ほし柿

優木悠

一の一

 佐野清九郎さの せいくろうが飼い犬の綱をひいて屋敷の門から出ようとすると、ちょうど息子の真之介しんのすけが帰ってきたところであった。

「おや、今日もチビとおでかけですか、いつもご精がでますね」

 などと嫌味たらしく声をかけて、息子は玄関へと向かっていく。

 ――自分はどうなのだ、非番だからといって陽のあるうちから遊びほうけおって。

 清九郎はその後ろ姿を見送りつつ胸のうちで悪態をつくのだが、けっして声にはださなかった。息子の背中には、隠居したからといって侍が犬いっぴきをお供にしてみだりに出歩くな、とでも云いたげな親を小ばかにしたような態度があからさまにみてとれた。

 口をへの字に曲げて鼻に皺をよせてふんと息子の背中に向けて鼻息をひとつ飛ばし、チビと呼ぶにはいささか大きく育ちすぎた飼い犬にひっぱられるようにして、いわし雲が浮かぶ青い空の下を清九郎は歩き出した。

 真之介は、息子、といっても実の子ではなく、小普請方に嫁いだ妹の次男を、先年、養子にもらったのである。

 清九郎は、五十を三つばかりも過ぎたこの歳まで、妻帯しなかった。若いころは縁談が多少なりとも舞いこんではいたのだが、気が乗らずにことわっているうちに、いつしか声がかからなくなってしまった。

 それでもふつう、そうとうな変人でもなければ、親戚縁者がよってたかって結婚させてしまうものだが、清九郎はその、そうとうな変人であるらしい。もちろん彼自身に自覚などはないのだが。

 真之介の態度に不快になっていく気持ちをきりかえるように、つるりと月代をなでた。隠居してからというもの、これまで自分でも気づいていなかったなまかわな性分が顔を出してきたようで、そうそうに月代の手入れさえも怠けはじめ、しばらくはえるにまかせてほうっておいたのだが、うぶ毛のような細い毛がまばらにしか伸びてこず、ずいぶんみっともない有様であったので、面倒ではあったが、すぐにまた剃りはじめたものだった。

 清九郎は一年ほど前まで納戸衆として城に勤めていたのだが、真之介に家督をゆずって隠居してしまった。

 不躾なふるまいをした、二十も歳下の後輩と口論をしてしまったのがきっかけだった。

 ――近づくな、汚らわしい。

 しまいには頭に血がのぼるにまかせて、そう怒鳴ってしまった。

 汚らわしいは、いけなかった。と、今でも思いだすと恥じいる気持ちになる。いくら相手が無礼な態度をとったからといっても、人に向けて云っていい言葉ではなかった。そんな言葉をくちばしるような人間は、勤めをつづける資格はないだろう、と思いをかためるとすぐに役を辞して隠居届けも出した。

 清九郎はそういう気むずかしいところのある人間だったから出世とはまるで無縁であったが、真之介は違うようだ。いっしょうひらの納戸衆で終わるつもりはもうとうないようで、毎晩のように同僚や先輩と酒場にくりだすのも、よしみを通じて出世の糸口をつかみたいかららしい。

 あのそつのない性格なら、組頭にでも納戸頭にでもなれそうな気もする、と息子のふたえの大きな目の、鼻も口もほどよく整った色白の、ふっくらとした顔を思い浮かべた。

 ――まあ、隠居した俺には関わりあいのない話だ。

 ふと気がつけば、城下の南を流れる丸衣川にでていた。

 川の土手までくるとチビが急にかがんで小便をしはじめたのを、立ちどまってじっと待った。

 ほんの五、六間ほどの川幅の底の浅い川だったが、その流れはどこまでも清冽で、見ているだけで身体の芯にまでしみ込んでくるような、身震いさせるほどの冷たさが感じられた。

 出すものを出し終わったチビが、道端に鎌をもたげるカマキリをしきりに気にするのを無理にひっぱって、土手の道をまた歩き出した。

 こうして飼い犬と連れだって散歩するのにも、いつしかなれていた。隠居した最初のうちは、非番の日でもないのに、だいの大人が昼日なかにそぞろ歩くのにためらいを感じたものであった。同じように犬を連れたどこかの婆さんとすれ違うのさえ気恥ずかしく思えたりもしたが、今では平然と微笑みながら会釈すらできる。


 川に沿って三町ほど西へ歩いて、いつも向こう岸へわたる粗末な板橋が見えるところまで来た時だった。

 三間ほど先で女が、町人長屋が密集する区域から土手へ出てきて、ちらとこちらを振り向いたが、清九郎をみても別段気にもとめないそぶりで、そのまま道を横ぎって川原のほうへとおりていく。

 ――おや、またあの娘ではないか。

 これまでにも、この道でなんどか見かけた女であった。最初に見かけたのは二、三カ月ほど前のことであったろうか。

 だが、その顔を正面からみたのは今日がはじめてであった。

 鮮やかな黄八丈の、格子柄のあわせを着て黒っぽい帯を締めて、すみれかなにかの花を形どった銀の帯留めがきらりと目をひいた。いかにも当世ふうの町娘の格好をしているわりには、化粧けもなく、これといった特徴のない十人並みの顔立ちの、十七、八くらいの娘であった。

 娘は川岸にたって、なにか思案げに川面をながめるようにして、ただじっとたたずんでいた。これもいつものことであったが、今日にかぎっては見慣れたその背中に、清九郎の気持ちを引きつけるような、そこはかとなく悲しげな雰囲気をまとわせていた。

 どうしていつもここで景色をながめているのだろうか、このあたりの娘だろうか、というくらいの疑問は浮かぶのだが、清九郎には彼女に近づくきっかけが思いつかないし、話しかけるとっかかりのようなものもみつけられず、ただそのどこか寂寥せきりょうのただよう後ろ姿を見つめながら、今日も通り過ぎた。

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