目的のためなら、私は神様だって利用するって」


 利用できるのなら、神でさえも利用する。彼女にとって男の復讐心を利用することなど、簡単なことに違いない。ジョルジュの恐ろしさを改めて思い知らされた。


「まあしかし、この事件では誰も損はしていないんじゃないか? 彼は願っていた復讐を達成し、私たちは新型軍艦の設計図を持ち出すことに成功した。みんな得していると思うがね?」


「……そうだなローグ海軍を除いては」


 クラウスが苦々しそうに語る。しかしそれに対してもジョルジュは笑うだけだった。


「いやいや。ローグ海軍も得をしたんじゃないかな? 事件を隠蔽するような老害を排除できたんだ。悪いことだとは思わないよ。私は」


「…………」


 クラウスは黙り込んだ。確かにそう考えることもできなくはない。


 しかし、そんなことを茶飲み話のように語る目の前の少女が、彼には信じられなかった。


 この世界にこんな少女がいるのかと、クラウスは知らずの内の足が震えていた。


「話を戻そう」


 ジョルジュがパン、と手を叩いた。


「先ほども言ったが、私たちの味方になる気はないかい? もちろん報酬は払う。どうだい?」


 ジョルジュが身を乗り出す。どんな答えが来るか、ワクワクしているような顔だった。


「それはつまり、アンネルに寝返るということでしょうか?」


「そういうことになるね。あまり気持ちのいい話ではないだろうけど、私たちとしては君たちが

味方になってくれるのは実に魅力的なのさ。どうだい?」


「それなら、答えは決まっていますわ」


 ジョルジュの提案にユリカが静かに、はっきりと答えた。


「私たちが祖国を裏切ることはあり得ませんわ。祖国に対して怒りも失望もしていません。愛する母を裏切るなんて、できるはずがありませんわ」


 ユリカが断言する。そうだ。彼女が国を裏切るようなことがあるはずがない。むしろ裏切りを提案されたことに、わずかな怒りを滲ませてすらいるようだった。


 そんな彼女の言葉にジョルジュが苦笑いを浮かべた。


「なるほど。しかし愛する母親であっても、子供は反抗期や自立する時が来るものだと思うけどね」


「残念ながら、まだまだ親離れができませんの。母親の傍にいるのが心地よいですから」


 しばし、ユリカとジョルジュが睨み合う。お互いを探り合うような、不思議な緊張感が漂った。


 二人を交互に見るクラウス。生まれた国は違うが、やはり似ている。それは雰囲気や外見といったものではなく、それぞれの在り方が似ている。クラウスはそう感じていた。


「そもそも、なぜ私たちにその提案を?」


 少しの沈黙の後、ユリカが問いかける。


「貴方たちもわかっているはずです。私たちが祖国を裏切る可能性が低いことを。私たちは祖国に仕えることはあっても、裏切ることはあり得ません。それなのにどうして私たちに協力を提案するのでしょう?」


 確かにそこは疑問だ。これまでグラーセンのために働いてきた。時には危険な目にあっても、また次の任務に出かけた。そうした情報はアンネルにも届いているはず。クラウスたちが国を裏切る可能性は無いと考えるはずだ。どうしてジョルジュは裏切りを提案したのだろうか?


「簡単だよ。君たちはとても魅力的だからさ」


 ユリカの疑問を受けて、ジョルジュからは簡単な答えが返ってきた。


「君たちのような優秀な人材はぜひ仲間になってもらいたいのさ。アンネル情報部は利用価値があるなら、どんな人間でも勧誘する。君たちの能力なら我が情報部でも活躍できるはずだ。私としても、君たちと仕事をしてみたいと思うくらいさ」


