第二章 神様の住む家
大聖堂の鐘が鳴り響く。その鐘の音を合図にクラウスが目を覚ました。
彼らが寝泊まりしているホテルは、大聖堂から少し距離がある。それでも鐘の音は彼らが泊まるホテルにまで響いてくる。神の存在を遍く世に知らしめるかのごとく、鐘の音はどこまでも流れていく。
一回あくびをして頭に触ろうとして、すぐに違和感に気付く。頭に巻いてある包帯に触れて、昨日起きたことを鮮明に思い出した。一瞬痛みが走った。刺激的な痛みがクラウスの脳を覚醒させてくれた。
「……血は出てないよな?」
念のためもう一度触れてみる。出血はしていない。あとで包帯を取り換えておこうと思った。
クラウスは身支度を終えて、隣のユリカの部屋へ向かった。部屋に入ると、ユリカがこちらを見て微笑んでくれた。
「おはよう。昨日はよく寝られたかしら?」
「ああ。少し血を抜いたからな。頭が軽くなって、天にも昇りそうだったよ」
「まあ、それは大変。だったらいっぱい食べないとね。ほら」
そう言って彼女は着席を促した。すでにテーブルには食事が並んでおり、立ち昇る湯気が食欲を刺激してくれた。
「そうだな。いただくとするよ」
そうして二人向かい合って食事を始める。実際体が栄養を求めていたのか、クラウスもいつもより食が進んでいた。
「ところで、今日はどうするんだ?」
「そうね。さっそくだけど聖書派の街に行こうと思うわ」
「そうか……しかし大丈夫か? 何か騒ぎに巻き込まれないとも限らないぞ」
「そこはそれ。まずは街で何が起きているか、見に行く必要があるわ。実際に街で何が起きているのか、この目で確認しないと」
確かの彼女の言うとおりだ。ただ小競り合いと言っても、何が原因かはわかっていないのだ。色々と調査する必要があるだろう。
「それに、何かあっても、あなたが守ってくれるでしょう?」
「うん? もちろんそのつもりだが、そこまで私を信用してくれるのか?」
「ええ。だってあなたは何度も私を守ってくれたんだもの。きっと今回も守ってくれるって信じているわ」
嘘も世辞もなく、本当のことのように軽く話すユリカ。
本当に自分のことを信頼してくれているとわかると、クラウスには疑問しかなかった。そんなにも自分を信じてくれるというのは、ありがたい反面どうしてそこまで思ってくれるのか、不思議であった。
「それに、せっかくの素敵な街なんだもの。あの街の大聖堂にも行きたいし、美味しい料理も食べたいし、色々と見て回りたいわ」
もうすでにどこを回るのか決めているのか、ワクワクしているのがその様子からわかった。もう毎度のことなので慣れてはきたが、それでも呆れるクラウスだった。
「立派にエスコートして守って頂戴ね。私の騎士様」
にっこりと笑うユリカ。きっと今日も歩き回るのだろうと、クラウスは笑うのだった。
二人を乗せた馬車が聖書派の街へ走っていく。昨日二人を乗せた御者は約束通り彼らの呼び出しに応じてくれた。今は彼らを乗せて走っていた。
「お客様。お怪我はもう大丈夫なんですか?」
御者がクラウスに声をかける。
「ええ、大丈夫です。傷も深くなかったので、軽いもんですよ」
そう言うクラウスは普段は被らない帽子を被っていた。包帯が目立つので、それを隠すために帽子を被るようにしていた。
「それで、今からどちらに行かれます? あっち側に行くとは聞いていますけど」
「そうですね。あちらに行くついでに、お願いしたいことがあるのですけど」
「ほ? なんでしょう?」
御者が首を傾げる。クラウスも何事かとユリカを見ると、彼女は笑って言った。
「この街の美味しいお店をいくつか教えてくれませんか? お勧めがあればぜひ」
思わずクラウスが沈黙した。御者はその問いかけに楽しそうに笑うのだった。
彼らが向かったのは、この街の大通りだった。ここが街で一番にぎわっている場所らしく、色々なお店が並んでいた。
「さ、どこに行きましょうか?」
そう言って周りを見回すユリカ。降臨祭に向けて彩られた大通りを前に楽しそうにしている。一方のクラウスは、別の意味で周りを見回した。
そこは聖書派の信者が集まる場所だった。普通の紳士であったり市民であったり、中にはヴェールを被っている婦人の姿もあった。
そんな彼らを前に、クラウスはつい警戒してしまう。何か危険なことが起きやしないかと、嫌な考えが巡るのだ。
「どうしたの?」
「いや、大丈夫なのか?」
