第五章 辿り着いた真相

 すでに太陽も沈み、真っ暗な夜になっていた。あまりに暗く、何も見えず、雪が降っていることだけはその気配で感じることができた。


 そんな夜の街を、クラウス、ユリカ、ヨハンナ、マイスが歩いていた。


「あの角を曲がった先です」


 そう言ってヨハンナが前を歩いていく。彼らはヨハンナが見たという、怪しい男たちがよく集まっていたという建物に向かっていた。


 怪しい場所だった。夜だからというのもあるが、人の気配が全くしなかった。街灯の光すら届かない場所で、人の集まる場所からわざと遠ざかるような場所だった。


「ここです」


 ヨハンナがそう言って指差すのは、小さな空き家だった。特に目立つ印象のない、少し古い建物だった。


「ここにその男たちが集まっていたのですか?」


 クラウスの問いかけにヨハンナが頷く。クラウスはもう一度建物を見た。建物には灯りがなく、人がいるようにも見えなかった。


「ヨハンナ様。最後に男たちがここにいたのは、いつ頃ですか?」


「あの事件が起きた日です。次の日にはすでにここを引き払っていたみたいです」


 ますます怪しかった。タイミングが良すぎる。すでにクラウスたちには、その男たちが何かを知っているとしか思えなかった。


「中に入れないだろうか?」


 クラウスが建物のドアに手をかける。鍵が壊れていたのか、ドアが難なく開いた。


「……入るか?」


 クラウスが周りを見渡した。ユリカたちが頷く。


「入りましょう」


 心は決まった。クラウスはドアを開き、中に入った。


 中は何もなかった。あるものと言えば散乱したゴミと、あとは静けさだけだった。


「何もないな……」


 クラウスが呟く。その声すらも闇の中に消えていきそうだった。そんな中、ユリカが周りを歩き回った。


「何かないか探してみましょう。何か手掛かりがあるかも」


「わかった」


 クラウスが周りを探し回る。それに倣うようにヨハンナとマイスも周りを見て回った。


 四人が探し回るが、手がかりらしいものは見つからなかった。人がいた形跡すら見つからなかった。


 しかし、だからこそクラウスは感じていた。これは何もないのではない。『何も残されていない』のだ。きっと男たちは自分たちがいた痕跡を残さずにここを立ち去ったのだ。


 そのことにはユリカも気付いているようだった。彼女もこの状態に何かを感じ取っていた。


 一体その男たちは何者なのか? その正体を突き止めないといけない。そうしないと、何か手遅れになる。


 しばらく中を探していると、ユリカが思い出したかのように声を上げた。


「しかし、ヨハンナ様。何故このようなことをなさったのです?」


 ユリカが問いかける。いきなり声をかけられてヨハンナが顔を上げた。


「こんなこと、とは?」


「コル神父から私たちへ協力するよう頼まれたということですが、それだけで私たちに協力するというのは、少し不思議に思いまして」


 確かにクラウスも不思議に思った。ヨハンナが信仰心の強い信者だとして、それで神父からの一言でクラウスたちに協力するというのは不思議な話だった。それほど神父の言葉に忠実であろうとしているのか?


