#7

「あーきーらーちゃん」


 夜、晶が自室でバイオリンの手入れをしていると、ドアをノックする音がして、那由多が顔をのぞかせた。


「那由多さん、もう上がり?」


 閉店時間にはまだ少し早い。


「そ。でね、晶ちゃん、ちょっといいかしら?」

「何?」


 那由多は部屋に入ってくると、ベッドに腰を下ろす。


「ちょっとバイオリン弾いてくれないかしら?」

「……何で?」


 唐突な申し出に、晶は怪訝な顔をする。


「聴きたいから」


 にこにこしながら那由多は言う。晶は今の自分の状態ではいい音は出せないと思うから、断ろうと思ったのだが、


「ちょっと空気が澱んでて、上手くいかないのよねえ。晶ちゃんのバイオリン聴いたら上手くいくと思うの。だから、お願い」


 那由多は拝むように手を合わせて、首を傾げる。

 晶はますます眉根を寄せた。日頃からふわふわと不思議なところのある人だけれど、今は特に何を言っているのかわからない。


「……まあ、いいけど」


 追及するのも面倒で、晶は那由多の頼みを承諾する。それに、演奏を聴きたいと言われて悪い気はしない。

 ありがと、と那由多は立ち上がる。


「じゃあ、ちょっと外に行きましょうか」

「外で? 近所迷惑じゃない?」

「ちょっとくらい許してもらいましょ」


 そう言って晶の手を取ると、半ば強引に庭に連れ出す。そして、桜の今は青々と葉を茂らせる桜の木の下までやってきた。


「この木はね、ここを見守ってくれているのよ」


 木を見上げながら、那由多は言う。空気は湿気を多く含んで、少し重い。


「へえ。そうなんだ」


 晶は気のないふうに生返事をする。今日の那由多はなんだかおかしいが、適当に付き合うことにする。


「で、何弾こうか?」

「そうねえ、こんな夜に相応しい曲を」


 那由多は歌うように言う。

 晶は少し考えて、バイオリンを構えた。

 夜に弾くなら、小夜曲セレナーデかな。恋人や親しい人に捧げる曲だが、まあいいだろう。

 奏でたのは、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。本来は合奏曲だが、即興でバイオリンのソロにアレンジしてみる。

 軽やかな旋律が風に舞い、木の葉を揺らす。

 すると、どうだろう。木の葉たちが、ざわざわとざわめき、晶の演奏に合わせて歌ったような気がした。蛍のような儚げな光の粒が舞い、那由多の手のひらに集まっていく。

 演奏を終えると、何事もなかったように辺りは静まり返りっていたが、心なしか空気が澄んでいるような気がした。

 晶は目を瞬かせて、那由多を見る。那由多は不思議な笑みを湛えて、晶を見返した。


「今の、何?」


 那由多は「内緒」と囁き、


「世界は厳しくて残酷かもしれないけど、ちょっとくらい本物の奇跡や魔法があっても、いいと思わない?」


 そう言って、那由多は紅い唇の前に人差し指を立てて、いたずらっぽく笑った。



 週明け、雪乃が改めて事情を説明したことにより、晶への疑いは晴れるかに見えた。しかし、あくまで自分のしたことを認めようとしない里香たちと、いじめがあったことを認めたくない学校側の態度により、この件は結局うやむやに終わりそうな気配を見せた。

 まあ、現実なんてこんなものだ。熱血教師がいじめっ子を改心させて、なんなら友情も芽生えました、なんていう展開は、ドラマの中だけだ。

 しかしそれ以来、先生たちも里香とその仲間には目を光らせているみたいだし、多少の抑止力にはなるだろう。


「あの……和泉さん」


 昼休みに入り、弁当を広げようとしていた晶のもとに、おずおずと雪乃がやってきた。

「……何?」


 何の感情も込めないように言ったつもりだが、上手くできただろうか。


「これ……」


 雪乃が差し出したのは、先日滅茶苦茶にされたはずの、あの本だった。


「……どうしたの、これ?」


 晶はその本の裏表を確認し、中もぱらぱらとめくって、思わず驚きの声を上げた。それは、泥水を被る前と、表紙や角の擦り切れ具合や、紙の黄ばんだ感じも全く同じだった。古本屋などで同じタイトルの本を調達してきたのではありえない、時間が巻き戻ったかのようだった。


「うーん……直してもらった……?」


 何故か疑問形で言う雪乃。


「誰に? どうやって?」

「内緒にしてって言われたから……」


 雪乃自身もよくわかっていないらしく、困ったように首を傾げる。

 晶はしばらくその本を矯めつ眇めつしていたが、やがて狐につままれた気分で鞄にしまった。


「あの……この前のこと、本当にごめんなさい……。許してくれなくていい。わたしが弱いせいで、ひどいことをしたから。でも、わたしはあの時、和泉さんに声をかけてもらえて、嬉しかった。それだけは本当だから」


 もう一度「ごめんなさい」と言って、雪乃は背を向ける。

 晶は一瞬だけ迷って、彼女を呼び止めた。


「ねえ、お昼、一緒に食べない?」


 雪乃は驚いたように振り返って、泣きそうな顔をしながら頷いた。


                                   了

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