クラウスは周りを見回す。そんなはずはないのに、周りの人たちが自分たちを見ているような気がする。そう思うと、クラウスはつい身構えるのだった。
そんな彼の心情を察したのか、ユリカが笑って彼の手を引くのだ。
「お、おい」
「行きましょう。そんな顔をしていると、逆に怪しいわよ」
そう言ってクスクス笑うユリカ。彼女はクラウスの手を優しく握ってくれた。
「大丈夫。私がついているわ」
そんなことを微笑みながら語るユリカ。本当なら男が言うべき言葉なのに、彼女が言うと様になるのだから不思議だった。
そんな彼女の微笑みを見ると、クラウスは自分の中の不安が溶けて消えるのを感じた。
これではどっちが騎士様かわからない。クラウスは苦笑いを浮かべながら、彼女の後に続いた。
そのまま二人が歩いていると、香ばしい匂いが漂う店が目に入った。
「ここにしましょう。ここは絶対美味しいわ」
「何故、わかるんだ? 誰かにお勧めでもされたのか?」
それともガイドブックでも読んだのだろうか? 疑問に思うクラウスにユリカが言った。
「女の勘、よ」
これ以上ない信頼できる根拠だった。なるほどと、クラウスもつい吹き出した。
「なるほど。それなら間違いないな」
「さ、行きましょう」
そう言って店に入ると、客は誰もいなかった。ただ女給と思しき女性が一人だけ、そこにいるだけだった。
「失礼。空いてますか?」
「いらっしゃいませ。まだ準備中ですけど、簡単なものなら作りますよ」
「お願いしていいですか?」
「はーい。座って待っていてください」
女給が奥に引っ込むのを見て、クラウスたちは勧められたテーブルに着いた。しばらくして女給が簡単な料理を運んでくれた。
「すいませんね。まだ準備中なもので」
「いいえ。十分ですわ。こちらこそ無理を言ってしまって、申し訳ありません」
二人の前にはソーセージを焼いたものが何本か並んでいた。ハーブが練りこまれているのか、独特の香ばしい匂いが漂っていた。これで簡単なのもなのだから、お勧めはもっと美味しいのだろう。
その時、女給の視線が二人を交互に捉える。彼女は二人に問いかけた。
「すいません。お二人は信徒派の方ですか?」
クラウスがどきりとした。心臓がどくんと跳ね上がるのを感じた。やはりここに自分たちがいるのがまずかっただろうか?
「ええ、私たち、グラーセンから来ましたの」
そんな問いかけにも動じず、ユリカは普通に受け答えした。グラーセン国民であることを特に強調したみたいな言い方ではあった。
「失礼。やはり信徒派がここに来るのは、まずかっただろうか?」
そんなクラウスの言葉に女給はすまなそうに笑った。
「ああ、すいません。そういう意味で聞いたんじゃないんですよ。ここには信徒派の人間も来ますし、特に旅行で来る人も多いですから、グラーセン人も歓迎ですよ。すいません。嫌なことを聞いて」
「あ、いや。こちらこそ申し訳ない。変な気を使わせてしまった」
クラウスも平謝りしてみせる。その時、ユリカが声をかけた。
「でも、どうしてそんなことを聞きましたの? 何か問題が?」
「いえね。聞いているとは思いますけど、今聖書派と信徒派でケンカになっているんですよ。街を歩く時は気を付けた方がいいと思いましてね」
女給が困ったように笑った。そんな彼女にユリカがすかさず質問を重ねた。
「そう言えばそんな話もありましたわね。でも、街を歩いていると、そんな風には感じませんでしたけど」
「普通はそうですよ。ケンカしているのは一部の人たちだけです。よくわからないけど、自分たちの信仰を守るんだって、まるで熱病みたいに言ってますよ。この街は昔から聖書派も信徒派も一緒に暮らしてきたから、むしろあの人たちの方がおかしいんですよ。ここも信徒派の人たちが客で来るのに、おかげで客足が少し減ったもんだから、困ったもんですよ」
溜息を吐く女給。肩をすくめる様子が様になっていた。それくらい本気で困っているのだろう。
「特にもうすぐ降臨祭でしょう? 街の嫌な噂が出たら、外からの観光客も減るから、やめてほしいんですけどね」
「そうでしたか……でも、昔はケンカなんてなかったと思いますけど、昔からですの?」
ユリカの問いかけに首を傾げながら、女給は少しだけ考えこんだ。
「どうでしょう? 実際はどうか知りませんけど、でもひどくなったのはここ一年前くらいからだと思いますよ。何人かの人たちで集まって、信仰を守ろうとか言って」
困り顔の女給。色々と大変なようだ。
「そうですか……でも、それだとグラーセン人は彼らからは歓迎されないみたいですわね」