「……私、聞いていたんです。ユリカ様が仰ってくれたことを」


 するとヨハンナが静かに話し始めた。


「私が? 何の話でしょうか?」


「以前病院に来た時、ユリカ様が話していました。結婚式は女の子の夢で、願いだと」


 その言葉で思い出す。以前病院に来た時、ユリカはマイスに熱弁していた。女の子にとって好きな人との結婚式は夢であり、大切な願いなのだと。


「私、あの時部屋の外にいたのです。それで診察室から聞こえてきました。ユリカ様が主人に語っていたのを」


 あの時、誰も気づかなかったが、ヨハンナは病院に帰っていたのだ。ユリカが女の子の夢を熱弁するすぐ近くで、ヨハンナは彼女の言葉を聞いていたのだ。


「盗み聞きして申し訳ありません。ですが、あの時のお話は今も胸に刻まれています。私はただ、嬉しかったのです」


 静かに語るヨハンナをマイスが見つめる。初めて見せる彼女の姿をマイスはじっと見つめていた。


「ですから、これはお礼なのです。どうしてもお礼がしたかったのです」


 そう語るヨハンナをユリカも見つめた。


「……ヨハンナ様。それだけで私たちに協力してくれるのですか?」


「それで十分なのです。女の子の想いを言葉にしてくれて、私がどれほど嬉しかったか、お判りでしょう?」


 淡々と語るのに、そこには言い表せない想いが込められていた。


 やはりそうなのだ。彼女は自分の夫との結婚式を挙げたいのだ。だからユリカの話を聞いた時、彼らにお礼をしたかったのだ。


 それで確信した。ヨハンナはマイスとの式を挙げたいと願っているのだと。そのことを知ってユリカは嬉しそうに微笑んだ。横ではクラウスも笑っていた。


「ヨハンナ」


 その時、マイスが声をかけてきた。ヨハンナの肩に手を置いて、すまなそうに言った。


「すまない。君に寂しい思いをさせた」


 するとヨハンナはその手を握り返した。

「大丈夫です。毎日あなたの傍にいるのですから」


 そう言ってヨハンナも微笑んだ。


「寂しいことなんて、一日もありませんでした」


 そう言ってお互いに見つめ合うヨハンナとマイス。


 その様子をクラウスとユリカが呆れながら笑っていた。たっぷりの惚気話を聞かされて、やれやれといった様子だった。


 だが、悪くない気分だった。久しぶりに心地よい感情だった。


 その時、クラウスが立ち止まった。


「……おい。ユリカ」


「え? 何?」


 クラウスの声にユリカが振り向く。クラウスは怪訝な顔をしていた。


「何か匂わないか?」


 ユリカが顔を上げると、確かに何かの匂いを感じた。


「……これって、香水の匂い?」


 建物の中にかすかに漂う香り。何かの香水の匂いだった。


 もう一度クラウスが匂いを嗅ぐ。匂いが鼻を刺激する。


 その刺激が彼の記憶を呼び覚ます。それはよく嗅いだ香りだった。忘れることのない甘い香り。そしてその香りが、男たちの正体を教えてくれた。


 その瞬間、クラウスの頭脳に電流が走る。クラウスの頭脳が、隠されていた真実を見つけた。


「クラウス?」


 ユリカが声をかける。その声に反応するようにクラウスがユリカに近寄った。


「ユリカ。今から神父様のところに行くぞ。急がないと」


 クラウスはそう言って、ヨハンナとマイスに向き直った。


「ヨハンナさん。それに先生もありがとうございます。私たちはこれから大聖堂に行きませんと。失礼します」


「え? あの、クラウスさん?」


 マイスが呼び止めようとするも、クラウスは気付いていないのかそのまま建物を飛び出した。そんな彼を追いかけるようにユリカも走り出した。


 後に残されたヨハンナとマイス。ヨハンナは心配そうにクラウスたちを見送った。



 降り積もった雪の上をクラウスが走る。その後ろをユリカが追いかける。二人分の足跡が街を走り抜ける。


「クラウス、待って」


 慌ててユリカが声をかける。その声に反応しつつも、クラウスは止まらない。ユリカは仕方なく、そのままクラウスに話しかけた。


「ねえ、何かわかったの?」


「ユリカ。あそこで嗅いだ香水。どこかで嗅いだことはないか?」


 クラウスの問いにユリカが記憶を探る。確かに嗅いだ覚えのある香水だった。


「……そうね。でも、どこで嗅いだのかしら?」


「アンネルだよ」


 クラウスの言葉にユリカが驚く。クラウスはさらに話を続ける。


「あの香りはアンネルで作られた百合の香水だ。あっちでよく嗅いでいたから、覚えているよ」


 クラウスはアンネルで留学していた頃、彼はよくその香水の匂いを嗅いでいた。アンネル国民の多くがその香水を使っていたからだ。同じようにユリカもアンネルにいた時、その香水を嗅いだことがあった。特徴的な香りだったから、よく覚えていた。


「確かにアンネルの香水の匂いだったわ。じゃあ、その男たちはアンネルの人間なの?」


「おそらく。きっとそいつらは自分たち同じ、アンネルの情報部員じゃないか? あんな風に何も痕跡を残さないなんて、普通の人間ができることじゃないからな」


 クラウスはこの街でのことを思い出す。ユリカと街を散策していた時、雑貨屋でアンネルの人間が仕事に来ていたのを思い出した。きっとその男たちは同じように商人と偽ってこの街に潜入して活動していたのだろう。


