第三章 二人の冒険
この街を見守る大聖堂の仕事の一つに、朝の訪れを告げるというものがあった。太陽が昇るのと同時に鐘を鳴らす。人々はその鐘の音を合図にそれぞれの一日を始めるのである。
その鐘の音に起こされるクラウス。ベッドの上でまどろみと格闘していたが、鐘の音は起きろ起きろとばかりに鳴り響く。さすがにクラウスも抵抗を諦め、ベッドの上から一息に体を起こした。
一回大きなあくびをしてから立ち上がる。すると壁を隔てた向こう側から物音が聞こえる。隣にはユリカが泊まっている。どうやら彼女も起きたみたいだ。
クラウスが窓を開ける。外から冷たい空気が部屋に流れ込む。彼はそれを限界まで吸い込んで、一気に吐き出した。それだけ彼の意識は一気に覚醒した。
外に目を向けると、朝焼けに輝くジズーの港が見下ろせた。
彼らが泊まるホテルは街の高台にあり、街全体を見下ろせるようになっていた。当然そこから港湾施設や海を眺めることができた。
その光景を目の当たりにしたクラウスは、圧倒された。
何人かが朝の準備に走り回るジズーの街。その向こうには多くの船が停泊している近代的な港。そしてその向こう側には、街もなく大地もなく、ただただ視界一杯に広がる大海原があった。
深い青の世界が広がっていて、空と海の境界線がわからないほどに、その青は美しかった。
何よりクラウスが圧倒されたのは、その青い海ではなかった。それ以上に彼の視線を釘付けにしていたのは、その海の上を航行する多くの船だった。
アンネル最大の貿易港・ジズー。世界中の海と結ばれ、百を超える国と地域と航路を繋げる港。アンネル産のワインもここを出発し、逆に世界中の商品がここからアンネル国内に運ばれる。
その港を中心に、数え切れない数の船がクラウスの目に映ったのだ。
広大なはずの海なのに、その海を所狭しと航行する貿易船や漁船など、大小様々な船が海の上を流れていた。
それなのにそれら船は衝突することなく、お互いに道を譲りながら海上を流れていた。
その光景を目の前にして、不思議と高揚するクラウス。有体に言って、子供みたいにワクワクしていた。
「おはよう。早いのね」
そのクラウスの後ろからユリカが声をかけてきた。彼が振り向くと、彼女はすでに着替えを済ませていた。女性は準備に時間がかかるはずだが、元々ユリカは整った顔立ちをしているのだ。化粧の必要がないのかもしれない。
「昨日はよく眠れたかしら?」
「おかげ様で。枕が変わっても問題はない。そちらは?」
「いい夢が見れたわ。どんなベッドでも寝れる自信があるの」
「それはよかった。さすがに天蓋付きのベッドを持ち歩くわけにはいかないからな」
朝から軽口の応酬。クラウスも下宿では独り暮らしだったので、おはようを言う相手もいなかった。こんな朝は彼にとっても新鮮だった。
するとユリカが静かに笑った。その微笑みはクラウスに向けられていた。
「やっぱり男の子は船が大好きなのね。とても楽しそうだわ」
どうやら船を見ているクラウスが子供のように見えて、それを愉快に思っているようだ。
さすがに気まずいクラウスは反論した。
「男の子、などと呼ばれるような歳ではないのだが?」
「あら? 紳士と呼ばれる人は寝間着で女性の前に立つのかしら?」
言われてみて気付いた。クラウスは寝間着のままユリカの前に立っていた。
ユリカが勝手に入って来たのだから、注意される立場ではないのだが、寝間着のままなのは事実だった。
「すまない。とりあえず着替えるから、部屋で待っていてくれ」
着替えを済ませたクラウスがユリカの部屋に入ると、テーブルの上に朝食が並んでいた。グラーセンに比べてアンネルの朝食は軽いもので、スープとパンがいくつか。それと卵料理が並べられていた。
どうぞと着席を促すユリカ。クラウスが正面に座ると、二人は食事を始めた。
「それで? 今日は何をする? 今度は港に侵入するのか?」
クラウスが問いかける。ユリカがきょとんした顔を見せてから、クスクス笑い始めた。
「心配してくれるのかしら? 嬉しいわ」
「確かに心配はしているが、あんなことをして今度こそ捕まりでもしたら、自分にはどうしようもない。自分まで捕まるのは間抜けな話だ」
「牢屋が愛の巣というのも、避けたいところね」
それからユリカは間を置いて切り出した。
「今日はここに運ばれてきた荷物を積み込むための船が入港するわ。ここを出港するまでにできる限り情報を探りたいと思うの。可能ならアンネル政府が何を企んでいるか、そこまでわかれば理想的だけど」
「具体的にはどうする?」
