ヤツが来る
「え、そうですね。解りました。ええ、憶えました。では三〇分後でお願いします。はい、切らせていただきます。すみませんでした」
俺は自室で一人でペコペコしながらスマホの通話ボタンを押し、電話を終了した。
メモ用紙に書いた汚い字の走り書きをタブレットのメモ機能に入力して清書し、今日の要件を無事終えた事をあの世の何処かの誰かに感謝する。
俺は電話やボイスチャットが苦手だ。
遠隔対話で電話やボイスチャットみたいなリアルタイムの応対を求められるものはすこぶる苦手だ。
伝えるべき案件を事前に書きだしてそれを確認だけで終わるような用事も、細かい部分では即座のアドリブが求められる事になる。
俺はそういう軽さがない人間なんだ。
決して俺は暗い人間ではない。
でも思考のフットワークはさほど軽くない。
そのせいなのかは知らないが時時『ヤツ』に襲われる。
ヤツは怖い。
俺が時時ヤツに襲われる事があると知り合いに打ち明けても「またまたぁ。先輩がそんなものに襲われるわけないでしょ。先輩、充分以上に明るいんだからぁ」と一笑に付される。
それは甘い。
ヤツは普段の性格が明るい暗いに関係なく襲いかかってくる恐ろしいもんなんだから。
ただ俺は慢性ではない。そこが救いだ。
こんなのが慢性になっているという人間の精神状態は考えたくない。それはもう恐ろしい地獄なんだろう。
まあ、俺がこんな風にいろいろ考えられるのも今はそれに襲われてはいないからだ。
ヤツに襲われれば思考は一つの希望しか追い求めなくなる。
それは『死』だ。
俺はタブレットのメモを見直す。
……あれ、要件の担当者の名前『ハセガワ』でよかったっけ。
メモに走り書きはしといたけれど『ハヤセ』という名前が正解だったような……。
落ちつけ、俺。だからちゃんとメモに残しておいたろ。
いやメモの字は汚い。それにその段階で間違えてメモってないか、俺。
参照の電話番号も間違えて書きつけてないか。
電話番号は複数書いてあるけど、どれがどの会社の電話番号か、清書の段階で間違えて整理してないか。
いや馬鹿な。
……だよな。
自信がない。どうしよう。
今から確認の電話を入れるか。
いや、それをするのはかっこ悪い。というかそれだけの為に電話するのは失礼だろう。
いやいや、失礼でも自信がなければ確認はするべきなのでは。
俺の脳裡に確認の電話を受けた相手の姿が思い浮かんだ。
「さっき憶えたって言ったろ。失礼な奴だな。チッ!」
そんな言葉は決して電話口では言わないだろうが、電話には聞こえない舌打ちがやたらリアルに想像される。
たとえ直接でなくても人に怒られるのは嫌だ。悪印象。それは俺の性格ではとてつもない恐怖になる。
相手から件の電話がかかってこないか待つしかない。
間違えてこちらから電話をかけなきゃいけない場合は延延と待つだけになるだけだろうけど。
落ち着け、俺。
重い溜息を吐く。
三〇分後にどうするんだっけ。俺が電話を入れるのか。向こうからかかってくるのか。
いや、さっきの三〇分後ではなく、明日の、先の時刻から三〇分後以降にかかってくるはずの電話を待つんだったっけ。
解らない。自分に自信がない。間違ってるかも。何が解らないかも解らない。そもそも自分に自信がない……。
思考の負の連鎖。
俺は自分の全てから自信が抜けてくのが解る。
元元、気乗りしない用件だったんだよな……。。
ヤバい。このままではヤツに襲われるかもしれない。
ヤツは襲ってくるには時も場所も選ばず、どんなに明るい太陽の下だろうとふいに襲ってくるけど、こういうヘビーな気分の時は凄くヤバい。
ヤバい。ヤバい。このままではヤツがやってくる。
来る。
もうすぐヤツが来るのが解る。
来るな。来るな。
だがそれは何処かともなく現れた。