「でも、どうしてアンネルの情報部員がこの街に?」


「ユリカ。グラーセンが帝国の統一を計画していることを、アンネルが知らないと断言できるか?」


 その一言にユリカが押し黙った。グラーセンがやろうとしていることに、アンネルが気付かないとは到底思えなかった。


「アンネルにとって帝国の統一は看過できないことだ。おそらくアンネルはシェイエルンで騒ぎを起こして、シェイエルンの帝国への編入を阻止しようとしているんだろう。上手くいけば同じ聖書派の国として、同盟を組めるかもしれない。むしろそれが彼らの計画かもしれない」


 シェイエルンを引き入れることができれば、アンネルにとっては大きな利益になるのは間違いなかった。逆にグラーセンにとっては統一に向けて大きな障害となる事態だった。


 正直クラウスは舌打ちを打ちたい気持ちだった。こんなところにまでアンネルの影が伸びているのだ。あの国にはいい思い出がない。留学生の頃はそれなりに楽しんでいたのに、複雑な気持ちだった。


「とにかくこのことをコル神父に伝えないと。もしかしたら奴ら、まだ何かするかもしれない」


「わかったわ。急ぎましょう」


 そう言って二人は速度を上げた。雪が降り積もった道は滑りそうで歩きにくかった。それをもどかしく思いながらも、彼らは大聖堂に向かうのだった。



 


 大聖堂はすっかり雪化粧をしていた。その光景がより大聖堂の荘厳さを醸し出していた。その大聖堂の前に辿り着いたクラウスたち。


「神父様は母屋かしら?」


 もう夜も深まった時間。この時間なら母屋の方にいるはずだ。ユリカが母屋の方へ歩き出そうとするも、クラウスはその場を動かなかった。


「どうしたの?」


 クラウスはじっと大聖堂を見た。彼の視線の先には、大聖堂へと続く道があった。


「どうやら、先客が来ているようだ」


「え?」


 ユリカが彼の視線の先を追う。大聖堂に続く道にも雪が積もっていた。その雪の上を、多くの足跡が並んでいた。足跡は比較的新しく、そんなに時間が経っていないようだった。


「もしかして、ここに?」


 ユリカがそう呟いた瞬間、大聖堂から何かが割れる音が聞こえた。


 何か荒事が起きている! 二人はもう何も言わず、大聖堂へと駆けこんでいった。


 勢いよく聖堂に入る二人。二人が見たのは数人の男たちと、その男たちを前に立つコル神父の姿だった。よく見ると、男の一人が神父に向かって拳銃を向けていた。


「コル神父!」


 大聖堂に入るや否や、クラウスは叫んでいた。その叫びに反応して、コル神父と彼を取り囲んでいた男たちがクラウスたちに振り向いた。


「クラウス殿……それにユリカ殿も」


 銃を向けられているのに、神父は落ち着いた様子でクラウスたちを見た。一方、神父を取り囲んでいる男たちは無言のまま、クラウスたちを睨んだ。


 静かな殺意だった。クラウスたちを睨む男たちの視線は感情もなく、無機質な殺意しかなかった。ユリカはその瞳を知っている。情報部や秘密警察特有の、不気味な殺意だった。


「お前たち。その銃を降ろせ」


 クラウスの言葉にも男たちは何も言わない。ただ自分たちの任務を忠実に実行している。


「お前たちがアンネルから来たことはわかっている。スパイか何かだろう?」


「……アンネル?」


 コル神父が怪訝な顔になる。その時、クラウスは例の香りを嗅いだ。アンネルの百合の香水。その香りが男たちがアンネルの人間であることを教えてくれた。


「あの橋の上での事件も、お前たちが計画したことなのだろう? これ以上この街をかき乱すのはやめるんだ」


 クラウスが睨む。しかし男たちの感情は乱れることはない。淡々とした様子でクラウスたちを睨むだけだった。


 その時、男の一人が拳銃を取り出し、それをクラウスたちに向けた。クラウスもユリカも緊張した。


「お前たちと話をする必要はない。だが、お前たちをこのまま帰すこともできない」


 秘密を知った者を生かしては置けないということだろう。スパイの考えそうなことだった。


「お前たちは信徒派の人間だな? 聖書派の大聖堂で神の審判を受けるのは具合が悪いだろう。今のうちに宗旨替えを済ませておけ」


 お互いの視線が交差する。静かな時間が流れる。


「お待ちなさい」


 その時、コル神父が沈黙を破った。


「ここは畏れ多くも神が座する場所。今も神は我らを見下ろし、見守っておいでです。そのような場所で血生臭いことはおやめなさい。それに、私の前で血が流れることは許しません。それが信徒派であろうと、聖書派であろうとです」