「基本的に聞き込みをすることになるわ。噂というのは絶対漏れてしまうものよ。金庫の鍵を閉めることはできても、人の口に鍵をかけることはできない。何が入っているのかは噂になるはずよ」
「しかしそう簡単に聞き出せるのか? 上手くいくとは思えないが」
「そこは腕の見せ所ね」
クラウスの当然の懸念にも、ユリカは微笑みを返した。
「さすがに知りたいこと全てを知るのは無理でしょうけど、集められる情報は可能な限り集めたいと思うわ」
クラウスの不安に対して自信を見せるユリカ。クラウスも彼女を信じることにした。たったそれだけでクラウスも不安が和らぐのだから、不思議に思えた。
仲間がいればそれだけでも心強い。ユリカが言っていたのは、こういうことなのかもしれない。
食事を終えてしばらくすると、港の方から汽笛が聞こえてきた。クラウスが窓を開けて港を見ると、大きな船が入港するのが見えた。おそらくそれがクルノー社の貨物船だ。
煙を吐いて優雅に海面を泳ぐ船。その巨大さは港の中でも特に目立っていた。
緊張するクラウス。これから何が起きるのか。自分に何ができるのか。自問するクラウス。
そんな彼が隣を見ると、ユリカがそこにいた。彼女は楽しそうに鼻歌を歌っていた。まるでこれから起きることを楽しみにしているように見えた。
その瞬間に彼の不安は消え、つい笑ってしまった。
クルノー社の船が入港してしばらく経っていた。この日は乗組員の休養日らしく、多くの船乗りたちが街に繰り出していた。
久しぶりの大地を楽しむように歩く男たち。長く船と生活を共にし、海の上で生きてきたからだろう。彼らからは潮の香りが漂っていた。まるで淑女が香水を楽しむように、彼らもその香りを好んでいる様子だった。
クラウスたちは街に出ていた。彼らは街のメインストリートに来ていた。今日入港した乗組員もここに来ているらしく、ユリカは彼らから情報を聞き出そうとしていた。
「大丈夫か? 相手は船乗りだぞ。気性の荒い相手にどうするつもりだ?」
海の上で生きる男たち。多少は気が強くなければ生きていけない世界だ。クラウスの横を素通りした船乗りも、丸太のように太い腕をしていた。特に今から話を聞きに行く相手は久しぶりの陸地なのだ。気分が高まっているはず。
「大丈夫。もし何かあったら、王子様が助けてくれるわ」
心配するクラウスに軽口を返すユリカ。それから彼女は大丈夫とばかりに微笑んで見せた。
「安心して。無理はしないわ。それに私には考えがあるの」
そう言ってユリカが歩き出す。ついて来いということだろう。クラウスもそれ以上何も言わず、彼女の後に続いた。
少し歩くと、二人は街の中心部に来た。二人が建物の影から通りを覗くと、例の乗組員たちが歩いているのが見えた。長旅で陸地が恋しかったのだろう。露店で食べ物を頼んだり、家族へのお土産を選んだりしているのが見えた。
ユリカが指を差す。そこにはレストランに集まる男たちがいた。それぞれ串焼きや軽食などを持ってテラス席に座り、美味しそうに頬張っていた。
「あの人たちに話を聞きましょう」
道を聞くように簡単に口にするユリカ。あまりに簡単に呟くのだから、クラウスもすぐには理解できなかった。
「いや、聞くと言ってもどうやって切り出す? 何か考えがあるのか?」
「ええ。そのためにあなたに協力してもらうわ」
ユリカが耳打ちしてくる。その内容を聞いたクラウスはなるほどとうなずいた。
「わかった。言うとおりにしよう」
船乗りたちが大きな笑い声をあげながら食事を続けていた。ユリカたちはそんな彼らのすぐ横を通り抜けようと歩いていた。
「きゃ!」
その瞬間だった。ユリカはすぐ横の椅子にぶつかり、派手に転んでしまった。被っていた帽子なども周りに散乱してしまった。
「大丈夫か?」
クラウスが手を差し伸べる。周りにいた船乗りたちも驚き、二人を見た。クラウスたちは散らばった持ち物をかき集めていた。
そんな中、船乗りの一人が足元に落ちていたハンカチに気付いた。彼はそれを拾い上げて、ユリカに近寄った。
「これ、あんたのハンカチじゃないか?」
ユリカは男に振り向くと、可愛らしく微笑んで見せた。
「あら。ありがとうございますわ。ご丁寧に」
海の上では見ることのない乙女の微笑み。男はユリカの笑みに見蕩れていた。ユリカは男からハンカチを受け取ると、もう一度笑みを浮かべて感謝を伝えた。
「本当にありがとうございます。お食事の邪魔をしてしまって申し訳ございませんわ」
「いや、構わないさ。怪我がないならそれでいいさ」
男も笑顔で返す。黒く焼けた顔や丸太のような太い腕は、彼が海の男なのだと思わせるのに十分な迫力があった。彼から漂ってくる潮の香りの濃さが、彼がどれだけ海で生きてきたかを物語っていた。
