第五章 歴史が動く夜

 マールに到着する頃には夜になっていた。

 二人は到着してすぐにグラーセン大使館に向かった。クラウスが気付いたアンネルの計画を報告するためである。


 報告を聞いていたアイゼンは難しい顔をしていた。傍らにはユリカが立っていた。その隣にはクラウスの姿。二人は沈黙するアイゼンにさらに詰め寄った。


「推測の域を出ないのは事実です。しかしアンネルが大量の物資を運んでいること。極東情勢の動向を鑑みるに、可能性は高いと自分は考えます」

「アイゼン大使。まず本国に報告をお願いします。その上でアンネルの計画を阻止するよう要請していただけませんか?」


 二人には報告しかできない。国家を相手にするのは、同じ国家でなければできない。グラーセン政府が自ら行動しなければならないのだ。

 アイゼンは顔を上げた。その顔は渋かった。


「わかりました。報告はしましょう。しかし、本国が動くのは難しいと思います」


 沈黙が漂う。アイゼンの言葉に何故、と二人は無言で問い質す。アイゼンの冷静な声が響いた。


「可能性だけで圧力を加えたり非難声明を出すことはできません。むしろ立場を危うくする可能性もあります。それにアンネルがジンムとカンミンの戦争に関わったとしても、グラーセンにとっては直接関わりのないこと。無関係の立場である我々に抗議できる資格はありません。逆にアンネルや第三国から余計な干渉だと非難されます。それは良くないことです」


 アイゼンの言うとおり、カンミンとジンムが開戦し、それにアンネルが協力したとして、外交上のルールに違反しているわけではない。非難の対象とはならないのだ。


 それをグラーセンが抗議したとして、意味のあることではないのだ。


 アイゼンの言葉は事実だった。しかしそれではアンネルの陰謀を見過ごすことになる。将来のクロイツ統一を考えれば、避けるべき事態だ。それをわかっているユリカは食い下がった。


「それでも、アンネルの行いを野放しにすることはグラーセンにとって不利益になります。何かしらの対応をするべきです」


 机を叩かんばかりの勢いを見せるユリカ。それを受け止めるアイゼンは、静かに言葉を返す。


「わかっています。しかし、それでもです」


 アイゼンはそれ以上何も言わず、そのまま頭を抱えて沈黙した。自身の手に余る大きな事態に困り果てているのだ。


 クラウスは目の前でうなだれている大使に同情を寄せた。異国に一人外交官として責務を果たす毎日。その重責は想像できないほど重いに違いない。


 そんな中で起きたアンネルの陰謀。苦悩するのも当たり前だった。


 しかし、このまま何もしないでおくのは歯がゆいことだった。


 うなだれる大使の背中に世界地図があった。西にはユースティア大陸。さらに西の大洋を越えた先にはモンロー大陸があった。


 ユースティアに目を向けると、アンネルやローグ、そしてグラーセンがあった。


 地図の上ではそれぞれ隣り合っていたり、もしくは海を挟んでいたり、世界の端と端で離れていたり、その位置関係は単純なものだ。


 しかし、それぞれの利害や同盟、敵対関係は複雑に絡まり合っている。目に見えない蜘蛛の糸が絡まり合い、手を取り合ったり、足を奪い合ったり、地図には見えない国と国との駆け引きが繰り広げられているのだ。


 時には協力し、時に利用しながら。結局のところ、外交とは義理人情の入り込まない、単純な利害と損得の世界であり、それが共通のルールなのだ。


 その時、クラウスの頭脳に一つの光が灯される。彼はまたしても思考の渦に沈み込んだ。


 アンネルはカンミンと利害を一致させている。その結果として今回の計画を考えた。


 ならばジンムはどうだ? もし利害を一致させる国がいるとするなら?


 そこまで考えたクラウスは思い至る。いるのだ。ジンムと利害を一致させ、尚且つアンネルに対抗できる国が。


「アイゼン大使。今からローグ王国に協力を要請できませんか?」


 いきなり口を開いたクラウスを見つめるユリカとアイゼン。何を言っているのか、理解できない様子だった。


「クラウスさん。いきなり何を? 何故ローグ王国に協力を頼み込むのですか?」

「簡単な話です。ジンムとカンミンが戦争をすれば、結果はどうあれ被害は生じます。そうなればローグにとっても不利益になるからです」


 それからクラウスが語ったのは、ローグを抱き込むという計画だった。


「ローグはジンムとの間に協商関係を築いています。特にジンムとカンミンが領有権を争っているキリ島は、ジンムにある貿易港にも近い場所にあります。その貿易港はローグにとっても重要な場所です。もしキリ島がカンミンの領有となれば、それはアンネルにとっては大きな利益となり、逆にローグにとっては大きな障害となります。それをローグに話せば、彼らも協力してくれるのではないでしょうか?」