 今も銃を向けられているのに、コル神父は毅然とした態度で男たちに言い放った。彼はこの瞬間も神の使徒であり、宗派の区別なく全ての信者を守ろうとしていた。


 その姿に男たちも一瞬たじろぐ。だがすぐに銃を向け直した。


「神父様。畏れ多いが、我々の目的のために貴方には死んでもらう」


「それは、この街の対立を大きくするためか?」


 クラウスが声をかける。それに対して男たちは無言だった。それを肯定の意味と受け取ったクラウスはさらに続けた。


「コル神父を殺し、それを信徒派の仕業だと偽装すれば、この街の対立は決定的なものとなる。そうすることでグラーセンとシェイエルンの接近を防ごうとしているのだろう? そうしていずれはアンネルとシェイエルンの同盟に結びつけようということか?」


 それがクラウスが辿り着いた、事件の真相だった。この場で信仰の象徴とも言えるコル神父を殺害し、それを信徒派の犯行と偽装すれば、聖書派と信徒派の衝突は決定的なものとなり、修復は不可能となる。それは信徒派のグラーセンとの決裂も意味していた。


「……お前たちに言うべきことは何もない。神への言葉を考えておけ」


 男がそう言うと、拳銃を握る手に力が込められた。一つはコル神父へ。もう一つはクラウスたちに向けられて。


「さらばだ」


 男がそう言うとユリカが目をつぶった。発砲音が二つ、大聖堂に響いた。



 そうして、男は二人とも、その手から拳銃を落とした。



「う、ぐうう……!」


 ユリカが恐る恐る目を開けた。そこには自分の手を抑える男二人と、その男たちに拳銃を向けているクラウスの姿があった。


「神父様!」


 クラウスが男たちに向かって走り出した。同じようにユリカもコル神父へと向かって走った。


「おのれ!」


 男たち四人がクラウスに襲い掛かる。それからは一瞬の出来事だった。


 クラウスが構えると、彼は襲い掛かる男たちに拳を突き出した。


 一人目はナイフをクラウスに突き出した。それをクラウスは拳銃で叩き落とし、そのまま殴り返した。


 二人目は殴りかかってきたが、その腕を掴み返し、そのまま投げ返した。


 三人目はクラウスを掴もうと飛び掛かったが、それをクラウスは拳一発で送り返した。


 それを目の当たりにした四人目は何もできず、驚いた様子でその場に立ち尽くした。


 まさに一瞬だった。全て一撃であり、無駄のない制圧のための一発。男たちはそれ以上立ち向かうようなことはせず、その場にうずくまっていた。


 その様子を見ていたユリカもコル神父も目を丸くしていた。


「意外とやるわね」


「ああ、自分でも驚きだ。やっぱり鍛えておくものだな」


 クラウスも自分で驚いていた。自然と体が動いていたのだ。


 彼が今やった動きは、グラーセンで身に着いたものだった。参謀本部で将兵たちと訓練するようになったクラウスは、時折白兵戦や徒手格闘を彼らとするようになっていた。実戦さながらの訓練は、相手が凶器を持っていた場合や、複数人を相手にした場合も想定した、本格的なものだった。