「そうですねえ。でも、グラーセン人だからというより、信徒派だというのが大きいでしょうね。別にグラーセン人だとしても、聖書派だったらいいと思いますよ。あの人たちにとって宗派の方が重要みたいですから」
「あら? そうなんですの?」
「ええ。別にグラーセンという国は嫌いじゃありません。大昔は同じクロイツ帝国でしたし。中には信徒派の国ってことで、グラーセンも排除しようとか言う人もいますけど、それも少数ですね」
女給の話をじっと聞いているクラウス。対してユリカは何か考え事をしているような、そんな顔をしていた。
「どっちにしろ、私たちみたいな商売は困りますよ。少しは頭を冷やしてほしいもんです」
そんな女給の話を聞きながら、クラウスは手元のソーセージを口に運んだ。ハーブの香りと肉汁がとても美味しい事だけはわかった。
店を出た二人はまた大通りを歩いた。途中、二人は公園のベンチに座ると、ユリカは腕に抱えていた紙袋を開いた。その中にはいくつかサンドイッチが入っていた。さっきの店で女給がオマケしてくれたのだ。
それをひとつずつ、お互いに食べる二人。
「さっきの話、どう思う?」
クラウスが隣のユリカに問いかける。ユリカはサンドイッチを一口頬張った後、美味しそうに食べながらクラウスに向いた。
「そうね。色々あるみたいだけど、まずわかることは、聖書派はグラーセンに反発しているわけではないということね」
女給の言うとおり、ビュルテンと違ってここではグラーセンを危険視はしていない。問題なのは宗派の違いなのだ。
ただ、それはそれで問題でもあった。クラウスもそのことに気付いていた。
「しかし、それはそれで難しいぞ。ビュルテンみたいに政治や経済が問題ではなく、宗教が問題になっている。どうやって解消すればいいのか、見当もつかないな」
ビュルテンがグラーセンを恐れていたのは、経済や政治による混乱を恐れていたからだ。逆に言えばその恐れがなくなれば対立する理由もなくなるのだ。
しかし、シェイエルンでは宗教が対立の原因になっている。どうやって手を取り合えばいいのか、考えが及ばなかった。
「ねえ?」
その時、ユリカが顔を上げた。名案とばかりに微笑む彼女は、自信たっぷりに言った。
「だったら、神様に手伝ってもらいましょうよ」
そう言って、彼女は大聖堂を指差した。
ヴィッテルス大聖堂。中世という時代を語り伝える教会建築であり、人々の信仰心が作り出した傑作。空高くそびえるその大聖堂を、クラウスたちは見上げるように眺めていた。
「すごい……」
ユリカはそれだけ呟いた。感動や畏敬の念や、様々な感情がその一言に詰め込まれていた。
「確かにすごいな……これを二百年もかけて建てたんだ。やはり信仰というのは、恐ろしいな」
二人が大聖堂に入る。人はほとんどいなかった。二人が中を進んでいくと、その奥に神がいた。神の姿を模した石像が高い位置から、クラウスたちを見下ろしていた。
声も出ない、とはこのことだろう。その荘厳さ、壮麗さに二人は圧倒されていた。さらに高い位置には美しいステンドグラスがあり、大聖堂を一際美しくしていた。
「さあ、神様に助けてもらうよう、祈りを捧げましょう」
そんなことを言い出すユリカ。彼女にしては珍しいことを言うので、クラウスも戸惑っていた。
「神様に、か。私たちのような小さな人間のことなど、神は見てくれるのだろうか?」
そんなことを言うクラウスに、ユリカは意外そうな顔をした。
「あら? あなたって困った時は神様に祈らないの?」
「いや、そういうわけではないが……」
「だったら祈りましょう。神様も仰っているわ。『声を上げなさい。私に届くように』って」
聖書に書かれている言葉だった。声を上げなければ、誰も見てくれない。助けてほしいのなら、声を上げなければ気付いてもらえないのだ。
「なるほど。確かに君の言うとおりだ」
「ね? ほらほら」
彼女に促されて、クラウスは脱帽して神の前に立つ。まさに神頼みというわけだ。
そうして二人で神へ祈りを捧げた。
「……む」
すると、クラウスがその場でよろけると、頭を押さえた。
「何? どうしたの?」
ユリカが心配そうに声をかける。だがその声にも反応できず、クラウスは倒れまいと体を支えた。頭がぼんやりとするのを感じた。
「大丈夫? 頭が痛むの?」
「いや、そうではない……少しぼんやりする」
やはり出血したことで、頭に血が足りていないのだろうか?