 ローグにとってアンネルの計画は銃口を突き付けるようなものだ。計画が成功すればキリ島はカンミンのものになり、そうなればカンミンと通じているアンネルの強力な武器となる。


 そのことをローグに伝えた上で協力を要請すれば、ローグはアンネルの計画を阻止してくれるかもしれない。それがクラウスの考えだった。


 話を聞いていたアイゼンもユリカも、クラウスの提案に驚愕していた。不可能に近い大胆な発想だが、もしローグ王国の協力を得られれば、アンネルの計画を阻止できるかもしれない。


「なるほど、それならばなんとかなるかもしれません。すぐに本国に伝えましょう。ローグに対してはローグ大使に伝えるようにすれば大丈夫かと」


「交渉はどうします? 直接大使館に向かえばアンネル側に気付かれるかもしれません。別に場所を用意した方がよろしいかと」

 少し考えた後、クラウスが手を挙げた。


「それなら一つ。ぴったりの場所があります」

 彼が提案した場所。それはユリカとクラウスが初めて出会った場所。クラウスの下宿部屋だった。



 歴史上、帝国と呼ばれる国がいくつか存在した。かつて世界を支配した帝国は、その時代の覇者として歴史を作り、世界に覇を唱えた。


 無敵の勇者たちを率いた大王の、地の果てまで続く帝国。大陸を駆け巡った皇帝と最強の軍団が生んだ帝国。大陸の草原を馬と共に走り抜けた軍事国家。


 それら帝国が世界を支配すると同時に、その威光は世界を照らし、安定と秩序を世界にもたらしてきた。長い人類史の中で、瞬き程の短い時間ではあったが、平和と呼ばれる時代は確かに存在したのだ。


 この時代、世界最強と呼ばれる帝国があった。この時代の平和はこの帝国によってもたらされ、その威光と軍事力を全ての国が畏れ、仰ぎ見ていた。


 その帝国の名はローグ王国。偉大なる女王陛下が治める王国である。


 クラウスの下宿に、そのローグ王国の大使であるドストンが来ていた。椅子に腰かける彼にアンネルの計画について説明すると、彼は笑みを浮かべた。


「なるほど。確かにアンネルの計画は、我が王国にとっても見過ごせない事態ですね」


 顔は笑っているのに、メガネの奥の瞳は油断ならない光を放っていた。

 対面に座るアイゼンが口を開いた。


「ドストン大使。もしカンミンとジンムが戦争をすれば、ジンムと友好関係を結んでいる貴国にとって不利益になるのは間違いありません。どうか本国政府に取り次いでいただき、アンネルの計画を阻止していただけないでしょうか?」


 傍らでクラウスとユリカが成り行きを見守っていた。ドストンはローグ王国の大使。つまりは世界最強の王国の代理人。ドストンの言葉は王国の言葉であり、女王陛下の御意志なのだ。二人がドストンの答えを待った。


 ドストンは少し黙ってから、またアイゼンに向き直った。


「今回の件を教えていただいたことには感謝しますが、質問したいことがあります。それはあなたたち、つまりグラーセン王国はアンネルの計画を阻止したいとお考えだと思いますが、どうしてそのような決定を下すのか? その真意をお教えいただけますでしょうか?」


 ドストンの質問を受けてアイゼンはユリカを見た。これはクロイツ統一に関わることで、それを伝えていいものか、ドストンは迷った。


 ユリカもどう答えるべきか迷っていた。将来のクロイツ統一。かつての帝国を復活させること。そのことをドストンに、ローグ王国に教えていいものか。難しい判断だった。


 クロイツ統一が近隣諸国、特にアンネルにっては重大な問題であるように、ローグ王国にとってもそれは同じことだった。ローグは大陸から離れた島国ではあるが、大陸側で地殻変動が起こることを望みはしないだろう。


 もしローグがクロイツ統一に懸念を抱けば、アンネルの計画阻止に賛同しない可能性があった。難しい判断が求められた。


「どうしました? 答えられない機密事項でもおありですか?」


 答えが返って来ないことにドストンも怪訝な顔を見せた。しかし仮にも外交官だ。彼らの態度から、何か大きなことを抱えていると察したに違いない。

 アイゼンもユリカも答えに困り果てた。どう答えるべきか。


「グラーセンを強くしたい。ただそれだけです」


 いきなりそんな声が聞こえてきた。ぎょっとして振り向くユリカたち。それはクラウスの口から発せられたものだった。ドストンはいきなりのことに目を丸くしつつも、不快そうにはしていなかった。