 また、拳銃の取り扱いも習ったりもしていた。実際に使うことは考えていなかったが、こうして役に立ったのだ。やってみるものだとクラウスは変に感心していた。


「大丈夫ですか? 神父様」


「ああ、大丈夫だ。しかし……」


 神父が男たちを見た。血を流す男たちを見て溜息を吐いた。


「私を助けるためとはいえ、神の御前で血が流れるとは。神よ、お許しください」


 本気で悲しむその姿にクラウスたちは苦笑いを浮かべた。殺されそうになったというのに、最後まで神父たろうとするその姿に変な安心感を覚えた。


 その時、外の方で人の気配が感じられた。先ほどの発砲音を聞いて街の住民が集まり始めているようだ。そのことに気付いた男たちが舌打ちをした。


「仕方ない。おい」


 リーダー格と思われる男が周りに声をかける。その声に反応して男の一人が横に置いてある蝋燭を手に取った。


 男が何をするかわかった瞬間、クラウスが叫んだ。


「やめろ!」


 クラウスが叫ぶのが早いか、男はその蝋燭を勢いよく床に叩きつけた。


 蝋燭の火が一気に炎へと姿を変えた。さらに男たちはその炎に持っていた香水をかけた。あまり知られていないが、香水というのは可燃性が高く、時に火災の原因となる代物だった。


 香水によって燃え広がった炎が一気に大聖堂を赤く染め上げた。クラウスたちを囲むように炎が大きくなっていく。


「なんてことを……」


 コル神父が呟く。神の座する場所に火を放つという行為にさすがの神父も戦慄していた。


 クラウスたちが炎を避けようとする中、男たちが大聖堂から出て行くのが見えた。


「待て!」


 クラウスが叫ぶが、それで男たちが待つはずもなく、彼らはそのまま逃げ出すように走り去っていった。


「くそ、逃がしたか」


「仕方ないわ。私たちも逃げましょう」


 ユリカがクラウスの手を握る。彼女はコル神父にも声をかけた。


「神父様。貴方も」


「待ってくれ。火を消さないと」


 神父はこの状況でも大聖堂を守ろうと必死だった。しかしそんなことを話している間も、炎は燃え広がっていく。


「危険です! 早く逃げないと手遅れになります!」


「……せめて、せめて主の御姿だけでも」


 そう言って神父は石像に手をかけた。だが石でできているだけあって、動く気配がなかった。クラウスたちも手をかける。その間も火の勢いは止まることなく、大聖堂を赤く染め上げようとしていた。


「急いで!」


 ユリカの必死の叫びが響く。クラウスもわかってはいるのだが、石像はやはり重い。コル神父も全ての力を使って運び出そうとしているが、二人だけではさすがに厳しかった。


 炎は今にも彼らを包み込もうとしていた。


「神父様!」


 そんな、透き通った声が聖堂に響いた。クラウスたちが振り向くと、そこにいた人物の姿に驚いた。

「ヨハンナさん!? それにマイス先生も!?」


 大聖堂の玄関にヨハンナとマイスがいた。さらにその周りにマヌエルと、何人かの人々が立っていた。彼らは目の前で起きている現実に絶句していた。


「一体これは何があったのですか!?」


 マヌエルが叫ぶ。だがそんな叫びに答える余裕はなかった。炎が今にもクラウスたちを飲み込もうとしていた。


 その時、ヨハンナがクラウスたちに向かって走り出した。


「ヨハンナ!」


 目の前を走り出すヨハンナを追いかけて、マイスも走り出す。彼ら二人は目の前の炎も関係なく、クラウスたちの下へ駆け寄った。


「ヨハンナさん!」


 思わずクラウスがヨハンナを抱き止める。炎で少し顔が赤くなっていたが、火傷はしていなかった。クラウスもユリカも安心した。


「おお、ヨハンナ」


 コル神父がヨハンナに駆け寄る。ヨハンナの姿に神父は心配そうに彼女の手を握った。


「それにマイス殿も。なんと無茶なことを」


「だって、主の御姿が」


 ヨハンナが石像を見上げた。彼女はそのまま石像に手をかけた。


「早く外へ!」


 ヨハンナが叫ぶ。その声に反応してクラウスたちが再び像に手をかける。


 マイスも加わったことで、四人で像を運び出そうとする。ヨハンナは石像を火から守るように両腕で抱きかかえていた。


「待って!」


 ユリカが呼び止める。彼女は前に出て、炎をかき分けた。少し炎に隙間ができた。


「今よ! 急いで!」


 ユリカの合図でクラウスたちが動き出す。肌が焼けそうなほどの熱気をかき分けながら、彼らは像を運んだ。何とか炎を抜け出すと、マヌエルが駆け寄ってきた。


「神父様! 大丈夫ですか!?」


「ああ、大丈夫だ。それより炎を何とかしてほしい」


「わかりました。おい! 手の空いている奴は手伝ってくれ!」


 マヌエルが叫ぶと、その場にいる誰もが消火のために走り出した。


 その場を彼らに任せると、クラウスたちはそのまま外に出た。


 その瞬間、歓声が上がった。外にも大勢の人間が集まっていた。雪が降りしきる中、大聖堂の騒ぎを聞きつけた人々が外で集まっていたようだ。そんな彼らが見たのは、神を守るように運び出す神父と、クラウスたちの姿だった。