男はクラウスたちを交互に見た。何かを察したのか、気持ちのいい笑顔を向けてきた。
「見たところアンネル国民じゃないな。どこから来たんだ? 新婚旅行かい?」
「グラーセンから来ました。残念ながら新婚ではありませんが、その予行演習ですわ。ねえ? あなた」
「あ、ああ。そうだな」
腕を揺すって同意を求めるユリカ。クラウスも言葉に詰まるが、それを恥ずかしさのためと勘違いしたのか、船乗りは面白そうに笑った。
「それは結構なことだ。羨ましいね。俺も早く帰りたいよ」
「そういえば、今日は大きな船が入港したみたいですが、皆さんの船ですか?」
すかさず問いかけるユリカ。切込みのような問いかけにも男は疑問を抱かず、大きく頷いた。
「そうだよ。久しぶりの陸地でね。長い航海の後だから、少しの休暇だな。また荷物を積んだらすぐに出港さ」
「お忙しいのですね。大変ですわ」
大袈裟に驚くユリカだが、男は何でもないとばかりに笑った。
「まあな。だけど辛くはないさ。俺たちは波の音を子守歌にして。船をベッドにして生きていくのさ。それが俺たちさ」
男の言葉に後ろで聞いていた他の船乗りたちも頷いてみせた。
「ふふ、素敵ですわ。でも、すぐに出航だなんて、本当に忙しいのですね。どこまで行かれるのですか?」
「どこだったかな? 確か極東だったな。シヴァ大陸まで行く予定さ」
男の言葉に今度こそユリカは驚いた。それは隣で聞いていたクラウスも同じだった。
この世界を大きく西と東に分けた場合、西はローグ王国を中心としたユースティア大陸が存在する。それとは反対に大きく東の方角には、シヴァ大陸と呼ばれる世界があった。はるか東の果てにあるシヴァ大陸は、まさに世界の反対側にある世界だった。
男たちは世界を半周するほどの航海をするのだ。さすがにユリカも驚きを禁じ得なかった。
「シヴァ大陸まで? 世界の果てではありませんか。それはすごいですわ」
惜しみない称賛を送られ、男もまんざらではなかった。
「なあに。この海は世界の果てまで続いている。海が繋がっていれば、俺たちに行けないところはない。いつか新婚旅行をするなら、その時は世界一周でもするといい。いい旅になると思うぜ」
「あら。世界の航路を旅するだなんて。ドレスが何着あっても足りないわ」
軽口の応酬で笑い合う。ユリカのような麗しい乙女との会話に、男は飲んでもいないのにほろ酔い気分になっているみたいだった。
さすがに彼らは想像もできないだろう。ユリカが情報を聞き出すために、彼らの前で『わざと転んで』きっかけを作ったなどと。
ユリカの計画は見事に成功し、情報を聞き出すことに成功したのだ。
「楽しいお時間をありがとうございます。それでは」
「ああ。こっちも楽しかったぜ。お幸せに」
祝福の言葉と共に周りの男たちが手を振って見送ってくれた。クラウスも軽く会釈してその場を後にした。
しばらく歩いてから、男たちから離れたところでユリカが口を開いた。
「物資の運ぶ先はシヴァ大陸だったのね。まさに世界の裏側だわ」
気の遠くなるような話だった。クラウスだけでなく、このユースティア大陸で暮らす人々にとって、シヴァ大陸は距離的にも心理的にも遠く、想像でしか語れない世界だ。ユースティアのほとんどの人間は、その大地を踏みしめることはないだろう。
唯一、海を行き来する船乗りを除いて。
「彼らの言うとおりだ。海が繋がっていれば、どこへでも行けるのだな」
船乗りたちの言葉を反芻する。彼らはこれから、世界の果てまで行くのだろう。海は世界を繋ぎ、人や物を運んでくれる。言葉で語れば簡単なことなのに、とてもすごいことなのだと感心してしまう。そしてそれを叶える船乗りたちが、クラウスには偉大に思えた。
「何かわかったことはあるのか?」
クラウスの問いかけに押し黙るユリカ。深く考え込んだ後、首を横に振った。
「まだ何とも。もっと情報が欲しいところだわ」
実際彼らからは物資の運び先を教えてもらっただけで、さすがに全てがわかるはずがなかった。性急であったとクラウスも反省した。
「しかし、どうする? また別の船乗りから話を聞くのか?」
「いえ、これ以上話をしても進展はないと思うわ。それよりも情報が集まりやすい場所に行くのが一番だわ」
クラウスは首を傾げる。そんな場所がどこにあるのというのか? その疑問には答えず、ユリカは別の場所に歩き始めていた。
次に彼らが向かったのは、港に程近い通りだった。そこはレストランや酒場が並ぶ通りだった。ユリカはその中で一番目立つ酒場に入った。