 クラウスはさらに一歩前に出る。彼はドストンに堂々と言葉を投げかけた。


「我々はグラーセンを、祖国を強くしたいのです。今でもグラーセンは大国であると自負しております。しかし、強い国とは過去に受けた勲章の輝きに満足するものではありません。常に剣を研ぎ、子供たちの未来を守れる国こそ強い国。そのために、アンネルの計画を阻止したいと考えているのです」


 ユリカたちはハラハラしていた。クラウスの言葉は真実だが、しかし全てを明かしてもいない。それをドストンが気付かないはずがなく、むしろ不信を抱かれるかもしれない。ドストンの反応を窺った。


 そのドストンは押し黙ったまま、クラウスをじっと見つめた。

 値踏みするように静かに見つめる。長い沈黙と鋭い緊張感が部屋を満たすのがわかる。


 クラウスもドストンを見つめた。相手は王国の代理人。最強の帝国の使者。負けることは許されなかった。


 しばらくそうしてから、ドストンは内に溜めていた緊張を吐き出した。ゆっくりを笑みを浮かべると、クラウスに向き直った。


「なるほど。確かにあなたの言うとおりです。輝く勲章もいずれはホコリにまみれる。切れ味鋭い剣こそ必要なのは、我が国も同じです」


 ユリカは内心で安堵していた。形の上だけでも納得してくれたのは喜ばしいことだった。


「ただし、本国に報告はできますが、アンネルの計画を阻止するよう働きかけるには問題があります」


 ユリカが安堵するのも束の間、ドストンが懸念を口にした。その懸念が何なのか、クラウスたちは無言で問い質した。

「つまりあなたたち、グラーセンの要請に応えたとして、我が王国はどのような利益を得ることができるか、ということです」

「それは、貴国とジンムとの間で交わされた友好が保たれるということですが……」

「はい。確かにジンムは友好国であり、それを守ることは理に適っています。しかしジンムを守るためにアンネルに圧力を加える。果たしてそれは採算の合う商売なのか? そこが問題であり、場合によっては本国も消極的になるかもしれません」


 ドストンの言うとおりである。ジンムとローグの間には様々な繋がりがあり、ローグにとってジンムは極東における重要な友好国となっている。そのジンムを助けるためにアンネルと敵対する。ローグにとってアンネルと敵対してまでジンムを助けることは理に適っているのか。それが問題なのだ。


 外交とは国益の問題だ。ジンムを助けないことが国益に繋がるのであれば、ローグはそちらを選ぶだろう。そうなったとしてもローグを責めることはできない。


「大使。これは投資であると考えていただけないのでしょうか?」


 またしてもクラウスが口を開いた。今度は何を語るのか? ユリカたちは不安げな表情で。ドストンは楽しそうに彼の言葉を待ち構えた。


「ほう……投資とは魅力あふれる未来への賭けのようなもの。あなたはどのような未来を思い描いているのでしょうか?」


 その問いかけにクラウスは毅然と答えた。


「将来貴国の女王陛下に、素敵な友人が増えることになるでしょう」


 クラウスの言葉に腰を浮かしかけるアイゼン。横で聞いていたユリカも唖然とした。


 クラウスが語ったのは国の未来を左右すること。つまり彼が言ったことは、将来グラーセンが、そして統一されたクロイツが、ローグ王国と同盟を結ぶという未来を意味していた。


 当然グラーセン本国はそんな発言を承認していない。ここでクラウスが言ったことは彼の独断で語ったこと。この男の妄言であると本国が言い出せばそれまでだ。


 しかし、クラウスが語る未来は確かに魅力的なものだった。それはローグにとってではなく、グラーセンにとってである。


 世界最強のローグ王国との同盟。ローグはその強大な軍事力ゆえに、どの国とも同盟を結ぶ必要がなかった。もしローグとの同盟を実現できれば、それはとてつもないことだった。


 ユリカがクラウスを見た。まるで怪物を見るような目になっていた。この状況でこんなことを言い出すクラウスに、彼女は初めてクラウスという人物を目の当たりにした。


「素敵な友人、ですか。友人となったとしても、友人同士で喧嘩をすることもあります。果たしてその御方は、女王陛下と仲良くしてくれるのでしょうか?」

「言いたいことを言い合える仲こそ真の友情ではないでしょうか? 友人でも夫婦でも喧嘩をする時はしてしまいます。そういう喧嘩を乗り越え続けてこそ、友情も愛情も真に輝きを放つのだと思います。愛とは許し合うことではないでしょうか?」