 何とか安全なところまで運び出すと、クラウスたちはその場に座り込んだ。


「はあ……大丈夫ですか? 皆さん」


「ああ、私は大丈夫です。そちらは?」


「私たちは特に何も」


 クラウスもユリカも特に何もなく、大きな怪我はしていなかった。


 その時、ヨハンナがヴェールを脱いだ。さすがに熱かったのか、ヴェールを脱いで一息吐いた。


 その瞬間、周りにいた人々の間で小さな呟きが聞こえてきた。




 聖母様—と。




 クラウスがヨハンナを見た。ヨハンナは神の姿を見て、祈るように目を閉じていた。その姿が神々しくて、思わず祈りを捧げたくなるほどだった。


 それは周りの人々も同じだったのか、見れば本当に祈りを捧げる人もいた。


 ヴェールを脱いで髪を降ろしたヨハンナは、確かに聖母と呼ぶに相応しい姿だった。


「ヨハンナ。大丈夫か?」


 マイスが彼女に声をかける。心配そうな顔をするマイスにヨハンナが小さく笑った。


「大丈夫。貴方が守ってくれたから」


 今も雪が降っていた。大聖堂では大勢の男たちが消火活動をしていた。そこにはマヌエルをはじめとする聖書派と、それから信徒派の姿もあった。宗派の区別なく、彼らは神の家を守ろうと必死に働いていた。


 その姿をヨハンナはじっと見つめていた。その瞳には慈しみに満ちた光があった。


 この日、人々は聖母の降臨を目の当たりにしたのだ。


 



 翌朝、人々は大聖堂の周りで休んでいた。雪が降っていたこともあり、即座に消火ができた。床や椅子などが燃えてしまったが、被害は軽微なもので、すぐに修復可能な状況で済むことができた。今は何人かが大聖堂の中を整理していた。


 その光景をクラウスとユリカが見つめていた。


「なんとか消火できたな」


「ええ。これも神の賜物かしらね?」


 クラウスたちも消火活動を手伝った。少し髪や顔に煤や灰がこびりついていたが、特に火傷もなく、今は一休みしていた。


「クラウス様。ユリカ様」


 そんな彼らにヨハンナが声をかけてきた。彼女も少し汚れていたが、それ以外は無事のようだった。


「今回は神父様、それに御神体をお守りいただいて、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ貴方が教えてくれた情報がなければ、私たちには何もできませんでした。こちらこそお礼を」


 あの時、ヨハンナがアンネルのスパイの情報を教えてくれなかったら、手遅れになっていただろう。今回の一番の功労者はヨハンナだと、クラウスもユリカも一致した見解だった。


「マイス先生は?」


「あの人は怪我人を診ています。軽い火傷ばかりですから、すぐに終わると思います」


 その時、コル神父とマヌエルがやって来た。


「神父様。お怪我は?」


「大丈夫です。大聖堂も大した被害はなく、聖務に支障はありません」


 神父の言葉にクラウスたちは安堵した。するとマヌエルが口を開いた。


「クラウスさん。神父様から大体のことは聞きました。放火事件はアンネルの人間によるものだと。あの橋での事件も彼らが?」


「ええ。そうらしいです。それはこちらのヨハンナさんがお話してくれました」


 マヌエルがヨハンナを見た。ヨハンナがその視線に応えるように視線を向ける。


「ありがとうございます。貴方のおかげで大聖堂は守られました。お礼を申し上げます」


「神の使徒として当然のことをしただけです。お礼の必要はありません」


「いえ、それでも言わせてください」


 そう言ってマヌエルは大聖堂に視線を向けた。そこでは聖書派も信徒派も混ざって、聖堂の型付け作業をしていた。いがみ合いやケンカもなく、時々笑いながら作業を続けていた。


「貴方が我々を呼んでくれたおかげで、分かれたれていた神の子が同じ席に着くことができました。もし貴方が呼んでくれなかったら、この街、いえこの国は分裂してしまったでしょう。だから、ありがとうと」