「おや? まだ準備中だよ。何か用かい?」
中から小太りの男が出てきた。おそらく店主なのだろう。クラウスたちをの姿を訝しげに見つめた。
するとユリカが一歩前に出て、紙幣を一枚取り出した。
「お酒ではありませんが、何か酔わせてくれるようなお話を聞かせてくれると嬉しいのですが」
その一言に納得した様子を見せて、店主は少し待つように言った。
店主は奥から戻ってくると、軽い肉料理を出してくれた。
「こういう話は食べながらの方が弾むものだ。色恋沙汰でも井戸端会議でも」
椅子に座るように促す。二人が椅子に座ると、店主の方から切り出してきた。
「それで? 何が聞きたいんだ? 俺にわかることならいいんだが」
「最近入港してくる船に関して。会社や目的地、その数などを教えていただければ」
「船か。それは貨物船や貿易船のことを言ってるんだろう? 答えなくてもいいが一応聞いておこうか。そちらは政治屋か? それとも商人か金貸しか?」
慣れた様子で話を進める店主。この酒場は船乗りたちがよく集まるらしく、自然と情報も集まってくる。ユリカがここに来たのも、新しい情報を期待してのことだった。さきほどの紙幣は情報量と口止め料ということなのだろう。
ユリカもこの質問を予想していたのか、あらかじめ決めていた答えを返した。
「投資家でございますわ。最近こちらの方で面白い儲け話があると聞きましたので、この目で確かめに来ました」
その言葉に店主も納得してくれた。
「なるほどね。それで? 何が知りたい? 一番儲かっている会社か? それとも売れている商品か?」
「船が積んでいる商品にはどんなものがあるのか? それらはどこに運ばれているのか? 今までにどれくらいの量が運ばれたのか? 教えていただくことはできますか?」
ユリカの問いかけに店主は意外そうな顔をした。少女が問いかけたというのもあるのだろうが、質問の内容が意外だったのだろう。
「お嬢さんが出資者なのかい? 女の投資家は意外だね。それにそんな質問をするのはあんたが初めてだ」
「男と女では、世界の見え方も視線の向かう先も違うのかもしれません。恋人にでもならない限り、同じものを見ることはないのでしょう」
その返答が店主の心を掴んだのか、彼は感心したようにうなずいた。
「面白いな。お嬢さん。気に入った。いいよ。わかる範囲で教えるよ」
話術というのは話を弾ませるだけでなく、相手から話を聞き出すための武器でもある。ユリカの話術なら、どんな相手からでも話を聞き出せそうだった。
「さて、船の積み荷についてだが、もう何でもかんでも船に積んでいるな。小麦粉や酒、衣類とかも見たな。そういう話はそっちでも聞いているんじゃないか?」
アンネルでの小麦の買占めのことを言っているのだろう。酒や衣類が運ばれているということは、それら商品も買占めが行われたのかもしれない。
「実際すごいぜ。ジズーも貿易港だから、そりゃ普段からたくさんの船が出入りするさ。でも最近の出入りの激しさは初めてかもしれないな。不定期便が何度も入港してきたからな。その都度荷物を積んではまた出港。最近はその繰り返しさ。そのおかげで人が町に来てくれるから、繁盛しているがね」
「そんなにたくさんの不定期便が?」
「俺もこの街は長いからな。定期便に乗っている奴なんかは顔を覚えることもある。だけど最近の不定期便の多さは異常だ。初めて見る船がたくさん来るよ」
不定期便が何度も使われるというのはあり得ないことだった。それが何度も入港しているというのも、明らかに異常であった。
「それら船はどこに荷物を運んでいるかわかりますか? 全て同じ所へ?」
「俺が知る限り、全部の船がシヴァ大陸へ行っているな」
先ほどの船乗りたちもシヴァ大陸に向かうと言っていた。物資が極東に運ばれているのは間違いないようだった。
「ちなみにどちらの国まで? シヴァと言っても多くの国があります。どの国かわかりますか?」
「たしかヴァルナとか言ってたな。元々ヴァルナも大きいからな。尋常じゃない数の人間が暮らす国だ。国民を養うのに食い物が必要なんだろうさ。最近はアンネルとか列強を追いかけて国を改革しようとしていらしいし、そのために高い買い物をしてるんだろう」
シヴァ大陸の国々はアンネルなどのユースティア諸国に比べて、近代化が遅れている国がほとんどだ。シヴァ大陸にある大国・カンミンや、その隣の島国・ジンム。その他にもヴァルナやシェイムなど、それら国々はユースティア諸国の文化や技術を学び、ローグやアンネルのような国になろうと模索しているという。