 国家間の同盟を夫婦に例えるクラウス。彼自身、こんな詩的な人間だっただろうかと、不思議に思えるくらいに口が回っていた。


 クラウスの言葉を受けて、ドストンはまたも沈黙した。しばらく考え込んだ後、彼はその胸の内を明かした。


「我がローグ王国とアンネルは、長きに渡って宿敵という関係でした」


 彼が語るのは、この大陸の昔話。ローグとアンネルの間で紡がれてきた歴史だった。


「玉座に座る人間、歴史書のページ、兵士の剣が銃に変わっても、私たちにとって変わらなかったことがあります。ローグとアンネルは宿敵であり、殴られれば殴り返す。お互いがお互いの仇敵であることをお互いが認め合っています。我が女王陛下ならこう答えるでしょう。アンネルと恋人になるくらいなら、悪魔と愛人となると」


 世界を統べる王国の女王。もし彼女が本当にそんなことを口にするのなら、これほど愉快なことはない。クラウスもユリカも忍び笑いをした。

「わかりました。本国に報告し、アンネルの計画を阻止するよう要請してみます。その代わり、今夜起きたことは全てお話しすることになりますが、それでよろしいですか?」

「も、もちろんです! ありがとうございます! グラーセン王国に代わり、お礼を申し上げます」


 ドストンの言葉にアイゼンがやっと笑顔を浮かべた。彼も外交官という立場柄、かけらでも失言することが許されないのだ。今夜はかなりの緊張を強いられたに違いない。

「ところで一つお聞きしたい。アンネルの計画に気づいたのはどちらの方ですか?」

「こちらのクラウスさんです」


 アイゼンがクラウスを見る。ドストンはクラウスをしげしげと見つめた。眼鏡の奥の瞳がクラウスを興味津々の様子で捉えていた。


「あの、何か?」

「失礼。お若いのに中々の慧眼をお持ちだと感心しておりました。あなたのような方がいてくれれば、私も昼寝の時間が増やせるのですけど」


 まるで口説き文句のような言葉だった。しかしドストンはすぐ横に並んでいるユリカに目を向けると、残念そうに首を振った。


「残念ながら、すでに良い上司をお持ちのようだ。もしよろしければ、こちらで良い条件で引き抜きたいのですが、転職の予定はありますか?」


 それはドストンから送られる最大級の賛辞だった。クラウスが見せた態度が、ドストンの目に光って見えたようだ。


 賛辞に対しては相応の返礼をしなければならない。クラウスはドストンに伝えた。


「大変魅力的なお誘いで嬉しいのですが、女王陛下には優秀な臣下が多くおります。自分では女王陛下の美しさを損なうことでしょう。いつか立派な紳士になった時に、改めてその麗しい御前にて膝を折りましょう」


 断りつつも相手を立てつつ。センスとしては及第点かなと、そう評価するクラウスだった。


 ドストンは面白いうとばかりに笑い出す。最後に彼はクラウスの手を握った。


「今日は久しぶりに楽しい時間を過ごせました。お約束通りに本国に取り次ぎましょう。もし時間があればいつでも会いに来てください。美味しい紅茶を準備してお待ちしております」


 その言葉を最後に、ドストンは下宿から立ち去って行った。


 ドストンが立ち去った後、その場に残った三人は一気に力が抜けた。とりあえずの目的は達した。言葉にすればそれだけのことなのに、それが彼らにとってとても大きなことであり、まるで重い荷物を下ろしたかのような解放感だった。


 祖国を背負うとはこういうこと。クラウスは初めて、それを実感するのだった。




「今夜は助かりました。クラウスさん。外務省、そして政府に代わってお礼申し上げます」


 アイゼンがクラウスに頭を下げる。さすがのクラウスも戸惑いを見せた。


「いや、こちらこそ勝手な発言をしてすいません。大事な話に割り込んで、お邪魔だったのでは?」

「そんなことはありません。もしあなたがあそこで提案していなければ、交渉もどうなったかわかりません。どうか王国に貢献できたと、胸を張っていただきたい」


 横ではユリカもうなずいていた。あのときのクラウスの大胆な行動は、一つの歴史を作ったのだ。二人はクラウスに正しく称賛を与えた。


「それでは自分は仕事が残っておりますので、失礼させていただきます。お二人もお休みください」


 そう言って、アイゼンは部屋から退室していった。あとに残されたのは、クラウスとユリカの二人だけだった。


 今も二人は呆けていた。彼らがいるこの部屋では、数刻前まで大国を動かすほどの話し合いが行われていた。それに自分たちが参加していたという事実は、本人たちでも信じられなかった。