 かなりの高評価にクラウスは戸惑った。敵であるはずの彼女にこうまで評価されるというのは、複雑な気分だった。


「とまあ、今のは仕事での話で、半分は建前なんだけどね」


「……え?」


 ジョルジュの一言に思わず声を上げるクラウス。何故かジョルジュの空気が変わっていた。


「建前、ですか?」


「うん。もっと別の理由で、私にとってはこっちが重要だ」


 ジョルジュはそう言うと、ユリカたちを交互に見た。


「仕事では敵だけど、もし仕事がなければ君たちは実に魅力的な人間だ。こうしてお茶に誘うくらいにね。そんな君たちを私は個人的に好いているんだ」


 そんなことを、人懐っこい笑顔で言い出すジョルジュ。クラウスもユリカも思わず呆気に取られた。


「同じ国に生まれていたら、きっと私たちはいい友人になれたはずさ。そんな君たちを仲間にしたいと思うのは当然のことさ。仕事としても、一人の人間としても」


 その言葉に多少なりともクラウスは共感した。確かにジョルジュとユリカはいい友人になれたかもしれない。実際こうしてお茶を一緒にしているのだ。相性が悪いとは思えなかった。


 ジョルジュの言うとおり、敵であるのが少し惜しい気がした。


 そんなことをクラウスが思っていると、彼は視線を感じた。彼が顔を上げると、ジョルジュがこちらを見つめているのがわかった。


「それと……こちらはより重要で、これは『女の子』としての私の気持ちになるのだが」


 彼女はそう言うと、クラウスに顔を向けた。身を乗り出しながら、彼女はクラウスに質問した。


「クラウスくん。君はアンネルの女性のことをどう思う?」


「……は?」


 そんな間抜けな声を上げるクラウス。それに対して、横から見ていたユリカが目を丸くしていた。


「はっきり言おう。女性としての私は男性としての君に非常に好意を持っている。端的に言えば、恋をしているというのだろう。もし君さえよければ、私と付き合わないか?」


「…………」


 沈黙しかなかった。ジョルジュからこんな言葉を受けるとは、夢にも思っていなかった。クラウスは現実を受け止めきれなかった。


「いや待て。君は何を言っているんだ?」


「おや? わからないのかい? 私は君にお付き合いを申し込んでいるのだよ。女性の私から見て君はとても魅力的な男性だ。ぜひとも恋仲になりたいと願っているのだよ。どうかな?」


 さらに顔を寄せてくるジョルジュ。その顔は恋を楽しむ少女そのものだ。そんな顔を向けられてクラウスは戸惑うしかなかった。


「ちょっと待ってくれ。そんなことを言われても困る。質の悪い冗談はよしてくれ」


「嘘は言っていないよ。確かに仕事で嘘を使うこともあるが、私は恋愛で嘘は言わないよ。それとも、君から見て私は魅力的ではないのだろうか?」


 ますますわからない。いきなりこんなことを言われて、クラウスはしどろもどろだった。その様子がおかしいのか、ジョルジュがますます顔を近づける。クラウスは気圧されるしかなかった。


「ジョルジュ様」


 その時、ユリカから声がかかった。いつもの彼女とは違う、鋭いナイフのような声だった。


「女性の前で男の子を口説くのは、マナー違反ではなくて?」


 にこやかに笑うユリカだが、見ていて安心できない笑顔だった。答えによっては何が起きるかわからない。そんな気配を感じた。


「おお。これは失礼。確かにはしたなかったね」


 ユリカの言葉を受けてジョルジュが席に戻った。解放されたクラウスは静かに息を吐いた。


「申し訳ない。アンネルの女性は恋に対しては情熱的でね。時や場所、手段は選ばないのさ。同じ女の子であるお嬢様なら、わかるのではないかな?」


「まあ、わからなくもないですけど……」


 クスクスと笑いながら話し続けるジョルジュ。クラウスを放っておいて、二人は勝手に話を進めている。クラウスには何が起きているのか、正直理解が及ばなかった。


「まあ、結局決めるのはクラウスくんなわけだが、どうだい? 私と恋仲になるつもりはないか?」


 じっと見つめてくるジョルジュ。どうと言われても、クラウスには答えようがなかった。まさかここでそんな話になるとは思ってもいなかったのだ。そんな彼をユリカがじっと見つめていた。