「それにヴァルナには色んな国が拠点を置いているからな。ローグもそうだが、アンネルもたくさんの人間を送り込んでいる。そこで貿易を営んでいる会社もあるだろうし、そいつらが商品を売りつけているんだろう」
ヴァルナ相手の商売ならば、異常とも言える物資の輸出も納得できる。小麦の買占めをするほどの商売だって、ヴァルナ相手なら可能だからだ。
話を聞いていたユリカも納得した様子で頷いていた。
そんな中、クラウスだけが不思議な感覚を抱いていた。店主の話には、何故か釈然としない感覚を覚えていた。
どこにも不自然なところはない。むしろ納得できる話の内容だった。
だというのに、彼にはどうしても納得できなかった。
問題は、その違和感の正体が何なのかがわからないということだった。何か不気味な存在を感じるというのに、その存在が目には見えず、触れることもできない感覚。それがどれほどの不安となるのか、誰もがわかるはずだ。
彼は横にいるユリカを見た。彼女は気付いているだろうか? クラウスが抱く違和感の存在に。
「まあ商人たちがたらふく稼いでいるのは確かさ。投資するんだったらシヴァの方まで金を回すことだな。俺は投資とか難しいことはわからんが、シヴァなら誰も手を付けてはいないはずだ。お勧めだと思うよ」
二人を最後まで投資家だと勘違いしている店主の言葉に、クラウスは曖昧な笑みを返すのだった。
それからも二人は街を歩き回り、できる限り情報を集めた。結局二人が宿に戻ったのは夕方になってからだった。
色々歩き回ってみたものの、酒場の主人から話を聞いてからは、特に目立った情報は手に入らなかった。
この港から大量の物資がシヴァに送られていることは確実で、多くの人が同じことを口にしていた。それを確認できただけでもよしとするべきかもしれない。
「それで? 何かわかったことはあるのか?」
宿に戻ったクラウスがユリカに問いかける。彼女は残念そうに首を横に振った。
「さあ? まだ何とも」
そう言いながら大胆にソファで横になるユリカ。今日は一日中歩き回ったのだ。疲れ切っているのだろう。クラウスにもそれはわかっているので、特に何も言わなかった。
正直クラウスも足が固くなっている感覚を覚えていたのだ。ユリカがそうしていなければ、彼が同じことをしていただろう。
「さすがに今日集めた情報だけでアンネルが計画していることを掴むのは難しいわ。本当は何も企んでいないかもしれないし、そうであることが一番なのだけど」
彼女の言うとおり、アンネルが何も企んでいないのなら、それはそれでいいのだ。今日のことが徒労に終わるのであれば、それこそ望ましいことだった。
「それに明日、大使館からの報告書が届くことになっているわ。私と同じように各国で活動している仲間が掴んだ情報が書いてあるわ。それを読んでみるのもいいかもしれないわ」
「そうか。それなら待つとしよう。吉報となるといいのだが」
その呟きにもユリカは何も答えなかった。見れば疲れからか、その目はトロンとしていた。
この日はすぐに寝ることにした。お互いに悪夢を見ないことを願いながら、それぞれの部屋に戻るのだった。
大聖堂の鐘が一日の始まりを告げる。鐘の音を合図にクラウスの脳も活動を再開させる。
大きく口を開けてあくびを一つ。それからベッドから立ち上がり、窓を開けてみる。昨日と変わらない晴天のジズーがそこにあった。
そこでもう一回あくび。開いた口から冷たい空気が流れ込む。それで意識は一気に覚醒するのだから、やはり目を覚ますにはこれが一番だと、クラウスは一人納得していた。
ユリカを思い出す。すでに彼女も起きているはずだ。彼はすぐに着替えることにした。昨日は部屋に入られて、寝間着姿を茶化されたのだ。さすがに二の舞を踏みたくなかった。
すぐに支度を始めた。元々衣服の流行には疎いクラウス。疎いというよりは興味がないというのが正確で、最低限恥ずかしくない程度の衣服だけを揃えていた。
決して見栄えがいいとは言えないが、こういう時は簡単に身支度が済ませられるという利点こそ、彼にはありがたいことだった。
ボサボサの髪も整える。これで恥ずかしくない程度にはなった。これでもグラーセンにいた頃よりはマシになった方で、昔はだらしない格好でも平然としており、そこを父親に注意されることが多かった。
今以上に物静かで、悪く言えば陰鬱さが人の形をしているような印象だった。
クラウスは鏡に映る自分を見つめた。昔とどう変わったのかは、彼にはわからなかった。これでグラーセンのシャルンスト家の屋敷に戻れば、家族はどんな顔で驚くだろうか?