 明日朝起きて、あれは夢だったと告げられる方が信じられるかもしれない。


 ぼんやりとした空気が二人を包んでいた。


 すると、部屋に笑い声が響き始めた。クラウスが顔を上げると、ユリカが自分の体を抱きしめながら笑いをこらえていた。

「ふふ……」

「どうした?」


 声をかけると、ユリカはクラウスに振り向いて、今度こそ大きく笑い出した。


「あっはっはっは!」

 こんなに面白いことはない。そんな叫びが聞こえそうなほどに彼女は大笑いした。横で見ていたクラウスは何事かと困惑した。そんな彼をユリカが指差して言い放った。


「あなた、最高だわ!」

 それが誉め言葉だとわかるのに少しかかってしまった。まだ戸惑い続けるクラウスに、ユリカはとにかく愉快に笑い続けた。


「ローグ大使に向かってあの大胆な提案。ああ、もう! 素敵だったわ!」

「あ、ああ。それはどうも」


 興奮するユリカ。あの時見せたクラウスの姿がよほど痛快に感じたのだろう。もしここが劇場だったなら、彼女は喝采を送っていただろう。それくらいに彼女ははしゃいでいた。


「いや、でもローグとの同盟は本国の承認もないし、あっちも本気にしているわけではないと思うが……」

「それでも十分魅力的な口説き文句だったわ。少なくともドストン卿は楽しんでくれたわ。意外とあれくらい強気でいた方が相手は落ちるのよ。女の子を口説くのと同じよ」


 女性を口説くより先に王国の代理人を口説いたという事実は、自慢していいのかどうか、悩むところだった。少なくとも、酒場などで大声で話せる内容ではないだろう。


「はー。楽しかった」

 余韻を楽しむように息を吐くユリカ。刺激的なことには人一倍敏感な性質のようだった。

 するとユリカは唐突にクラウスの手を握ってきた。


「ねえ、私の部屋に来ない? そこで祝勝会をしましょう」



 歩いてみると、意外と近い場所にユリカの部屋があった。


 そこは彼女が借りているホテルで、アンネルでの彼女の拠点としているところだった。ホテルと言っても安宿で、女性が住むのに最低限の清潔さと利便性を保っているだけだった。