 目の前にはジョルジュ。横にはユリカ。二人の視線を同時に受け止めるクラウス。どう答えてよいかわからず、クラウスは途方に暮れていた。


「……あー、すまないが、とてもそんな話をする気になれない。今の話は忘れてくれ」


 そう答えるのが精いっぱいだった。そんな彼の答えにジョルジュはクスクスと笑った。


「ふふ、君は面白いな。アンネルに留学していたと聞いているが、その様子だとあちらの女性によく遊ばれていたんじゃないか?」


 ジョルジュの指摘に思い当たる節があった。遊ばれていたというか、どうもあちらの女性は苦手なタイプが多かった気がした。からかわれたというか、遊ばれたというか、当時はそんな感じだったのを覚えている。


 そんなクラウスの反応が面白いのか、ジョルジュは満足したように笑うのだった。


「まあ、性急な話だったのは確かだ。ゆっくり考えてくれたまえよ。私たちの味方になることも、お付き合いの件もね」


 ジョルジュはそう言うと、手元のエスプレッソを飲み干した。それから彼女は席を立った。


「先に失礼するよ。先ほどの話、ぜひ考えてくれ。答えを待っているから」


 そう言って、ジョルジュはその場を後にした。


 

 彼女が去った後、店内の喧騒が元に戻った気がした。嵐のような時間だったと、クラウスは思っていた。


「……変な時間だったな」


 クラウスは静かに口を開いた。さっきまでの話が本当に起きたことだとは、信じられずにいた。


 ジョルジュから寝返りを提案されるとは、夢にも思わなかった。


 しかし、クラウスの前に一杯のカップが置かれていた。さっきまでジョルジュが口にしていたエスプレッソ。そのカップがさっきまでの出来事が本当に起きたことだと教えてくれた。


 いずれにせよ、今起きたことも報告する必要がある。クラウスはユリカに顔を向けた。


「どうする? 今の話、少将に報告するか?」


 そんなクラウスの問いかけに、ユリカは何も答えない。その代わりに彼女は不満そうな顔をクラウスに向けていた。


「……何だ? 何か気になることがあるのか?」


 そう問いかけるクラウス。すると彼女は不満そうな顔のまま、一言呟いた。


「意気地なし」


「……はあ?」


 いきなりそんなことを言われて、何のことかわからないクラウス。何故、今の質問にそんな言葉が返ってくるのだろうか?


「何だ? 意気地なしって、どういうことだ?」


「別に。なんでもないわ」


 そう言ってユリカはケーキを食べ始めた。


 何のことかわからないクラウス。一体彼女が何を言いたいのか、考えても彼にはわからなかった。


 ただ、何故だろうか? ユリカの言葉に彼は不思議な不安を抱いていた。




「……本当に大胆な娘さんだな」


 ユリカたちの報告を受けて、クラビッツはそれだけ呟いた。


 二人はモンデリーズでのジョルジュの話を全て報告した。裏切りを提案されたこと。ローグ王国での活動の話。彼女の目的が対アンネルの戦争計画。全てを聞き終えたクラビッツはもう一度呟いた。


「恐ろしい娘だ。まるで一人で世界を掻き回そうとしているような感じだな」


 ジョルジュの恐ろしさを反芻するような呟きだった。


「しかし、ローグ王国での話はある意味納得だな。確かに身内の仇を討つことができるのなら、協力したくもなるだろう」


 クラビッツが言っているのは、ジョルジュがローグで作った協力者のことだろう。


「確かにカローデンの沈没事故については、乗組員の人為的ミスだと結論付けられたのは知っていたが、まさか設計ミスを隠蔽するための欺瞞だったとはな。身内としては許せんだろうな」


