朽葉糺の記憶 後



「梓?」


寝間着姿の小さな体がぴくりと揺れた。茜色の瞳が糺を見て、そらされる。

屋敷内とはいえ、夜中に出歩くのは良くないという自覚はあるらしい。


「こんな夜更けにどうした?」


廊下は冷やりとしていた。白い息が夜風に流れ、消える。

梓は口数が少ない。あまり人と接してこなかったせいか、反応を探っているのか、心を言葉にするために時間が必要だった。

それでも待っていれば、きちんと答えは返ってくる。答えないことはあっても、嘘はつかない。


本当のことを言っていい相手だと、信じてくれている。その信頼が嬉しい。


「・・・眠れない」


新しく朽葉に来た子どもは、生活に慣れるために相談役となる年上の同性と同室になる。梓の相談役から、いつも夜中に抜け出していることは聞いていた。


「そうか」


五歳になったばかりだと聞いたが、どんな生活を送れば、ここまで周囲を拒絶するようになるのだろう。


「それなら、少し手伝ってくれないか?」


部屋に招き入れると、梓の瞳は一点から離れなかった。灰古かいこが使用感を聞かせろ、と持ってきたランプだ。

硝子越しの光に照らされて、茜色の瞳が輝いた。


「ランプというんだ。灰古たちは覚えているか?彼らが作ったものだよ」


正確に言うならば再現か改良だが。そこまでは余計だろう。

柔らかな橙色の光に、強張っていた肩から力が抜ける。


「なにをすればいい?」

「そこに座って。ああ、これも持っていてくれ」


座るように促したところで、梓が薄い着物一枚しか着ていないことに気付いた。着物の手配は戀十こいとに任せたが、まだこんなことをしているのか、あれは。

羽織を脱いで梓をくるむ。綿入れほど暖かくはないかもしれないが、ないよりはいいだろう。


「暖かすぎて眠ってしまいそうだったんだ。今夜中に終わらせたい仕事があるから、俺が眠ってしまったら起こしてくれないか?」


小さな頭がこくりと揺れた。そのまましばらく書類に向き合い、ふと振り返る。

膝に頬をあてて、梓は眠っていた。静かな寝息に自然と笑みが浮かぶ。


「おやすみ」






柱の陰から、じっと茜色が糺を見ていた。

戦いの場では気配を消すのが上手いのに、こういう時は分かりやすい。


「糺様?」

「ん、ああ、すまない。問題ないから、それで進めてくれ、八重」

「わかったわ。ふふ、子猫みたいね、あの子。残りの仕事は私が片付けるから、貴方は休憩してきたら?」


非戦闘員の八重にも気づかれているほどだ。糺はふっと口元を緩めて頷いた。

梓が朽葉に来てから数ヶ月。彼女は分かりやすく、糺以外には懐かなかった。元々の無口さに加え、ひと月も経たないうちに圧倒的な才覚を見せつけた・・・早い話が、鍛錬で徹底的に同世代を打倒した梓に、近づく子どもはいなかった。