父が驚く顔を想像して、クラウスは一人静かに笑った。昔はそんな風に笑うこともなかっただろうに。
身支度を終えて部屋を出る。
あ、と小さな声が聞こえた。クラウスが声のする方を見ると、ホテルの女給がクラウスを見ていた。彼女はユリカが泊まる部屋の前で立ち止まっていた。
困り顔の女給がクラウスに近寄って来る。
「申し訳ありません。こちらのお客様のお連れ様でよろしいですか?」
「ああ、そうだが。何か?」
「すいません。こちらの方から『時間になったら食事を部屋に運ぶように』と言われているのですが、お呼びしても返事がないのです。勝手に入るわけにもいかず、どうしたらよいものかと困っておりまして……」
横には出来立ての朝食が湯気を立てていた。さっきからずっと呼びかけているのだろう。
「返事がない?」
女給は困り顔のまま頷いた。
その瞬間、クラウスに嫌なものがよぎった。
もしかして彼女の身に何かあったのではないか? それこそ侵入者がやって来て、彼女の身に危険が及んだとか。
マールでも警察に追われていたのだ。それに参謀本部の諜報員だ。誰かに命を狙われてもおかしくはない。
クラウスはポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはユリカの部屋の合鍵だった。緊急事態に備えて、お互いの部屋の鍵を持つようにとユリカに提案されていたのだ。まさか使うことになるとは思ってもいなかった。
「何かあれば私が開けたと言っておいてください。責任は自分が持ちます」
横の女給にそう伝えると、彼は間を置かずに鍵を開けて、部屋の中に押し入った。
その光景を見た瞬間のことを一言で言うなら、拍子抜けだった。
ユリカは部屋の奥で、椅子に座ったまま机の上で眠りこけていたのだ。
脱力するクラウス。同じように女給もほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。
さて、どうしたものかとクラウスは思案する。彼女を起こすのは問題ないのだが、おそらく昨日の疲れが溜まっていたのだ。起こすのは気が引けた。それに机の上を見てみると、色々な書類が散乱しているのがわかった。
昨日クラウスと別れた後、さらに仕事を続けていたのだろう。
仕方ないと溜息を吐いて、彼は後ろに控えていた女給に感謝を伝えた。
「ありがとう。とりあえず問題はない。このまま寝かせておいてほしい。食事は置いていっていいから。騒がせて申し訳なかった」
女給は言われたとおりに食事を置いて、騒がせたことを詫びてから退室した。
あとに残されたのは途方に暮れるクラウスと、まだ眠りから覚めそうにないユリカだった。彼女は今も気持ちよさそうに寝息を立てていた。
机の横まで移動してユリカを見た。彼女の指先はインクで汚れていた。
失礼だと思いつつも、彼はユリカの寝顔を覗き込んだ。
とても静かで、憂いのない寝顔。起きている時とは違った印象を見せていた。
やはり歳相応の少女なのだと、そう思わせる無垢な寝顔だった。
そんな彼女の寝顔が、クラウスに一つの疑問を抱かせた。
どうして彼女は、この仕事をしているのだろうか?
祖国グラーセンのためと彼女は言っていた。つまりは愛国心という奴なのだろう。彼女の言葉からは想像しやすかった。
問題は、どうして彼女が参謀本部で働くことになったのかということだった。そもそも軍は女性の入隊を認めていないはずだ。彼女はどのようにして参謀本部に所属することができたのか?