 クラビッツの溜息が漏れる。それを見ていたユリカたちも同じ気持ちだった。自分の身内が一方的に罪を着せられたのだ。復讐心を抱くのは自然なことだと思えた。


 だが真に恐ろしいのは、その復讐心を利用したジョルジュだ。神をも利用すると豪語したジョルジュ。人の復讐心すらも利用するというその所業は、並の人間なら思い付かない。


 その時、クラウスが聞きにくそうに質問をした。


「それで少将。今の話を聞いて、何か思い当たることはありませんか?」


「思い当たること、かね?」


「はい。ジョルジュは王国海軍に復讐心を持つその男を仲間にしました。そう考えると、グラーセンでも同じような人間を見つけて、協力者にしているという可能性は無いでしょうか?」


 あまり考えたくないことだが、このグラーセン陸軍でも同じようなことが起きているのではないか? もしかしたら、ジョルジュはグラーセンでも同じような人間を協力者にしているのではないか?


 クラウスの質問を受けて少し考えこむクラビッツ。


「……心当たりが全くないと言えば嘘になる」


 クラビッツが答える。だがその答えの意味はもっと別の意味での答えだった。


「というより、心当たりなんて考えればキリがないというのが本音だ。軍隊というのは組織であり、集団であり、人間の集まりだ。嫉妬や妬み、衝突など起きないはずがない。私が知らないだけで、何が起きても不思議ではないさ」


 クラビッツの言うとおり、軍隊も官僚機構でしかない。派閥争いなんてあり得る話だし、予算の奪い合いなんてよく聞く話だ。人間の集まりである以上、感情のぶつかり合いは避けられないのだ。


 そういう意味では、クラビッツの誰も信じないという姿勢は、正しい在り方かもしれない。


「ところで、私からも君たちに質問なのだが」


 クラビッツが神妙な面持ちで彼らを見た。一体何を言われるのかと身構える二人。そんな彼らにクラビッツははっきりと問いかけた。


「君たちは我々を裏切るつもりはあるのかね?」


 思わず顔が強張るクラウス。横にいたユリカも同じで、わずかに怒りが込み上げていた。


「少将。そんなことは絶対にありませんわ。私たちが祖国を裏切ることは絶対にありません」


 ユリカの言葉に怒りが滲んでいた。今の少将の言葉を侮辱と受け取ったのだろう。そんな彼女の気持ちを察してか、クラビッツが謝罪した。


「ああ、すまない。今のは失言だった。いつもの私の悪い癖だ。気にしないでくれ」


 クラビッツの素直な謝罪にユリカは言葉を引っ込めた。そんな彼女にクラビッツはさらに続けた。


「言っただろう? 私は誰も信じていないと。どんな人間に対しても、色々な可能性を考えねばならないのだ。君たちが裏切ることはないと考えてはいるが、全ての可能性を否定できないのも事実だ」


 誰も信用しない。確かに少将の考えからすれば、クラウスたちについてもあらゆる可能性を考えてしまうのだろう。


それに、とクラビッツが付け加える。


「あの娘さんと直接話した君たちならわかるだろう? あの娘なら何が起きてもおかしくはないだろう?」


 ある意味一番説得力のある言葉だった。ジョルジュは神様をも利用して見せると言った。直接話をしたクラウスたちなら、それがよく理解できた。


「しかし、考えれば考えるほど不思議な話だ」


「少将。何が不思議なのでしょう?」


「いやな。どうしてジョルジュは君たちの行動を把握しているのか、不思議だと思ってな」


 クラビッツの一言にクラウスとユリカが顔を見合わせた。


「最初に会った時も今日も君たちの行動を知っていたではないか。店の従業員に君たちが来ることまで伝えている。どうやって情報を手にしたのか。不思議だと思ってな」


 言われてみればその通りだ。どうやって彼女はクラウスたちの行動を把握したのか、クラビッツの疑問ももっともだった。


「それに君たちのことも最初から知っていたようだ。どこかで会ったことでもあるのだろうか?」


「いえ、会ったのは初めてですが……ですがシェイエルンで彼女の部下に顔を見られているので、それで知られているのかもしれません」


「ああ、なるほどな」


 顔が知られているというのはいい気分ではないが、それくらいのことをしているのだ。仕方ないと諦めることにした。


「しかし、ここまで来ると、やはり参謀本部にジョルジュの協力者が潜んでいると考えていいだろうな。君たちのことまで知られているのだ」


 ため息を吐いてクラビッツが二人を見た。


「君たちも十分気を付けることだ。スパイがどこにいるかわからないからな」


「わかりました」

 