梓も親しくする気はないのだろう。糺がいない所では、他のものとは最低限の会話もないと聞く。


・・・一人くらいは、友人をつくってほしいが


急いでどうにかなるものでもない。時間は必要だろう。


「梓」


名前を呼ぶと、足早に駆け寄ってくる。だが他の子ども達とは違って飛びついてくることはない。

頭を撫でると、猫のように目が細められた。


「梓、おいで」


握った手は小さく、堅い。殺す者の手、生きる者の手。

ただの子どもの手に戻すことは、糺には出来ない。それでも。力が無ければ生きていけない、自分達でも。


「今の時期、葉が色づいてとても綺麗なんだ」


穏やかな時間を過ごすことくらい、許されるべきだ。



はらりはらりと紅が散る


ひらりひらりと黄が踊る



「同じだね」


舞い散る葉を見つめて、梓が言った。


「銀杏はうちの色なんだ」


全てを奪われ、踏みつけられ、朽ちた家、朽ちた葉よと侮蔑された時、当時の当主は笑い飛ばしたらしい。


『進歩を知らない連中がよく言ったものだ。あれと同じになるくらいなら、朽葉で結構。能無しと違って、こちらは朽ちても芽吹けるのだから』


そして侮蔑をそのまま、新たな家名にしてしまった。

祖父はこの名を疎んでいるが、糺は嫌いではない。名も、経緯も、その想いも。


朽ちたとしても、何度だって芽吹くことが出来る。

今は枯れてしまっても、きっと、いつか。


糺にとってのこの景色や、梓のように。梓にも心惹かれるものが出来たなら。

生きたいというこの子の願いは、いつか本物になるはずだ。







うだるように暑い、夏の日だった。


「梓、髪紐はどうしたんだ?」

「稽古の時に切れた」


すっかり長くなった黒髪を掴み、梓が鬱陶しそうに顔を顰めた。

十四歳になって背は随分伸び、必要性さえあれば他者とも会話を―――最大三言みことまでとはいえ、出来るようになった。だが身だしなみについては、まだまだ気を配る必要がありそうだ。


・・・まあ、水浴びのあとに裸で歩き回らなくなっただけでも良かったか


『無頓着というより、他人の感情に興味がないのよ。貴方が言うから従ってるだけで、何も言わなかったら髪も梳かさないわよ、あの子』


幼馴染の八重は呆れながらも、最低限の自衛手段は叩き込んでくれた。

姉の一件以降、思い出したかのように人を寄こせと言ってくる下衆は何人かいた。処理はしたが、今度は祖父や分家の老人共が宮廷に近づこうと、ひっそり動き始めたらしい。


無知な子どもが怪我をして学び、成長できるほど、この世界は優しくない。

何が起きても生きて行けるように、必要なことは出来るだけ伝えておきたい。幸い、梓は必要ないと思っていても学ぶことは出来る。


「おいで。そのままでは暑いだろう」


向かったのは屋敷の奥。誰も近づきたがらない、掃除の時も入らない部屋。

だが襖の向こうは埃ひとつなく、色と花が溢れていた。


蘇芳、桃、紫、山吹、浅葱、萌黄の布に、牡丹が、百合が、薔薇が、桜が、咲き誇る。

この家では異質でしかない派手な着物。繊細な花模様が彫刻された箪笥、小物入れ。全てが埃ひとつなく、丁寧に磨かれている。


「・・・まだ続けているのか」


ここは姉の部屋だった。子ども達の食事を削って、母が姉に与えた贈り物。

母の死後は罪悪感か投資か、祖父が姉の生活を維持していた。予算が無いと伝えても、ついぞ姉は理解出来なかったが。

形見の分は残して生活のために売り払うつもりだったが、やつが武器まで持ち出して抵抗し、出来なかった。その後は彼が、この部屋を一人で維持している。五年間、ずっと。


「すまない、やっぱり違う部屋に行こう」


停滞の象徴のようなこの部屋は、これから生きて行く子どもに相応しくない。


『糺、一緒に遊びましょう』


ああ、そうだ。あれがあったな。

遠回りになってしまったが、屋敷の反対の自室へ向かう。


「好きなものを選んでいいよ」


一時期姉に付き合って、組紐をよく作っていた。糺が作ったものは姉が欲しがったので全て渡したが、他の子ども達と遊ぶ時にも作ったものはいくらか残っている。


「昔、付き合いで作ったんだが、私には使い道がないから」


母に掴まれるのが煩わしく、後ろ髪はいつも短くしていた。父は残念そうだったが、無理やり伸ばさせるような人ではない。だから糺が髪紐を使うことは無く、そのまま押し入れの肥やしになっていた。