「こんな仕事をしていると、こういう宿の方がありがたいわ。目立つことはないし、何かあればすぐに飛び立てるし、主人に倍の料金を出せば快適だし」


 口止め料を含めての料金ということだろう。きっと今までも同じような客を泊めてきたのだろう。ユリカみたいな客は慣れているようだ。


 久しぶりに拠点に戻ったユリカは帽子を勢いよく脱いで、クラウスを招き入れた。


「さあ入って。ワインは何でもいいかしら?」

「ああ、大丈夫だ」


 クラウスも最初は公爵の娘の部屋に入るのは固辞したのだが、ユリカも引くことなく、半ば強引に連れられてきたのだ。ここまで来るとクラウスも彼女の言葉に応じていた。


 部屋は簡素な佇まいだった。クラウスが借りている部屋よりは広いが、あるのは簡単なベッドと机。それと個人用に浴室があるだけの部屋だった。


「そこに座ってて。今持ってくるから」


 そう言って奥に引っ込んだユリカがすぐに二人分のグラスとワインを持ってきた。それぞれのグラスにワインを注ぐと、一つはクラウスに。もう一つは自分用に。


 乾杯しようということだった。クラウスもグラスを持ち上げると、ユリカが音頭を取った。


「グラーセンに乾杯」


 チン、と音を立てる二人のグラス。二人は一気にワインを飲み干した。


 不思議なものだが、祝いの席でのワインはとても美味しく感じられた。祝い事という隠し味を堪能して、ユリカが満足そうに息を吐いた。

「ふふ、できればビールがいいのだけど、グラーセンに帰るまではおあずけね」

「ビールも飲むのか?」


「ええ。ハルトブルクの領地にもいくつか醸造所があるわ。そのうちの一つが特にお気に入りなの。いつか来るといいわ。留学はいつまでなの?」


「あと一年か二年だと思う。まだ学びたいことはあるし、しばらくかかるだろう」


 クラウスは国から命令されて留学していた。祖国が恋しい気持ちはあるが、帰国は当分先だろうと思っていた。


「そちらは? いつ帰るんだ?」

「明日にはアンネルを出るわ」


 クラウスの何気ない質問に、ユリカの何気ない答え。あまりに簡単な受け答えだったので、クラウスはすぐに返事ができなかった。


「あら、どうしたの? 私がいなくなるのは寂しいかしら?」

 クスクスと意地悪な笑みを向けるユリカ。寂しいというわけではないが、さすがに急なことだったので、クラウスも素直に驚いてしまった。


「ずいぶん急だな。急ぎの予定でもあるのか?」

「そうではないわ。こちらの任務に一応の決着が着いたから、本国に帰って報告する必要があるの。それにやることはまだまだたくさんあるもの。じっとしていられないわ」


 クロイツ統一という未来に向かって走り続けてきた少女。彼女はこれからも走り続ける必要があった。そのために立ち止まることはできなかった。


「それに早くここを後にして活動の痕跡を消しておかないと。怪しまれるのは面倒だわ」


 クラウスも納得する。今まで深夜の駅に侵入したり、ジズーでスパイをしていたりと、色々なことをしているのだ。露見する前に帰国するというのも任務の内なのだろう。


「だから」

 そこでユリカがもう一度ワインを口に含んだ。彼女は赤くなった顔で悪戯っぽく微笑んだ。


「あなたの恋人でいられるのも、今夜が最後になるわね」


 その一言でクラウスはぼんやりと思い出した。確かにそういう話だったと、今更ながら思い出していた。


 元々ジズーでの活動をやり易くするために、偽りの恋人関係になるという話だった。もう任務が終わった以上、その関係も必要ないのだ。


 ユリカと結んだ契約が今夜終わるのだと、彼は気付いてしまった。


「ふふ、寂しいかしら?」


 ユリカが笑って見つめてくる。どんな答えを返してくるのか、期待している顔だった。


 クラウスはこの数日間のことを思い起こす。

 夜の闇の中、そこで出会った少女は祖国の要人で、しかも彼女は帝国統一という野望を胸に秘め、そのためにスパイをしているという。


 それからクラウスは彼女に連れられて、共に走り回った。彼女に振り回され、意地悪な顔を向けられて、そしてあの狭苦しい部屋で、国を動かすほどの時間を過ごした。


 きっとこの先、こんなことは経験できないだろう。きっといつか老人になって、昔を思い起こす時に思うのだ。素敵な時間だったと。

 だから、彼はこう答えるのだ。

「ああ、そうだな。寂しくなるな」

「え?」


 そんなクラウスの答えに声を上げるユリカ。予想していなかった答えだったのだろう。彼女はクラウスの顔をまじまじと見つめた。


「どうした?」


 クラウスが問いかける。するとユリカは大きな笑顔を浮かべて、またクラウスのグラスにワインを注いだ。


「ねえ。それなら今日はたくさん話しましょう? 話したいことは全部話しましょう」


 そう言ってワインを飲むよう催促してきた。おそらくそれは彼女なりの別れの儀式なのだ。心残りを残さないように、寂しさを残さないように。


 それを理解したクラウスは同意の意味も含めて、ワインを口に含んだ。



「ねえ。そういえばどうしてあなたは留学をしているの?」


 唐突にユリカが質問してきた。


 すでにテーブルには空きビンが二本並んでいた。余程楽しいのか、ユリカの飲むペースは速く、それに釣られてクラウスの飲む量も多くなるので、自然とワインの消費量も多くなっていた。


 ユリカを見ると、その瞳はトロンとしていた。その怪しい目をクラウスに向けて、彼女はもう一度質問した。


「あなたも一族と同じように、軍人になる気はなかったの?」


 クラウスが生まれたシャルンスト家は、それまでに多くの武勲を積み重ねてきた軍人の家系だった。そんな一族の血を受け継いだクラウスだったが、彼は軍人にはならず、こうして留学生としてアンネルで勉学に励んでいた。


 普通なら同じように軍人になりそうなものなのに、そうはならなかったクラウスが、ユリカには不思議に思えたのだろう。


 ユリカの質問にクラウスは首を横に振った。


「別に軍人になりたくなかったわけじゃない。自分がここにいるのは、父が提案したんだ」


 クラウスの父。つまりはシャルンスト家の現当主のことだ。


「父も昔は軍で働いていた時期があった。勤勉で真面目で、上官からは信頼されて、部下からも敬意を持たれるほどだったらしい。だけど、父は早々に退役したんだ」


 ユリカの顔が曇る。退役は怪我によるものか、それとも病気か。彼女の中に嫌な想像が生まれる。しかしその懸念を否定するようにクラウスが続きを口にした。


「父が軍にいた頃は、すでに大きな戦争が起きることはなくなっていた。かつての『皇帝戦争』が終わってから、この大陸で大きな戦争が起きたことはない。父の時代には戦争の気配はなくなっていたんだ。そうなると軍事に金を使う必要はないからな。大規模な軍縮が始まったんだ。父はその軍縮の一環で、早期の退役を勧められたんだ」