 部屋に戻り、一息つくクラウス。ユリカも椅子に座り、疲れた面持ちを見せた。


「しかし、やはり参謀本部にスパイがいるのは確かなのだな」


「そうね。しかも私たちの行動まで把握されている。下手に動くのは危ないわね」


 どこで自分たちを見ているのか、不安で仕方がなかった。今こうしているところも、相手はどこかで見ているのかもしれない。思わずクラウスは周りを見渡した。


「しかし、何人のスパイが潜んでいるのやら」


「どうかしら? そんなにいないと思うわよ」


 クラウスの疑問にユリカが答える。思わずクラウスは訊き返した。


「どうしてそう思う?」


「何人もいたらそれだけ怪しまれる可能性があるし、単独の方が行動しやすいからよ。私が彼女の立場なら、そうしているわ」


 なるほど。確かにその通りだ。必要以上に人を増やせば、それだけ犯行がばれる可能性がある。ジョルジュならそれくらいの考えはするだろう。


 しかし、そうなるとますますわからなくなる。もはや誰もが容疑者である。もしかしたら今日道をすれ違った将校。いや、もしかしたら門に立っていた衛兵か。誰かがスパイなのかもしれない。もはや誰も信じられなくなる。


 クラビッツの誰も信じないという言葉。改めてその言葉の意味を思い知らされるクラウスだった。


「……ねえ、ところで聞きたいことがあるのだけど」


 考え込むクラウスにユリカが問いかける。


「ん? どうした?」


 クラウスが顔を上げる。ユリカを見ると、彼女は不満そうな顔をしていた。それはジョルジュと話していた時に見せた顔だった。


 何故そんな顔をしているのか? よくわからないクラウスは戸惑うしかなかった。


「何だ? 何か気になることでもあるのか?」


「あなたって、やっぱり若い女の子が好きなのかしら?」


「……は?」


 全く脈絡のない質問にクラウスは混乱した。脳が彼女の言葉を受け入れられないでいる。彼女が何を言いたいのか、全くわからなかった。


「いや、一体何を言っているんだ?」


「あなた、ジョルジュに言い寄られて、いい気分だったのではなくて?」


 まるで責め立てるようなユリカの言葉。彼女の鋭い視線を受けて、クラウスは気圧されそうになっていた。


「いや、いい気分て何のことだ? 別にそんなことは……」


「だったら、どうしてあそこで彼女の誘いを拒否できなかったのかしら?」


 ユリカに言われて、クラウスはモンデリーズでのジョルジュとの会話を思い起こす。あの時はジョルジュに口説かれて、恋仲にならないかと言われたのだった。それに対して自分は何と答えたのだったか?