改めて、クラウスはユリカが得体の知れない存在に思えた。よく考えてみれば、彼女がハルトブルク家の令嬢であること以外、彼女のことはよく知らなかった。
いや、もしかしたらクラウスは、ユリカについて何も知らないのではないか?
今も無垢に眠る少女。いつも悪戯な笑みを浮かべながら、自分をからかう少女。
だが、彼が知っているのはそれだけだ。おそらくそれは、彼女の全てではないはずだ。
クラウスは溜息を吐く。ユリカは当分起きそうになかった。彼は仕方なく、先に食事を済ませることにした。そうして食事を済ませると、一枚のメモ書きを置いて外出することにした。
鍵をかけてから、先ほどの女給に誰も部屋に入れないよう頼んでから、彼はジズーの街に繰り出したのだった。
クラウスが向かったのは、この街の郵便局だった。
彼はこの街に来てからやりたいことがあった。と言うよりはやるべきことがあった。
それはグラーセンにいる家族に手紙を書くことだった。半ば失踪に近い形でユリカに連れ出されたのだ。今頃マールでは、自分がいなくなったことで大騒ぎになっているかもしれない。そのことが家族にも伝わっているかもしれない。
念のために自分が今ジズーにいること。何も心配はいらないことを手紙で伝えることにしたのだ。
郵便局に入ると、何人かの客と職員がいた。彼はすぐ近くにいた職員に声をかけた。
「すまない。便箋とペンをいただけないだろうか?」
職員は快く差し出してくれた。便箋を受け取ったクラウスは近くの椅子に座り、手紙を書き始めた。
何を書くべきかと悩んでしまう。とりあえずユリカと出会ったこと。彼女とジズーに来ていることを手紙に書くことにした。さすがに彼女が諜報員として活動していることを書けるはずもなく、そこは省くことにした。
自分がハルトブルク家の令嬢と出会ったこと。クロイツ統一のために彼女に協力していること。それを家族が知ればどう思うか。つい不安になってしまう。
全てを伝えるわけにはいかないので、心配させないように当たり障りのないことを書いて、グラーセンに送ることにした。
やるべきことを終えて一息つく。このまま帰ってもよかったのだが、少し散策でもしてから帰ることにした。今頃ホテルではユリカも起きているだろう。彼女に土産の一つでも買っておこうと思った。
とはいえ彼女の食べ物の好みは知らない。そもそもクラウスは女性が何を好むのかも、そういうことには考えが及ばない人間だった。
仕方ないので彼はすぐ近くにある食べ物屋に足を運んだ。何かお勧めでもあればそれにしようと思った。
ちょっとした屋台があり、そこでは女性の店員が料理を作っていて、香ばしい匂いが漂っていた。クラウスは女性に声をかけた。
「失礼。何かお勧めのものはあるだろうか?」
「いらっしゃい。それなら魚の串焼きはどう? 食べ応えがあるよ」
気前のいい女性だった。ジズーは海産物が豊富な街だ。立派な魚を豪快に焼いた串焼きはハズレではないだろう。
「それなら、二人分頂いてもいいだろうか?」
「はい。ちょっと待っててね」
串に突き刺さった立派な魚を火にかけると、香ばしい匂いが漂ってきた。その匂いを嗅ぎながら料理が出来上がるのを待つクラウス。そんな彼に店員が声をかけてきた。
「恋人へのお土産?」
からかうような笑みを向けてくる店員に思わず口ごもるクラウス。きっと二人で街を歩いているところを見られていたのだろう。
元々恋人と偽って潜入捜査をするのがユリカの目的だったのだ。そういう意味ではユリカの目論見は成功していた。
しかし、こうして面と向かって言われると、クラウスもどう答えていいかわからなかった。
クラウスの無言を照れていると思ったのか、店員は愉快に笑い出した。
「付き合い始めたばかり? いいね、初々しくて」
「いや、まあその……」
「照れない照れない。お似合いだったよ」
女性は色恋沙汰が好きだと言うが、この店員もその例に漏れないようだ。彼女は茶化すように笑う。クラウスもそれ以上何も言わず、そのままにしておいた。
鉄板の上では魚が勢いよく焼かれていた。美味しそうな音を立てる魚に店員が香辛料を惜しげもなく振りまく。油と香辛料が織りなす香りに食欲を刺激された。
ふと、彼女の手にある香辛料に目が止まる。見たことのない香辛料だった。
「初めて見るが、その調味料は何です?」
「ああ、これはカンミンからの輸入品でね。あっちでしか作れないものらしいんだ。あまり量が出回らないから、少し貴重なんだ」