梓はあまり興味を惹かれる様子は無かったが、幸いひとつは気に入ったものがあったようだ。秋を思わせる、赤と黄の組紐。


「ああ、目の色と同じだな。きっと似合うよ」


梓には執着心が欠けていた。だから食べ物にも衣服にも好みがない。

なんでもいい、どうでもいい、興味がない。自身の命にすら。だから。


「うん。この色、好き」


だから、やっとひとつ。


「そうか」


ひとつ、この子を命に繋ぐものが出来た。


「よかった」




「糺、これ美味しい」

「糺、それはやだ」

「糺、私にできること、ある?」

「糺」

「糺」

「糺」



「糺。来年も、一緒にいきたい」



――――ああ


「糺」


すまない、梓



「糺は、もう戦えない」



脇腹が燃えるように熱い。長らく経験していなかった痛み。

視線を上げた先、陰になった梓の表情は見えない。人の気配は多いが、場は衣擦れの音すらなく静まり返っていた。


「な、何をしているのだ貴様!!!」


怒声が飛ぶ。


『勅命だ!やっと我が一族が報われるときが来たのだ、これで!』


誰も生きては戻れない、死刑宣告のような命令を命綱と信じて、さきほどまで愚かにも喜びに満ちていた、祖父の声。


「話を聞いていなかったのか!勅命が下ったのだ!それが」

「うるさい」


夕空を映した瞳が爛々と、金に光る。十五になったばかりの娘の一瞥で、老人が声を失った。


「私は朽葉じゃない、あんたに従う理由なんてない」


梓の持つ黒紅の刃から、赤が零れる。糺の赤。糺の血。


「黙れ!師に刃を向ける不忠者など、当てにしておらんわ!」


『朽葉の、私の最高傑作であるお前と、お前に匹敵するその娘がいれば制圧するなど容易いことだ!』

舌の根も乾かぬ内に、自身の言葉を忘れてしまったらしい。喚きたてる祖父に興味を失った梓は、周囲にぐるりと視線を向ける。茜に戻った瞳には侮蔑が浮かんでいる。


「私が消えて、糺はもう碌に戦えない」


利き手を折った。腹も斬った。死にはしないが、しばらくまともに戦えない。

淡々と、梓は告げる。一度も糺を見ないまま。


「それでもやるなら、やってみればいい」


怒りが吹きあがる。糺を傷つけた裏切り者を、一族は決して許さない。だが誰もそれを、あの子にぶつけることは出来ない。あの子が、糺に勝ったから。


またひとしずく、ぽたりと、赤が落ちた。


『これは作戦でもなんでもない。ただの無謀です』



『支援もなしに戦い続けられません。それにもし、いえ、万が一制圧出来たとしても“出来る”とわかれば同様の無謀を、潰れるまで押し付けられるだけです』


すまない、梓


『潰れなければいいではないか』


俺が情に負けて、あの狂気を見過ごしていたばかりに。


『勝ち続ければいい。そうすれば朽葉はかつての名誉を取り戻す!』


お前まで、巻き込まれてしまった。


『そのような夢物語のために、一族の命を危険に晒せというのですか』

『勅命は絶対だ。理由もなく破れば、叛意ありとみなされる』


従えば死ぬ。断れば死ぬ。もう、どうしようもなかった。


『梓、お前は行きなさい』


だが梓は違う。あの子は朽葉ではない。神使四家しんしよんけの連中からは遠ざけていたから、逃げてしまえばわざわざ追う者もいない。


だから、あの子は生きられる。

必要なことは教えた。何があっても生きられるように鍛え上げた。


『ここを出て、お前は生きるんだ』


けれど。


『あざな』


茜色の瞳が揺れた。揺れて、揺れて、光が消えた。



間違えた、と思った。

何を間違えたかはわからない。それでも、いま糺の言葉で


――――梓を泣かせてしまった


涙は無かった。泣けない子だった。それでも。


『いやだ』


梓は泣いていた。


「糺なしで出来るというなら、やってみろ」


ぽたりと、最後の赤が落ちた。

約束の日。あの子の十五歳の誕生日。なにより大切な子を、糺は傷つけた。