 そうだ、思い出した。確か『この話は忘れてくれ』だったか。


「ああ、いや。確かにあの時は誤魔化したが、あれは混乱して何を言えばわからなかったんだ。別に思うところがあったわけではないんだ」


 実際あんな風に口説かれるとは思っていなかったのだ。しかもあのジョルジュにだ。混乱しない方が無理な話だった。


 だがそんなクラウスの答えに納得したのかしていないのか、ユリカはまだ不満げな顔のままだった。


「ふーん……そう」


「い、いや。本当だぞ。もしかして君まで私を疑っているのか?」


 クラウスが問いかける。しかしユリカから答えは返ってこなかった。そのことがクラウスをより焦らせた。そんな彼にユリカがさらに畳み掛ける。


「確かにジョルジュは私から見ても魅力的だし、いい人だと思うわ。私が男だったらお茶に誘いたいって思う。無理もないと思うわ」


 ユリカの言葉がチクチクとクラウスに刺さる。このままではいけないと、クラウスの本能が告げていた。


「……まあ、この話は置いておきましょう。お互い疲れているし」


 そう言ってユリカは椅子から立ち上がった。


「今日はもう休みましょう。お互い落ち着く必要があるわ」


 正直クラウスはまだまだ言いたいことがあった。自分の意志を伝えたい気持ちでいっぱいだった。しかし落ち着く必要があるのも事実だ。


「……わかった。今日はもう休ませてもらう」


 クラウスが部屋から出ようと歩き出す。後ろ髪を引かれる思いだが、これ以上の問答は無意味なのも確かだ。彼は部屋から退室した。


「あ……」


 クラウスが部屋から出ると、リタが立っていた。彼女は気まずそうな顔をしていた。


「ああ、失礼」


 クラウスはそれだけ言って自分の部屋に戻ろうとした。


「あの……」


 するとリタが声をかけてきた。クラウスが顔を向けると、彼女は申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさい」


 そんな風に頭を下げる少女。きっと会話を盗み聞きしたことを謝罪しているのだろう。別に気にしなくてもいいのに。クラウスは苦笑いを浮かべた。


「気にしないでくれ。それじゃ」


 そう言って歩いていくクラウスは自分の部屋へと向かって行った。




 数日後。クラウスは大きな溜息を吐いていた。


 とにかく疲れた。仕事もそうだが、何よりユリカと一緒にいることが疲れるのだ。


 あれから彼女との間に変な空気が流れていた。ユリカは怒っているわけではないのだが、しかし変にぎくしゃくした空気が漂っていた。


 時々クラウスを見つめる目も、ジョルジュとのことを責めた時と同じ目になる。そんな目で見られると、クラウスはいつもの倍疲れるのだ。


 任務の方も上手くいっておらず、参謀本部に潜んでいるスパイについては足取りが掴めずにいた。上手くいかない仕事にユリカとのことも、クラウスに重くのしかかっていた。


 この日、ユリカは別件で用事があり、朝から外出していた。クラウスは出かけることもなく、自室に籠っていた。


 彼女と離れたことで、溜まっていた疲労を溜息と共に吐き出していた。


 少しは緊張も緩んだが、しかしまだ気分は晴れなかった。今日だけで何度も溜息を吐いていた。


「久しぶりに体でも動かすか……?」


 訓練でもしようかと思ったが、それもやめた。こんな精神状態で鍛えても、いい結果にはならない。


 それでも部屋に籠るのもいい加減飽きてきた。とりあえず彼は散歩でもすることにした。


 この日も参謀本部は変わらぬ日常を過ごしていた。誰もが普通に笑ったり、仕事に勤しんだり、いつもと変わらぬ一日を過ごしていた。


 そんな日常にあって、クラウスだけは暗い影を連れて歩いていた。きっと今まで以上に暗い顔になっているに違いないと、自分でも思った。


 散歩しながら、彼はふと疑問に思った。何故自分はこうも暗くなっているのだろう?


 確かにユリカとの間に変な空気が流れている。いいことではないのは確かだ。しかし、それでここまで自分が嫌な気分になるということに、理解ができなかった。以前ならこんな風にはならなかったはずだ。


