#4

「あの子はピアノやってたんだけど、先生から、一緒に発表会で演奏してみたらどうかって話が出て……」


 都合を合わせて、一緒に練習するようになったある日、彼女に突然言われた。「あたしを馬鹿にしているの」と。どういう意味だと問えば、こちらのピアノに合わせて、自分のレベルを落としているだろうと。晶の本来の演奏はそんなものではないはずなのに、こちらを見下していい気になっているのだろうと。同じ教室に通う他の子にも、天才と言われていい気になっている、と揶揄された。

 ふっと、自嘲気味に晶は笑う。

「この髪、地毛なんだけど、信じてくれる?」

 晶の髪は、明るい栗色だった。目も、よく見れば新緑のような色をしている。純粋な日本人ではないようだ。この見た目のせいで、悪印象を持たれることもあった、と晶は寂しそうに言う。

「ショックだったなあ。あたしはそんなつもりなかったけど。ソロしかやったことなかったから、誰かと一緒に演奏するの、楽しみにしてたんだけどね」

 そして、その企画は晶が降りて、なしになった。晶は音楽教室を辞めて、一人で弾くようになった。

「まさか、こんな所で会うとは思わなかったなあ」

 人はそれぞれ、表に見せなくても何かを抱えている。自分に余裕がないと、そんなことも忘れてしまう。

 駄目だなあ、と昴は溜息を吐いた。

「……バイオリン、止めようとは思わなかったの?」

 聞くと、

「ん-、それはなかったかなあ。もう、自分の一部みたいなもんだし。あたしは折れてなんかやらない。この本の主人公みたいに」

 自分に言い聞かせるように呟いて、手元の本に目を落とす。

 その本の主人公は、異世界に行ってチート能力で無双するわけでも、生まれつき特別な力があって世界を救うわけでもない。特に取り柄もない少年が、泥臭く、でも気高く生きようともがく物語だ。

 そんなことを言われると、恥ずかしくて死にそうになるが、彼女の言葉は、水面に波紋が広がるように、ゆっくりと昴の胸に染み込んでいく。

「カッコつけてないと、すぐ壊れちゃいそうだから」

 崩れ落ちそうな時、支えてくれたのがこの本だった。何があっても、腐らず、折れず、光に向かって手を伸ばす、この本の主人公のような生き方がしたかった、と晶は言うのだった。

「この髪のせいで、非行に走ってるとか言われるのも嫌だしね」

「……黒く染めようとは思わないんだ?」

「染めるの禁止なのに? 地毛が明るいのを黒くするのは何でいいわけ?」

 真っ直ぐな目で見つめられ、昴はややたじろぐ。

「そうだね、確かに」

 自己主張をあまりしない子かと思ったが、素はそうでもないらしい。

「……さて、うじうじするのは終わりにしようかな。やっぱり人前で弾くの、楽しいし」

 そっか、と昴は頷く。

「引き止めちゃってごめんね」

「こちらこそ、聞いてくれてありがと。じゃ、おやすみなさい」

 誰にも甘えずに、必死に自分を保っているのであろう彼女。でも、その生き方は辛くはないのだろうか。

 去っていく晶の背中が、気のせいか少し儚げに見えた。

 

 数日後、晶によるバイオリン独奏会は再開した。彼女の鳴らす音楽は、風に乗って空に昇っていく。その奥に何を抱えていたとしても、強く、鮮烈に。

「晶ちゃん、元気になったのかしら。ならいいんだけど」

 仁は、晶に渡す報酬のケーキをデコレーションしている。

「あー、それいつもより豪華じゃない? いいなー、あたしも食べたい」

「金払ったら作ってやる」

 甘えた声を出す那由多に、仁は素っ気なく返す。

 いつもの桜華堂の風景。新しいものが加わって、それが新しい「いつも」になっていく。

 テーブルを拭きながら、昴は新作のプロットを練っていた。少しでも思考に隙間があると考え事をしてしまうのは、染みついてしまった癖だった。


 昴にも、辛いときに寄り添ってくれた物語がたくさんある。それを糧に、自分も誰かの灯になるような物語が書きたいと思った。

 まだ書けるだろうか。誰かの、彼女の心に響くような物語を。


『――お前なんかに何ができる』

 

 不意に蘇るのは、過去からの呪いの言葉。昴は慌ててそれを振り払う。

誰に何を言われても、手放せないものがある。それだけが、今彼らの手の中にある真実だった。それを拠り所に、ここに立っている。

この先、就活やら卒論やらも待ち構えている。その時に、何を選択するかはまだわからないけれど、諦められないなら、踏ん張るしかない。

「いらっしゃいませ!」

 新しい客が入ってきて、思考は中断された。


                                    了

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