意識がはっきりとしない。体がふらついていた。
「椅子に座りましょう。もしかしたらまた血が出ているのかも」
ユリカが近くの椅子までクラウスを連れて行く。クラウスの帽子を脱がせて、包帯を取る。
「血は出ていないみたいだけど、取り換えた方がいいかも」
クラウスの頭を覗き込むユリカ。ユリカが荷物から救急道具を取り出そうとした。
「失礼。どうかされましたか?」
その時、二人に声をかける者がいた。振り向くと、そこには黒衣の紳士がいた。その黒衣の姿が、彼がここの神父であることを教えてくれた。
「申し訳ありません。連れがふらついてしまって、椅子をお借りしてます。昨日頭を怪我して出血したので、そのせいかもしれません」
「そうですか。大丈夫ですか?」
「……失礼、神の御前でお恥ずかしいところを」
クラウスが謝罪する。しかしその謝罪の言葉も力がなく、体調が悪いことを示していた。それを見た神父が二人を交互に見た。
「もし。よろしければ母屋の方で休まれますか? そちらの方がゆっくりできましょう」
「……いや、しかしよろしいので?」
唐突な申し出にクラウスが戸惑いを見せる。
「かまいません。それに、神の御前で血を流すのも、あまりよろしくない。どうかこちらにいらしてください」
神父の申し出にクラウスも戸惑うが、確かにここを血で汚してしまうわけにもいかない。
「申し訳ありません。お招きに預かります」
母屋は大聖堂の奥にあり、簡素な住居スペースとなっていた。
クラウスたちは応接室に通され、そこで包帯を取り換えた。意味があるかはわからないが、清潔な包帯に取り換えるだけでも、気分が違ってくるものだ。実際それまで使っていた包帯は、少し血の匂いがこびりついていた。
「具合はよろしいですかな?」
神父が部屋に入ってくる。立派な体格の持ち主だったが、そこに威圧感のようなものはなく、むしろ包容力のようなものを感じさせた。聖職者とは、そういうものかもしれない。
「ありがとうございます。少し気分も良くなりました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「構いません。助けになったのであれば何より。水を持ってきたので、飲んでください」
そう言って神父は水差しと二人分のコップを差し出した。ユリカがコップに水を注ぐ。すると、神父が二人に語り掛けた。
「お二人は、信徒派ですかな?」
クラウスがドキリとする。やはりバレてしまうものなのか、神父に見抜かれたことに内心驚いた。
「はい。その通りです。グラーセンから来ました。二人とも信徒派でございます」
逆にユリカは堂々とした態度で神父に向き合った。
「グラーセンから旅行に来まして、信徒派ではありますが、ここにおります主にご挨拶したくて来ました」
さすがに参謀本部の人間であることを告げることもできないので、いつもの偽りを告げるユリカ。
すると、神父は感心したように頷くと、もう一度ユリカに告げた。
「なるほど……お二人とも。私はお二人が何者かは知りません。ですが、こんな私でもわかることはいくつかあります」
そう告げる神父。いきなり何のことかと怪訝な顔をするクラウス。すると神父が真っ直ぐにこちらを見た。
「神のいらっしゃる場所で嘘や隠し事はおやめになった方がいい。主は全てをお見通しです」
今度こそ心臓が跳ね上がった。神父はユリカが隠し事をしていることを見抜いた。
それに対してユリカは微笑みを絶やさなかった。むしろこの状況を望んでいるようにも見えた。
「隠し事、とは何のことでしょう?」
「何か大事な仕事があってここにきたのでしょう? おそらくは政治か、それとも何かの計画か。何にせよ、重大な使命を帯びているのでしょう? 人には言えない、大事な何かが」
どこまで見抜かれているのだろうか? さすがにクラウスは動揺を隠しきれなかった。神父というのは、誰もがこうなのだろうか?