 自分で自分のことが理解できない。ますます彼は頭を痛めるのだった。


「あれ? お兄さん?」


 そんなクラウスを呼び止める声。彼が顔を上げると、ルシアナがそこにいた。


「ああ、どうも。こんにちわ」


「今日は一人? お嬢様はどうしたの?」


 ルシアナが不思議そうに聞いてくる。いつも一緒にいるから、クラウスが一人でいるのを変に思ったのだろう。


「ああ、彼女は外出していますよ。何か用事があるとか」


「へー……」


 クラウスの答えに納得いっていないのか、ルシアナが彼をじっと見つめてくる。


「……何か?」


 そんな彼女の視線に耐えられず、思わず視線を外すクラウス。そんな彼の様子を見て、ルシアナがニヤリと笑い出す。


「ねえ。暇なら少し付き合ってくれない? お茶くらいは出すからさ」



 ルシアナに連れられて、クラウスは食堂にやって来た。


「はい。コーヒーでいい?」


「あ、どうも。ありがとうございます」


 彼女が持ってきたコーヒーを受け取るクラウス。ルシアナはクラウスと机を挟んで対面に座った。


 今は食堂も休みで、今はクラウスとルシアナしかいなかった。静かな食堂で、彼らの音だけが響いていた。


「ね、それでさ。何かあったの?」


 ルシアナが身を乗り出して話しかけてくる。何のことかわからないクラウスは質問を返した。


「何かとは、何のことです?」


「お嬢様と喧嘩でもしたのかなって。違う?」


 思わずクラウスは顔が強張った。その様子が面白いのか、ルシアナはニヤニヤ笑った。


「どうして、そんなことを?」


「いやね。少し話を聞いたんだ。噂のカップルの様子がおかしいって。それで顔を見たら暗かったから、何かあったのかなって」


 クラウスは自分の顔を撫でた。そんなにも自分の顔が暗かったのかと、触れずにいられなかった。


「……そんなに自分の顔は暗かったでしょうか?」


「まるで好きな子にフラれた男の子みたいな顔だった」


 面白そうに語るルシアナ。全てを明かすわけにはいかないが、とはいえ嘘を言う気にもなれなかった。


「……喧嘩ではないのですが、まあ似たようなものです。少し気まずいというか、何故かギクシャクするというか」


「へえ……何だろうね? 心当たりはあるの?」


「まあ……あると言えばあります。少し前に自分が他の女性と話したのですが、そのことで色々言われてしまいました。ですがその場には彼女も一緒にいたし、どうしてそのことを彼女が気にするのか、自分にはわかりません」


 さすがにスパイだの何だのは話さないでおいた。今言ったようにジョルジュとのことが原因だろうとは思うのだが、どうしてユリカがそのことを責めてくるのか、クラウスにはわからないというのが本音だった。


「ふーん……なるほどね」


 クラウスの話を聞いてルシアナが少し考える。何か思うところでもあるのだろうか?


「やはり仕事仲間が他人と話をするのは、いい気分でなかったのでしょう。しかし、それだけで怒ったりするものなのでしょうか?」


 クラウスが素直に疑問を口にする。それを聞いたルシアナは目を丸くした。


「……? どうかしましたか?」


 何かおかしなことを言っただろうか? クラウスがそう思っていると、彼女は大きく笑い出した。


「なるほどね。貴方のそういうところも問題かもね」


「どういう意味です?」


「ごめん。私には答えられないわ。いつかお嬢様に教えてもらってちょうだいな」


 我慢できないといった様子で笑い続けるルシアナ。一体何がおかしいのか、クラウスにはわからなかった。


「ごめんごめん。でも、貴方みたいな人でも悩んだりするのね。初めて人間らしいところを見た気がするわ」


「すいません。こんな小さなことでお話させてもらって」


 自分のくだらない悩みを聞いてもらうなど、クラウスには初めてだった。しかもこんな小さな悩みを聞いてもらうなんて、申し訳ない気分だった。


 だがルシアナはとんでもないと笑ってくれた。


「人の悩みに小さいも大きいもありませんよ。みんなそれぞれ悩みを抱えているもんです。他人には小さなことに思えるかもしれないけど、本人には大変なことかもしれないし。私たちのような女たちも、それぞれ悩みを抱えていますしね」


「そうなんですか?」


「ええ。ここで働く女たちも色々いますから。旦那と喧嘩したとか、最近太ったとか、子供が悪戯好きだったりとか。みんなそれぞれ悩みを抱えていますよ。お金とか家族とか、恋の悩みとか。私たち女ってのは、そんな自分たちの悩みを笑い話にして、人生を楽しむ生き物なんですよ」