 皇帝戦争の戦火が消えて数十年。かつての戦争の後、列強諸国の間には厭戦感が漂った。大陸全土を燃やした大戦争は、皮肉にも戦争の大陸に奇跡の平和をもたらす結果を生んだのだ。


 そうなれば限られた国費を軍事に使う必要はない。列強諸国は申し合わせたように軍縮を始めた。彼の父はその軍縮の影響を受けたわけである。


「戦争に参加せずに退役できたのは、運がいいのか悪いのか、正直わからない。ただ、父は複雑だったと思う。それまで武勲を重ねてきた一族が、いきなり不要だと言われたわけだ。いい気分じゃなかったとは思う」


 それ以降、彼の父は当主の座を引き継ぎ、善き領主として働いてきた。


 そんな生活の中、父はクラウスを呼び出した。


「父は私を呼び出すと、文官になれと言ってきた。これからは剣ではなく、筆と書類を相手に働く時代だと。これからの時代は文官の方が功績を立てやすい、と」


 クラウスは思い出す。その言葉を語った時の父の顔が、とても寂しそうだったことを。


 彼の父、そしてシャルンスト家は平和という時代の犠牲者だった。それまで戦場に立ち、祖国の運命を決した英雄たちは、時代から必要とさ

れなくなったのだ。


「たぶん父は悟ってしまったんだ。もう軍人が英雄になる時代が来ないことを。だから私に文官になれと言ったのだと思う。お前は文官になって、新しい時代を生きろ、と」


 そこで一旦言葉を区切って、クラウスはグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。彼の中に沸き起こった様々な感情を流し込みようにして。


 そんなクラウスの顔を、ユリカが心配そうに覗き込んだ。


「あなたも寂しいのかしら? 軍人になれなかったことが」

「どうだろう? 確かに父に言われた時は驚いた。自分も軍人になるのだと思っていた。でも勉強するのは好きだし、文官になるのも悪くないと思っている」


 そう言って、クラウスは少し考えこんでから、しかしやはり寂しい顔を見せた。


「まあ、それでも、やっぱり寂しいとは思っている」


 クラウスも子供の頃は軍人に憧れた時期があった。幼い頃に読んだ軍記物語や英雄譚は、少年だったクラウスをワクワクさせた。馬に乗って戦場を駆け回る英雄。数万もの敵を前に一歩も引かなかった命知らずな王の冒険。


 クラウスもいつか軍人になって、彼らのような英雄になることを夢見ていたのだ。


 そんな少年のロマンは、新時代の到来と共に失われたのだ。


 きっとそれは、彼の父と同じなのだ。父も同じようにロマンを求め、そして奪われたのだ。まだかすかに残っていた、かつての夢が。


 クラウスは胸の内に溜まった虚しさを、溜息と共に吐き出した。


「私と同じね」

 それまでクラウスの話を聞いていたユリカが呟いた。クラウスが顔を上げると、彼女も寂しそうな顔をしていた。


「同じ、とは?」


「あなたも私も似た者同士、ということよ」


 ユリカがワインを口に含む。彼女もまた、自分の中にある寂しさを言葉にした。


「私ね。本当は軍人になりたかったの」

「軍人に? でも、グラーセン軍は確か」

「ええ。グラーセンは女性が軍に入隊することを許可していないわ」


 グラーセン軍では女性が仕官することを認めていなかった。軍に限らず、他にも多くの仕事で女性が働くことができないことが多い。他の国でも程度の差はあれ、似たり寄ったりだ。


「私も軍人となって祖国に貢献したかったの。一兵士として味方の先頭に立って突撃する。そんな英雄になるのだと願ったわ。成長して女が軍に入れないことを知った時は、ベッドで泣いたわ。バカみたいでしょ?」


 茶化すように笑うユリカ。きっとそれは、悔しさを隠すための強がりだった。


「しかし現に今、あなたは参謀本部に所属しているでは?」


「それは陸軍が特別に許可したこと。参謀本部は創設して間もないから、特例として入隊が許可されたの。それに私に託されたのはスパイとしての任務だったわ。女性ならスパイに最適だと考えたんだと思うわ」