再会したのは偶然だった。梓が朽葉を出て一年以上、連絡を取ったことはない。梓が望まない限り、もう糺からあの子に近づくことは出来ない。

部屋はそのままにしてある。我ながら呆れたことに、愚かだと思っていた戀十と同じ真似をしてしまった。


それでもいつも、梓ことは心に留めていた。第三皇子が唯一傍においた護衛の少女、皇子と同じ乱暴で凶悪な存在、狂皇子の凶刀。只人の平民など、とあげつらわれながら、凶悪とまでいわれる強さを讃えられる娘は、天地広しといえどそうはいない。梓だろう、とは思っていたが確認はしなかった。


あの子に望まれなかった時に、どうすればいいか。まだ答えを出せなかった。


ただ、元気でいてくれればよかった。

友人に頼まれたとはいえ、兵部の補助を引き受けたのは遠目でも、無事な姿を確認したかったからだ。まあ、色々と大雑把なあの子に護衛が務まるのか、という心配もあったが。


そして梓と、第三皇子の姿を見つけた。


皇子は思ったよりも幼く、物珍し気に当たりを見回す姿は、一族の子供達を思い起こさせた。

顔は髪でよく見えなかったが、梓と話す姿には互いを厭うている様子はない。


よかった


あの子が留まるところを見つけられて、安堵した。他人を寄せ付けなかったあの子が、自ら進んで他の誰かを気にかけている。あの少年が、あの子の命をここに繋ぎとめてくれている。糺がいなくとも、大丈夫なのだ。

だからもう関わることもなく、一方的な再会で終わると思っていた。



―――あざな


あの子に名前を呼ばれるまでは。





「――――梓」


名前を呼んでしまって、視線を落とす。

言いたいことも言わなくてはならないことも沢山あった。何度も再会の時を想像して、あの子にかける言葉を考えた。

しかし数多の想像のなに一つ、現実に出来なかった。不甲斐なさに自嘲し、それでも向き合うことは諦めたくなかった。


だから顔を上げて――――怒りに口の端を噛んだ。


茜色の瞳は見開かれ、消え入りそうな声で彼の名を呼んでいた。

言葉はなかった。それで十分だった。それほどの時間を、糺は梓と過ごしてきたから。


まただ。またこの子は諦めようとしている。

初めて会った時と同じ、願いを口にしながらも叶うはずがないと諦めた子ども。


一年で少し笑えるようになった。


三年で自分の気持ちを伝えられるようになった。


五年で初めて我儘を言われた時は、祝いに秘蔵の酒を空けてしまった。


九年かけて、やっと未来をみるようになったのに。

食べたいものすら言葉に出来なかった子が未来の約束を口にした時、もうこれ以上嬉しいことはないと思っていた。


それが糺の甘さと愚かさで、また失われてしまった。



「あざな」


喜びと不安が入り混じった瞳。こちらに伸ばしかけた腕を反対の手が押さえたのは、無意識だろう。

再会を喜んでくれている。でもそれを表現できない。また失うから、そうに決まっているから。


ああ、それなら――――また十年かけても、取り戻すまでだ



糺にとって梓は唯一なのだ。

強くなりたいなら糺の全てを教えるし、ただ平穏に暮らしたいなら全てをかけて守る。

誤解で、過ちで、道を違えてしまっても糺の願いは変わらない。


ただ幸せでいて欲しい。

お腹いっぱいにご飯を食べて、好きなものに心躍らせて、明日がくると当たり前に信じて眠る。


そんな当たり前で、得難い幸せを、それを望むことを、梓自身に許して欲しい。

君は、君たちはそう願われるに値する存在で、幸せになっていいのだと、何度だって伝えよう。


今はわからなくていい。

それでもいつか、その日が来ると願っている。


「お前が生きられるなら」


あの子達は幸せになれると、信じているから。



「俺に出来ないことはないよ」




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