 クラウスにはそれが、どこか含蓄のある言葉に思えた。悩みというものを笑い話にする。それは人生を逞しく生きる強さみたいなものなのかもしれない。


 女性は強いというが、こういうところにも女性の強さというものがあるのかもしれなかった。


「それにほら、リタも結構大きな悩みがあったんですよ」


「リタさんも?」


「うん。あの子も大変なんですよ。お父さんが早くに亡くなってお母さんと二人で暮らしているんですよ。そのお母さんも重い病気をしてましてね。治せる医者が見つからなくて困ってたんですよ」


 ルシアナの話に思わず絶句するクラウス。あんな小さな女の子がそんな悩みを持っていたのだ。クラウスは自分の悩みがちっぽけに見えた。


「それはまた……お母様は大丈夫なのですか?」


「うん。何とか治せる医者が見つかって、今は遠く離れて暮らしているんですって。もうすぐあの子もお母さんのところに行くらしいですよ」


「そうですか。それはよかった」


 安堵の溜息を吐くクラウス。昨日自分に謝ってきたリタのことを思い出す。あんな女の子に悲しいことなど、あってほしくなかった。


「そういえば、リタさんは時々絵を描いているんですね。この前描いているところを見ましたよ」


「ああ。あの子は絵を描くのが好きで、ここでも色んな絵を描いているんですよ。建物とか人とか。ああ見えてあの子は頭がいいんですよ。一度見たものは絶対忘れないし。本当にいい子ですよ」


 ルシアナの話を聞いて感心するクラウス。どんな人間にも得意なことがあるというが、あの少女にそんな特技があったとは、素直に驚いた。


「少し前は医者が見つからなくて、泣きそうな顔してましたから。お母さんとは、一緒に幸せになってほしいかな」


 そんな風にしんみりと語るルシアナ。きっとここでは彼女がリタの母親代わりになっていたのだろう。そんなリタのことを思うと、彼女も柔らかく微笑むのだった。


「リタも貴方たちのことを心配していましたよ。喧嘩しているみたいだって。早く仲直りして、リタを安心させてくださいよ。でないとあの子、心配でここを出ていけなくなっちゃうから」


「……なるほど、確かにその通りですね」


 きっとルシアナもクラウスを心配してお茶に誘ってくれたのだろう。それくらいに自分の顔は暗かったのだろうと想像できた。


 怒らせたり困らせたり心配させたり。最近女性に対して情けない事ばかりだ。クラウスは苦笑いしか浮かばなかった。


「申し訳ありません。情けない話ばかりで」


「いえいえ。むしろ楽しかったですよ」


 そう言ってルシアナはニッコリと笑った。


「男の子の悩みに乗ってあげるなんて、中々ありませんからね。とても楽しかったですよ」


「……ははは」


 彼女の笑顔を見てクラウスは笑った。その笑顔はまるで、自分をからかう時のユリカの顔に見えた。


「それではまるで、自分の悩みがお茶菓子みたいですね」


「知らないんですか? そういうお話は、とても甘いんですよ」


 女の子は甘いお話が好きだというのは本当らしかった。ルシアナはニヤニヤ笑いながら、コーヒーを飲み干した。




 食堂から出たクラウスは、そこで一回伸びをした。背中がポキポキなる。それだけでも幾分か気分が軽くなった。


 悩みというのは人に話すだけでも軽くなる。ルシアナと話したことで、少しは体も軽くなった気がした。


 正直、自分でも小さな悩みだと思っているのだ。そんなことでクヨクヨしているのも、つまらない話だ。


 それ以上にもっと大変な仕事が目の前にあるのだ。まずはそれを片付けないといけない。


 我ながらバカバカしいことだと、クラウスは呆れて笑った。


 だが、笑えるくらいには元気になった。彼は元気に歩き出し、仕事に向かうことにした。

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