店員がその手に持つ小瓶を掲げて見せてくれた。クラウスも初めて見る調味料で、確かにカンミンの言葉で何かが書かれていた。
「そんなに貴重なのか?」
「ほら、カンミンは貿易で制限をかけてるだろう? これもあまり出回らなくてさ。入ってくる量が少ないから価格が上がってしまうんだ」
典型的な保護貿易の話にクラウスは納得した。保護貿易とは自国の産業を守るために他国との貿易に関して、関税や輸出入に関して規制を施す政策である。
貿易、経済は国家の存続に直結する問題だ。デリケートな問題なだけに、慎重な対応が求められる問題だった。
「カンミンにも自分たちの生活があるんだろうけど、もう少し規制を緩めてほしいよ。政府にも頑張ってもらって、カンミンともっと貿易ができるようにしてほしいね」
そんなことを語る店員だが、クラウスにはカンミンの立場も理解できた。カンミンには数億の人口がいるという。彼らの生活を守るためには、自国の産業を守る必要があった。
それに保護貿易はどこの国でもやっていることだ。カンミンだけを責めることはできない。
そんなことを話していると、ちょうど料理が出来上がった。香ばしい匂いのする魚を二人分袋に詰めて、店員がクラウスに手渡した。
「オマケしておいたから、熱いうちに食べてね」
「すまない。よろしかったのに」
「いいさ。かわいい恋人に食べさせてあげなよ。それで絆を深めてちょうだいな」
最後までクラウスをからかう店員。クラウスも最後にお礼を伝えて、その場を後にした。
独特の調味料の香りが漂う。その香りを感じながら、彼は遠い異国を想像した。
「カンミンか……とても遠いな」
カンミンについては大学の講義でも学んだことがある。極東情勢も少しは学んできたクラウスは、カンミンの現状についても把握していた。
シヴァ大陸も独特の風習や価値観を持った世界だ。大学で聞いた話は信じられないことが多かったのを覚えている。
「そういえばあっちの人々は顔が平べったいというが、本当だろうか?」
シヴァ大陸。特に極東は神秘と呼ぶ人々もいる。まるで理想郷のように考える人も多く、芸術家の間では、その想像が熱く語られていた。きっと素敵な世界なのだと。
そこまで考えてクラウスは頭を左右に振った。今はそんなことを考える時ではない。考えるべきはアンネルの企みについてだった。
実際にはどうなのだろうか? アンネルは密かな企みを抱いているのだろうか? もしかしたら世界をひっくり返すような陰謀なのだろうか?
いや、実際には何も企んではおらず、自分たちが勝手に騒いでいる。
そうであれば一番いいのにと、彼はそんな風に思った。
考えても答えが出るはずもなく、彼はそれ以上思考するのやめた。
とりあえず今大事なことは、その手に握られている紙袋をユリカに届けることだった。きっと今頃は、置いていかれたことを怒っているに違いないのだから。
さっきの店員には恋人だと勘違いされていた。実際にはそう見えているのだろうし、そう思われるのも仕方ないことではあった。
しかし改めて考えてみると、ユリカはどういう女性なのだろうか?
そもそもクラウスには女性と付き合うといった経験はしたことがなかった。元々愛想の悪いタイプだったものだから、女性どころか人付き合いが苦手な人種だった。
そんなクラウスに言わせると、確かにユリカは美しい女性だ。ただ美しいとは思っても、彼女が理想の女性、もしくは結婚相手として素晴らしいかどうかは、彼にはわからなかった。
これまでユリカと一緒に過ごした時間を思い起こしてみる。からかわれたり、悪戯されたり、振り回されたり。正直あまりいいことが起きているとは言えなかった。
その上で言えることは、少しは楽しいということだった。
彼女と過ごした時間。それは決して悪いものではなかった。それが彼の本音だった。
そんなことを彼女に言ってしまえば、どんな顔をするのか目に見えていた。だからクラウスは絶対彼女に言わないでおこうと決意した。
案の定、宿に戻るとユリカは置いていかれたことに不満そうな顔をしていた。
帰ってきたクラウスにはただいまよりも『ずるい』の一言が飛び出していた。
クラウスもそのことを謝ると、買ってきたお土産を彼女に手渡した。
少しの間不満そうではあったが、すぐに満面の笑みになった。
「しかたない。これで許してあげるわ」
そう言って、彼女は湯気を立てる魚の串焼きを小さな口に頬張った。きちんとオマケされた分も食べて、ご満悦となっていた。
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