 昨日の夜。クラウスたちと別れた後、ヨハンナは信徒派の人々に声をかけて回った。大聖堂で何か起きている、と。彼女は信徒派の人々に助けを求めて回ったのだ。


 聖書派に複雑な思いをする人もいるが、それ以上に同じ街に住むヨハンナの頼みだった。ずっと同じ街で暮らしていた隣人の頼みを、彼らは

断ることもなく、一緒に大聖堂に来たのだ。


 さらにその途中、大挙してやってきた信徒派の集団に驚いて、マヌエルたち聖書派の人々が信徒派の前に立ちはだかった。そんな彼らの前にもヨハンナが立った。


 ヨハンナは彼らにも、大聖堂で何かが起きていることを伝え、一緒に行こうと話したという。その姿が神々しく映ったのだろう。彼女の言葉の前にマヌエルたちは異を唱えるようなことはなく、全員で大聖堂に向かったという。


 そうして大聖堂で起きた放火事件。あとは全員で大聖堂を守るために走り回った。そこには信徒派も聖書派もなく、誰もが同じ神の子として働いた。


 今はもう同じ仲間として、一緒に語らう余裕すらあった。その光景にマヌエルは静かに笑った。


「少なくとも、今夜のことはお互いにとっていいことに繋がるでしょう。本当に、ありがたいことです」


 同じく信仰する神を守るために一つとなった二つの街。そのことがマヌエルには嬉しかったようで、      

今も人々を見つめ、静かに微笑んだ。それを見てクラウスたちも嬉しそうに笑った。


「ヨハンナ」


 そんな時、マイスがやってきた。


「あなた、終わりましたか?」


「ああ。こっちは終わった。君は大丈夫か?」


「はい。大丈夫です」


 マイスはほっとした様子で頷いた。さらにマイスはクラウスたちにも顔を向けた。


「クラウスさんたちも、お怪我は?」


「ええ、大丈夫です。お互い怪我がなかったようで何よりです」


 そんなマイスにコル神父が話しかける。


「マイス殿。信者たちを診てくれてありがとうございます。神父としてお礼を」


 それに倣うようにマヌエルも頭を下げる。


「先生。私からもお礼を。貴方がいたおかげで誰も傷つきませんでした。ありがとうございます」


 二人からお礼を言われて、照れたように笑うマイス。そんな彼に寄り添うようにヨハンナが彼の横に立つ。そんな二人を見てコル神父が話しかけてきた。


「ふむ……今回は二人に本当に助けられたようです。神もお喜びでしょう。何かお礼をしなければなりませんな」


 そう言い出す神父にヨハンナが断りを入れようとした。


「神父様。それは必要ありません。神も大聖堂も守られました。信者としてそれ以上何を望むと?」


「そう言わないでほしい。お礼をしたいのだ。そうしなければ、神も悲しみになるだろう」


 神父も一向に引かない。どうしてもお礼をしたい様子だった。


「ヨハンナ。神父様のお気持ちを断っても申し訳ないだろう。せっかくだから何か望んでみてもいいんじゃないか?」


 マイスが彼女の背中を押した。困った様子のヨハンナだが、マヌエルが彼女に笑いかけた。マヌエルも彼女に何か望んでほしいのだ。


 それが一押しになったのか、少し考えた後でヨハンナが顔を上げた。


「何でもよろしいですか?」


「私にできることなら」


「……いえ、これは神父様にしかできないお願いにございます」


 そう言ってヨハンナは隣のマイスの手を取った。怪訝な顔をするマイスだが、ヨハンナは小さく微笑んだ。



「私とこの人の結婚式を、挙げさせてください」



 マイスが驚いた様子でヨハンナを見た。見ればマヌエルもコル神父も同じだった。


 それはヨハンナがずっと願っていたこと。愛する人と神の前で結ばれること。彼女は今、その想いを告げたのだ。


 その一言を受け止めて、コル神父が言った。


 「神よ、感謝します。このような仕事を私にくださったことを」


 その時、ヨハンナが笑った。とても幸せそうに。そんな彼女をマイスが抱きしめた。とても嬉しそうに。


 その光景をクラウスもユリカも嬉しそうに見ていた。


 今年の降臨祭は素敵なものになりそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る