「失礼。驚かせてしまいました。別に全てを語る必要はありません。人には語りたくない秘密というものはあるでしょうから。ですが、ここでは必要以上に嘘や隠し事をするのはやめていただきたい」
神父はそう言って、祈るように目を閉じた。
「御姿は見えませんが、神はすぐそこにおられます。どこにいても、我らの語る言葉に耳を傾けておいでなのです」
ここはヴィッテルス大聖堂。すぐそこに神が座する場所。神は人々の嘘も、全て見抜いているのだ。
「……仰る通りですわ。御無礼、お許しください」
ユリカはそう言って、膝を折るように神父に謝罪した。
「私の名はユリカ・フォン・ハルトブルク。グラーセンよりある密命を持ってシェイエルンに来ました。全てを明かすことはできませんが、重大な仕事であることは間違いありません。。主を前にして偽りを述べたこと、申し訳ありません」
ユリカに続いて、クラウスも立ち上がった。
「私はクラウス・フォン・シャルンストです。こちらも失礼しました」
すると、神父もまた二人に向かって一礼した。
「私はここで神父をしているコルと言います。ようこそ、主の館へ」
コル神父が顔を上げる。
「クラウス殿に、ユリカ殿ですね。歓迎いたします」
そう言って彼はもう一度祈るように目を閉じた。
「しかし、隠し事を見抜くとは驚きました。やはり聖職者とはそういうものなのでしょうか?」
「さあ、どうでしょう? 他の神父はわかりませんが、私はこれでも数え切れないほどの信者と向き合い、彼らと語り合いました。そうする内に嘘や偽りを見抜くことができるようになりました。これも神の御業かもしれません」
少し白髪の混じった頭をなでるコル神父。その白髪が示すように、長い年月を多くの信者と向き合ってきたに違いない。
「しかし、密命ですか。ここに来たのも、そのためですかな?」
「半分はそうですが、もう半分は主に会いに来ました。この街に来たのであれば、主に挨拶をするのが礼儀でしょうから」
ユリカの答えにコル神父も満足そうに頷く。
「なるほど……それは主もお喜びになるでしょう。しかしそちらの密命というのが何なのかは知りませんが、ここに貴方たちの助けになるようなものはないと思いますが?」
怪訝な顔を見せるコル神父。そんな彼にユリカが一歩前に出た。
「実は、私たちはこの街で起きているという、聖書派と信徒派の対立について調べているのです」
ユリカの言葉を聞いて、神父がピクリと反応した。ユリカもクラウスもその反応に気付いてはいたが、特に指摘はせずに、そのまま話を続けた。
「我がグラーセンはシェイエルンと結びつきを強くしようと計画しております。御存じの通り、グラーセンは信徒派の国であり、対してシェイエルンの人々は聖書派を信仰しております。この国で起きている聖書派と信徒派の対立が、グラーセンとの友誼に支障をきたす恐れがあります。私たちは、対立の内情を調べるためにこの街に来ました」
「……なるほど、そういうことですか」
「神父様。この街では本当に宗派対立が起きているのでしょうか?」
その問いかけに一瞬沈黙するコル神父。少し考えこんだ後で、彼は口を開いた。
「貴方たちの言うとおり、確かに聖書派と信徒派の間で対立が起きています。特にこの一年でそれは顕著なものです」
コル神父が溜息を吐く。この街で起きていることに、彼も心を痛めているのだろう。
「対立しているのは一部の集団らしいのですが、彼らは信徒派を目の敵にしております。中には私に対して、信徒派を大聖堂に入れないように進言する者までいる始末です」
「そこまでですか……」
クラウスも唖然とする。大聖堂への立ち入りを禁止するなど、行き過ぎたことだ。シェイエルンでは信徒派は聖書派と共に、この大聖堂に礼拝するのが当たり前になっていた。それが大聖堂の立ち入りを禁止されれば、彼ら信徒派の信仰心は行き場を失うことになる。
「もちろん、私はそんなことはしません。神の門はいつでも開け放たれています。それは誰もが入れる門であり、私が勝手に閉めることは許されません。ただ……」
コル神父の顔が曇る。
「明らかに礼拝に来る信徒派の数が少なくなっているのがわかります。こちら側の街に信徒派の人々が来なくなっているようです。聖書派との対立を避けているのでしょう」
無理もない話だ。一体何が起きたのかはわからないが、信徒派の人々は身の危険を感じているに違いない。そんな状態で聖書派の街へ来ることはないだろう。
「あまり良くない状況なのは確かです。信徒派の中には街から出ようと考える者もいるようです。もともと信徒派の数も少ない街です。住みや
すい土地に行きたいと思うのは当然かもしれません」
神父が寂しそうに首を横に振る。この街の信者を見守る者としては、今この街の状況は苦々しいものなのだろう。
その時、ふとクラウスは疑問に思う。コル神父は聖書派の人間だが、彼にとって信徒派は守るべき信者なのだろうか?