 最初クラウスも疑問に思っていた。女性が入隊できないグラーセン軍に、どうしてユリカが参謀本部に所属しているのか。


 一つの疑問が氷解したことで、クラウスはさらに疑問が浮かんだ。どうして彼女はここまでするのだろうか? 何故彼女は祖国のために働こうとするのか? 彼女をそうさせるものは何だろうか? クラウスはその疑問を投げかけた。


「ユリカ。何故貴方はそのように生きている? あなたをそうさせるのは、一体何だ?」


 予想していない質問だったのか、彼女はすぐには答えなかった。少し考えてから、もう一度クラウスに向き直って答えた。


「ごめんなさい。うまく説明できないわ。とにかく私はグラーセンという国を愛している。ただそれだけなの」


 ユリカのそれは信仰にも似た愛国心。決して奪うことのできない忠誠心だった。彼女は自分の胸に手を当てた。


「グラーセンは長い歴史を歩んできた。多くの歴史を紡ぎ、繋ぎ、こうしてその歴史を私に残してくれた。この体に流れているグラーセン国民の血が。受け継がれてきた歴史が。全てが尊くて、その全てが私にとっては誇りになるの」


 それは単純な愛国心であり、愛郷心だった。生まれた故郷を。その歴史を愛し、守りたいと思う心。ユリカはその想いが、人一倍強いのだ。


 誰かが見ればそれは狂信だと思うだろう。だが彼女はそう言われることすら喜ぶだろう。彼女にとって愛国心はそういうものだから。


「だから私はこの生き方を選んだのだと思う。愛する祖国のために生きて、私は初めてグラーセン国民に。祖国の一員になれるのだと。たぶん、理由はそんなものだわ」


 それは情熱が込められた信念の言葉。誰にも否定はさせない。そんなことはさせないと、ユリカの瞳が語っていた。


 その情熱はとても輝いていて、眩しくて、そして綺麗だった。


 だからだろう。クラウスはそんな生き方を選んだユリカが、とても美しく思えた。彼はポツリと呟いた。


「貴方が羨ましい。自分の望む生き方を選んだあなたが、とても羨ましく思う」


 嘘でもお世辞でもない。本心からの言葉。それはどんな誉め言葉よりも素晴らしい称賛だった。


 それを受け止めて、ユリカは笑った。とても嬉しそうにして。


 それから二人は。取り留めのない話を続けた。あと少ししかない二人の時間を惜しむようにして、思い残すことがないように、話したいことを話し続けた。


 ワインの味がわからないほどに、会話に酔う二人だった。


 

 楽しい夜も終わり、また太陽が顔を出す。よほど楽しい酒宴だったからか、クラウスは自分の体からワインの香りが漂ってくるのを感じた。


 そういう香りはワインの神からの餞別と呼ばれるものらしいが、そういう楽しみ方ができれば一番いいと、老人などは答えるらしい。


 ホテルのロビーに佇むクラウス。昨夜の余韻なのかアルコールが残っているのか、少し頭がぼんやりとしていた。

「お待たせ」

 ユリカが声をかけてくる。部屋を引き払ってきたようで、さきほどまで宿の主人と話していたようだ。


 例の黒い男性服から、特徴的な青いドレスに着替え、帰る準備は万端と言った様子だった。


 よく見るとあまり荷物が多くなかった。旅行かばん一つである。


「あまり荷物はないのだな」

「こういう仕事だと、必要以上に持っていても邪魔になるわ。最低限の荷物で十分よ」


 女性は荷物が多いものだが、そういうことには頓着しない性格のようだった。


 ホテルを出る。今日も太陽はマールを照らしていた。その温かさを糧に人々は日々を営み、街は呼吸をし、国家は鼓動する。


 そういう日々が積み重なり、歴史となる。それがいずれは歴史書に記録されるのだ。


「今日も変わらない一日になりそうね」

「私にとっては、元の生活に戻るだけだがな」

「ああ、それもそうね」


 他愛ない会話。それくらいの方が気持ちよく別れることができる。特に取り決めがあったわけでもないのに、二人はそこで別れることにした。


「それじゃあ、次はグラーセンで会いましょう」

「ああ。いつか故郷で」


 今生の別れではない。同じ国に生まれたのだ。いつかまた会えるし、会いたいとも思っている。できれば老人になってからは遠慮したいが、それでも面白いだろう。


 二人が向かい合う。ユリカが手を差し出すと、クラウスもその手を握り返した。

「それでは、ごきげんよう」


 最後に淑女らしい一言を残して、ユリカは歩き出した。


 クラウスも彼女に背を向けて歩き出した。


 二人の道はここで別れた。たった一度だけ交差した二人は、こうして別々の道を歩み始めたのだった。

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