あなたが癌になってよかった

「お母さん。この空間放射線量測定の様子、何処がおかしいか解る?」

 笑って姫子は写真週刊誌に載った「町中の空き地に置かれた機械」のグラビアを私に見せながら問いかけてきた。「正解は『放射線測定機を地面にじかに置いている』よ。空間の放射線を測定してるのに、地面から一メートルは離さないと地中から自然湧出する放射線まで拾ってしまうわ。これじゃ測定値が高めに出てしまうのも当たり前なのよ」

 一〇年前の大地震。故郷の原子力発電所は津波で多大なダメージを受けた。

 私達は放射能汚染を懸念して、町ごとごっそりと県外避難した。以来、故郷には戻っていない。

 娘はこの震災が大きなきっかけとなって物理学の道に進み、学者になった。

 いわゆる『御用学者』と呼ばれる学者に。

「まあ、市井の人間達に色色な意見があっても自由だと思うけど、非科学的なのは駄目ね。……マスコミや政治家、運動家が原発事故問題に対して真に誠実か否かを識別出来る、簡単な『リトマス試験紙』って知ってる? それは原発から海洋放出される、放射性物質トリチウムを含んだ水を極限まで希釈した『処理水』をどう呼称するかよ。公式には『処理水』。科学的にもそれ以外に名前はないわ。それを『汚染水』とか『汚染処理水』と呼んだりするのは根本的間違いに気づいてないか、気づいてても悪意を持って敢えてそう呼んでいる人達で、とてもじゃなけど不誠実すぎて信用が置けないわ」

 姫子は炬燵で青魚の刺身に醤油をつけて食べた。美味しさで幸せな顔になる。

「トリチウムから発生するぺータ線はエネルギー低いし、たとえそれによる内部被爆でDNAを損傷しても人体のDNA修復能力はそれ以上よ。大体、比率で言えば東京ドーム一杯の水にインスタント焼きそばのソース一つ分のトリチウムをたらした程度の濃度で心配しなきゃならないなんて、それなんてホメオパシー? それでも十分濃いって心配性な人は言うかもしれないけど……まあ日本人は放射能アレルギーがあって通常運転なのかもしれないけど、それにしたって科学的じゃないわよね。人為的に薄める、希釈するのをズルするのと同じ意味に捉えてる人もいるけど、生物ってのは自然界で色色と希釈されているから無事に生きてられるのよ。地面の元素から自然発生する放射線、宇宙から降り注ぎ続ける宇宙線、過去における各国の核実験による残留放射性物質、各国の原発が今も海に廃棄し続けてる放射性物質を含んだ排水……そっちの方がずっと影響大きいわよ。ここで薄まったトリチウムが加わっても劇的な何かは起こらないわ」

 炬燵で冬の名残りを楽しむ娘は、常日頃からの主張を今日も私に聞かせて満足した。

 この主張の本を何冊も執筆し、巷で『鬼姫』と呼ばれる女性学者は自宅で夕飯を食らう。

「……姫子」と私はまだ独身でいる娘に問いかける

「何。母さん」

「あんたの仕事に口ははさみたくないけど、そういう口の利き方を外ではしないでおくれ。皆があんたの事を『御用学者』と呼んでいい顔をしてないんだから」

「いい顔してないのはご近所じゃないでしょ。立派に生きていける私達を『可哀相な子』にしたがる、非科学的で不誠実なマスコミ、政治家、運動家、野次馬でしょ。……主張が、政府にとって都合のよい意見とベクトルがあった文化人を御用学者って呼ぶのもはや伝統の域よねぇ。今の世の中、科学的に正しい事を言っててもそれが政府の方針と一致していると御用学者と呼ばれてデマゴーグ扱いされるんだから。まあ、正しい私を御用学者と呼ぶ事でその称号が如何に胡散臭いものなのかつまびらかになってるも同然なんだけど。私にとっては」

「いったい幾らもらってるんだ、とか言われないかい」

「言わせときゃいいのよ。それは『こんにちは。私はあなたの事を知りませんが、あなたの懐具合には興味があります』という陰謀論者の自己紹介なんだから」

「私達は放射能で癌になったりしないのかい」

「癌? もう十年経ってるのよ。チョルノービリ原発事故みたいなケースならともかく、今回はそれと何もかも違うから。杞憂ね」

「広島や長崎みたいなのとは違うのかい」

「広島や長崎は大人数で長期に渡った被爆者の観察記録があるから信頼性高いけど、被爆者の癌発生率は自然発生と比べて微妙な所ね。長期的にはないと言い切っていいかもしれない」

「私達は故郷に戻れるのかい」

「立ち入り禁止令が解除されればすぐにだって戻って生活出来るわ。もっと科学が『お気持ち』なんかよりも尊重されればね」

「そんなものかねぇ」

「私達の町は除染もしたし放射能的にはもう大丈夫。それは間違いないわ。でも放射能被害を過剰に見積もって私達を『故郷に帰りたくても帰れない可哀相な人』扱いして、反権威の錦の御旗としたがる奴らがいるのよ。私達の気持ちを誰よりもおもんばかってるふりをしてね」姫子は醤油で濡らした刺身と一緒に熱いご飯を口に入れた。「今、私達の故郷にとって恐ろしいのは放射能による実質被害よりも、そういう嘘によって世の中に悪評がはびこる風評被害なのよ。嘘が私達の人生や故郷をおびやかす。人間の科学はそういうものと真正面から戦わなくてはならないわ」箸を止めた。「最近、お米変えた? 安い米使ってない?」

「ええ、ちょっとね。……放射能が遺伝したりしないのかい」

「放射能が遺伝? どういう仕組みで? 馬鹿な子供の差別じゃないんだから。ありえないわ」

 姫子は、熱い味噌汁を飲む。


★★★


 姫子が末期癌になって死んだ。

 娘が癌になってくれて本当によかった。

 これで教祖様が言っていたのが本当だという事になる。

 姫子は最後まで癌になったのは放射能は関係ないと言っていたけれど、教祖様は一〇年前の放射能のせいで癌になったと言っていた。きっとそうなのだ。この世の中に偶然はない。全ては神の摂理なのだ。

 神様を悪しざまに罵る者は癌になる。

 姫子は教団直属の病院に入院させた。

 病院のベッドで姫子はさんざん教祖様をなじった。精神安定剤を注射してもしばらく暴れた。

 教祖様は放射能は遺伝すると言っていた。放射能は魂にも傷をつけるのだ。

 姫子が結婚して子供を産んでいたら、きっとその子も放射能が遺伝して癌になっていただろう。

 もし癌の子供を持ちたくなければ、教祖様に浄財を献金して、大祈祷をしてもらうしかない。

 教祖様はこれは試練だと言った。

 地震も、津波も、放射能も、癌も今までの間違っていた汚れた信仰から正しき信仰へ移り変わる為の試練なのだ。

 姫子。あなたの言う話はさっぱり解らなかったけれど、教祖様の説く話はよく解るの。

 因が原の叔母さまに教団を紹介してもらえて本当によかった。

 姫子。あなたが絶対に治らない癌になってよかった。

 姫子は末期癌という試練を越えて、魂が浄くなれたの。

 母さんが悪いようにはしないから。

 娘はか細く死んだ。

 焼けて、骨だけになった。

 後は納骨だけ。

 教祖様が聖別した墓に納められる。

 私はあなたへの祈祷の為に浄財を納め続けるわ。

 いずれ私も一緒の墓に入る。

 地獄へ落ちたあなたの鎮魂に、死んでも祈り続ける。

 私とあなたの神様に。

 ずっとずっと……。

 ずっと……。

 ……。

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