「神父様。貴方は聖書派の人間ですが、貴方にとって信徒派は敵ではないのですか?」
クラウスの問いかけに神父はキョトンとした後、また同じ顔に戻った。
「私はこの街の生まれで、この街で育ってきました。この大聖堂には聖書派も信徒派も区別なく礼拝に訪れます。それがこの街では当たり前のことでした」
それはこの街で生まれた、この街の信仰の在り方だった。聖書派と信徒派。彼らはこの街で隣人となり、同じ大聖堂に足を運ぶようになっていた。宗派は違えど、彼らはみな同じ神の元へ帰る信者なのだ。
「それに、それぞれ信仰の形は違いますが、同じ神を敬う信者です。私にとって神を信じる者はみな等しく神の子です。信徒派の彼らを拒否する理由など、私にはありません」
「……わかりました。先ほどの質問は失礼でした。無礼をお許しください」
素直に謝罪するクラウス。それを静かに受け止めるコル神父。謝罪の必要などないといった様子だった。
「しかしながら、今年は嫌な降臨祭になるかもしれません」
唐突に呟くコル神父。その言葉には悲観的なものが混じっていた。
「この街では降臨祭の夜には聖書派も信徒派もここに集まって、聖なる夜を共に祝ってきました。しかし、この状況では、無事に降臨祭を迎えられるかどうか……」
教会にとって降臨祭は重要な行事である。それはこの街でも同じこと。それが対立が起きているこの状況では、降臨祭を開くのは不安なことなのだろう。教会もそのための準備をしているのだろうが、本当に開催できるのか。
「たとえ宗派が違えども、みな同じ神の子です。主は子供たちが相争うのを見たくはないはず。私も、そのようなことは望んでおりません」
悲しそうな呟き。信者を守る神父としての、彼の本心だった。彼は本気で信者たちの争いを憂いているのだ。
きっとこの街で、知られることのない戦いをしてきたのだ。
「……やはり、ここに来て正解でした」
いきなりそんなことを言い出すユリカ。クラウスもコル神父も、何のことかと怪訝そうな顔をした。するとユリカはコル神父に切り出した。
「神父様。よろしければ私たちの計画に協力していただけないでしょうか?」
彼女の言葉にコル神父は余計に混乱した。しかし、その言葉の真意を見抜いたクラウスは、驚きを隠せなかった。それにも構わず、ユリカは続けた。
「神父様。貴方様には聖書派の人たちの動向や情報を私たちに教えていただきたいのです。どんな気になる情報でもいいのです。何か危険な動きがあれば、私たちに届くように」
「お、おい」
クラウスが止めようとする。ユリカが言っているのは、コル神父に自分たちと同じことをさせること。つまりスパイ活動に協力させようということなのだ。
さすがにクラウスが止めようと手を挙げる。聖職者である彼を巻き込むのは、あまりにやりすぎだと思えた。
しかし、ユリカはクラウスを見ずに、コル神父を見つめた。
「最終的な望みは違いますが、この街の対立の解消は同じ目的のはず。それならば、ここでお互い協力するのは、悪い話ではないと思いますが?」
あまりに大胆不敵な申し出。まるで少女が可愛いお願いをするような、そんな自然さだった。
だが、さすがにクラウスは落ち着いていられない。聖職者であるコル神父にこのような申し出をするなど、あまりに大胆すぎる。要はコル神父にもスパイをさせるということなのだから。
クラウスは気が気ではなかった。すると、申し出を受けたコル神父は静かに口を開いた。
「何故、私にそのような申し出を? 他にも頼れそうな人間はいそうなものですが?」
「いえ、貴方はこの大聖堂の神父を務め、聖書派の人々と触れ合っています。対立の内情に最も近い人物の一人です。貴方ほど協力してほしい人物はおりませんわ」
ユリカの言うとおり、コル神父はかなり近い位置で対立を目の当たりにしている。実際彼に対して、信徒派の立ち退きを進言する信者もいるのだ。コル神父はクラウスたちが知り得ない情報を持っているはずだ。
ユリカの言葉通り、コル神父を仲間に引き入れるのは、魅力的な策略だった。
ユリカの言葉になるほどと頷くコル神父は、もう一度ユリカに向き直った。
「なるほど。貴方の言う通りかもしれない。しかし、私は聖書派の人間です。私が貴方たちに虚偽の情報を流さないとも限りませんよ」
「それはありませんわ」
神父の言葉にはっきりと断言する。
「だって、ここでは嘘や偽りは許されないのでしょう?」
そこは神が座する大聖堂。そして、コル神父はその神に最も近い場所にいる人間。そんな彼が嘘を言うはずがない。
「神様の前で、嘘を言うはずがありませんわ」
それは信頼の言葉。聖職者として、これ以上ない信頼の言葉だった。
その言葉を受け止めたコル神父は、静かに微笑んだ。
「『羊でも狼でも、喉が渇く時がある』なるほど。神の仰る通りだ」
誰もが助けを求める時がある。それが誰であれ、救いの手を差し伸べることができるのか? 神は常に人々に問いかけているのだ。
「いいでしょう。私のような者でよければ、協力させていただきましょう」
そう言って、コル神父が祈るように手を合わせてくれた。それに合わせてユリカがゆっくり微笑んだ。
信じられなかった。まさか聖職者をスパイ活動に協力させようだなんて。しかもそれを成功させたのだ。あまりに大胆な発想だ。
クラウスはユリカを見た。改めて目の前の少女の恐ろしさを目の当たりにした。
「私たちはここのホテルに滞在しています。こちらに手紙を送ってください」
ユリカはそう言って、ホテルの宛先を書いたメモをコル神父に差し出した。その住所を見たコル神父は、何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えばお二人は、信徒派の街に泊まっているのですか?」
「え? ええそうですが、それが何か?」
「あちらで聖書派の女性と会いませんでしたか? ヨハンナという女性なのですが」
その名前に二人はピンと来た。間違いなく彼女のことだった。
「ああ、マイス先生の奥さんですよね? 実はこの頭も怪我も、マイス先生のところで治してもらったんです。その時にヨハンナさんにも会いましたよ」
クラウスの言葉にコル神父が驚いたように顔を上げた。
「ほお? そうなのですか。彼女は元気にしてましたか?」
「ええ。ヨハンナさんにはよくしてもらいました。素晴らしい方ですよ」
「それはよかった。信徒派の街に行ってから少し心配でしたが、今も元気ならそれでいいです。教えてくれてありがとうございます」
お礼を伝えるコル神父。きっと彼の中でもヨハンナのことは大きな存在なのだろう。今でも気にかけていることがわかった。
だというのに、クラウスはコル神父の顔が気になった。顔は微笑んでいるのに、何故かそこには寂しさが見え隠れしていたのだ。
「ああ、お引止めして申し訳ない。どうか怪我には気を付けてください」
「どうも。こちらこそありがとうございました」
そう言って歩き出すクラウス。ユリカもそれに続こうとした時、彼女は立ち止まりコル神父に向き直った。
「失礼、神父様。一つ伺っても?」
「はい? 何でしょうか?」
コル神父が不思議そうな顔をする。クラウスも怪訝そうな顔をしていると、ユリカが口を開いた。
「降臨祭の夜は、この大聖堂で迎えてもよろしくて?」
ユリカがにっこりと微笑んだ。クラウスもコル神父も一瞬呆気に取られた。
するとコル神父もにっこりと笑い返した。
「ぜひ、いらしてください。楽しみにお待ちしております」
お互いに笑みを交わす。クラウスもまた笑みを浮かべる。この聖堂で迎える降臨祭は素晴らしいものになるはずだ。彼もここで降臨祭を迎え
たいと思った。
「それでは、いつかまた」
ユリカがそう言って立ち去ろうとすると、コル神父が彼らに祈りを捧げてくれた。
「神の御加護を」
大聖堂を背に歩く二人。少し離れたところでクラウスが声をかけた。
「君は本当に恐ろしいな」
クラウスの言葉にユリカはニッコリと笑った。
「あら? 女の子に恐ろしいだなんて。ひどい言葉だわ」
言葉の真意はわかっているのに、そんなことを言うのだから、余計に意地悪だ。だからそんなことは構わずにクラウスはさらに話続けた。
「もしかして、神父様を味方に付けるのは、計画の内だったのか?」
「さあ? どうかしら? でも、正直どうしようか迷ってはいたわ。もしかしたら、あの神父様が対立の黒幕という可能性も否定できなかったから」
そんなことを言い出すユリカにぎょっとするクラウス。
「お、おい。それはさすがに……」
ない、とは言い切れなかった。確かに彼女の言うとおり、コル神父が対立の黒幕だったとしてもおかしくはない。そうでなかったとしても、教会の上層部が対立を煽っている可能性もあった。
中世ほどではないにしても、今でも教皇庁は強い影響力を持っていた。時折信徒派の国と対立する時もある。
しかし、それでも彼女はコル神父を味方にした。
「なら、どうしてコル神父を味方に? どうして信頼できるんだ?」
クラウスの言葉に、ユリカはにんまりと笑った。
「神父様とお話をして、貴方はまだ疑う気があるのかしら?」
その一言が雄弁に語っていた。あの時、コル神父と語った者なら、彼が信頼できる人物だとわかるだろう。
きっと彼女は確信したのだ。コル神父は信頼できると。
「なるほど。まさに神様を味方にしたわけだ」
そんなことを言うクラウス。するとそれを聞いていたユリカがクスクスと笑った。
「どうした?」
「いえね。普段は神様だって倒すとか言ってるのに、こうして神様に助けを求めているんだから、私ってわがままだなって思って」
そう言えばと思う。彼女はクロイツ帝国の統一のためなら、神様も倒すとよく言っていた。それが今度は神様に助けを求めているのだ。確か
に苦笑いする話だ。
「こんなにわがままだと、神様に嫌われるかしらね?」
そんなことを言いながら笑うユリカ。それをクラウスは呆れるように笑った。
「さあな。でも、女性のお願いを聞けないほど、神も小さいと思われたくはないだろうな」
クラウスのそんな言葉にユリカも笑った。
その時、大聖堂から鐘の音が轟いた。それは夕刻の鐘の音であり、人々を帰路に導く響きだった。
街の人々が帰路に着く。それと同じようにクラウスたちもホテルへと帰るのだった。
次の日の朝。ユリカとクラウスはホテルの一室で朝を迎えた。クラウスが窓から空を見上げた。
「もうすぐ雪が降りそうだな」
空はわかりやすい冬の曇り空だった。厚みのある雲の塊が、この街を冬の空気で包み込んでいた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「すいません。朝食をお持ちしました」
「ああ、どうぞ。中へ」
入室を促され、女給が入ってきた。二人の朝食を運んできてくれた。
女給は慣れた様子でテーブルに食事を並べ始めた。その間も外を眺めるクラウス。すると彼は街中に見覚えのある人物を見つけた。
「おい。あれって、ヨハンナさんじゃないか?」
その声に反応してユリカも窓に寄ってきた。
「あ、本当だわ」
特徴的な綺麗なヴェールが街を流れていく。どうやら買い物に出ているようだ。
「ああ、ヨハンナさんですか? あの人はいつもこの時間に買い物しているんですよ」
すると女給が訳知り顔で話してくれた。どうやらヨハンナはそれなりに知られているらしかった。
「ヨハンナさんは、いつもこちらで買い物を?」
「そうなんですよ。もう見慣れたものですよ」
どうやら毎日のことらしい。女給はよく話をしてくれそうなので、クラウスは気になることを訊いてみた。
「ヨハンナさんは聖書派ですよね? この街の信徒派のみなさんはどう思っているんですか?」
少し突っ込んだ質問かとも思ったが、女給も特に何も聞かずに答えてくれた。
「そうですねえ。最初にマイス先生が連れてきた時はみんな驚きましたけど、特に何もありませんでしたよ。ヨハンナさんも大人しくて品のあ
る人だから、信徒派の人たちも受け入れていますよ」
クラウスたちはヨハンナを見た。今も街の人々と会話しながら買い物をしていた。この街に溶け込んでいるのがわかった。
「でも、あの二人も大変ですよ。未だに結婚式も上げられないんですから」
ふと、女給がそんなことを呟いた。思わずユリカが訊き返した。
「え? あのお二人、結婚式を挙げていないんですの?」
「そうなんですよ。ほら、この街の教会はあっちの大聖堂しかないでしょう? 聖書派の人たちはあそこで式を挙げるのが習わしなんですけ
ど、ヨハンナさんは信徒派のマイス先生とでしょう? それを気にしてあっちの人たちが反対しているんですよ。信徒派を大聖堂に入れるのはどうなのだ? とか言って」
そんな女給の話を、ユリカもクラウスも唖然として聞いていた。
結婚とは神父が証人となり、神の祝福を受けて二人は夫婦となるのだ。
信者にとって教会で式を挙げられないというのは、辛いことのはずだ。特にヨハンナは熱心な信者のはず。そんな彼女が大聖堂で式を挙げられないというのは、とても辛いはずだ。
「そんなものだから、あの二人未だに式を挙げていないんですよ。マイス先生は仕方ないと笑ってはいますけど、本当は二人とも式を挙げたいと思いますよ」
女給の話を信じられないと言った様子で聞いていた二人。
神の前で夫婦の誓いを立てられない。なんと悲しい事か。
その時、クラウスはコル神父のことを思い出す。聖堂でヨハンナのことを気にしていた黒衣の神父。
クラウスはもう一度街を見た。もうそこにはあのヴェールは見えなかった。
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