全身が重い。だるい。下を向きたくなる。下に引っ張られる。
悪霊に憑かれた気分だ。
だがこんなのはまだ序の口だ。
ヤツが来た。
俺は全身を襲う重力を感じながらヤツが全身を支配したのを知った。
ヤツ……『鬱』が。
顔の筋肉を動かさずにうろの様な無声の悲鳴。
気力がげっそりなくなった。
見ている光景から艶が失われる。
気分が落ち込んだくらいで「鬱になったー」とか言う奴がいるが、本当の鬱はそんなもんとは違う。
落ち込みの更に先がある。
本当の鬱は腹の底にずっしり溜まる黒黒とした質量がある。
肌に触れる空気が、服の感触が気落ち悪い。
重い。力が入らない。呼吸をするのすらわずらわしさが強調される。
溜息もわずらわしい。
鬱を消したい、と願う心も湧き上がらない。
生き地獄だ。この地獄から抜け出られるなら死んだ方がマシ。洒落じゃなくて本気でそう思える。
死にたい。
いつの間にか真剣に自殺の方法を考えている。
自殺を実行しようとした事は何度もあった。
死んで楽になる方法をスローモーな思考で考える。
今、何よりも自殺が最優先になっている。
……え。嘘をつくな、現にお前は死んでない、生きてその体験を語ってるじゃないかって。
そう。そここそが鬱が真に恐ろしい地獄である点なのだ。
仕事。家族。友達。趣味。
俺の下らない衝動を抑えてくれるはずの心の拠り所は自殺欲求には勝てない。
この鬱のつらさに囚われているのなら死んだ方がマシ。
真剣に自殺を考える。
包丁。ロープ。踏切。近所の高いビル。
即物的な手段を考え、実行しようとする。
しかし。
自殺を実行する気力が湧かない。
思考では真剣に自殺を考え、あとは実行するだけというところまで自分を持っていってる。
だが行動が出来ない。
ひどく重い気分は自殺願望の一線を踏み越えながら実行する気力が湧かない。
巷では鬱病で自殺をした人間の事が話題になったりするが、それは自殺する気力がある軽い鬱だ。
本当に重い鬱は自殺する気満満なのに実行する気力が出ない。
どうしようもなく重く、心苦しい、息を止めたまま水中に沈んでる気分。
希望するのは死なのに、そういう気分のままにただひたすら重い嵐がすぎ去るのをじっと待つしか出来ない。
本当に生き地獄だ。
苦。
死。
死。
死。
死。
死。
死を請い願う。
思考は死でいっぱいになる。
どうしようもない無気力な時間が過ぎていく。
ひどく息苦しい。
息を繰り返すのも重い。
表情を動かすのすらつらくて出来ない。
ちくしょう。処方された抗鬱剤は飲んでいるのに。
…………。
…………。
…………。
何十分経ったろう。
気分が上がってきた。
つらい落ち込みから気持ちが段段、上昇してきた。嵐がすぎさっていく。
鬱が、行った。
俺は身体を動かし、心の底から溜息を吐いて自分の無事を確かめる。
危なかった。本当に気力があれば間違いなく自殺してた。
いまだに暗い気分を引きずりながらそれでも一番ヤバいところはやりすごした。
思考が復活する。電話の事を考えるのは後にしよう。何故電話如きでくよくよ自殺を考えるんだ、と考えてもそれが鬱なんだから仕方がない。
今日は何十分かで去ってくれたが、ひどい時には何時間も何十時間も自殺を志願しながら実行出来ない最悪の気分ですごす事になる。
そしていつかまた鬱になるか解らない。
次がありえるというのが本当につらい。
自分が世界で一番低い位置にいるのを自覚しながら、何も出来ない無力さをたっぷりゆっくりと味わう地獄だ。
地獄。
勿論、俺は本当に死んで行くとされる死後の世界の地獄を知ってるわけじゃない。だから今の生き地獄と死後の地獄のどちらが最悪なのか解らない。
でもこれは言える。
俺にとって最悪の地獄とは、死んだ後も自殺を考え続ける精神状態に置かれる、上がりようのない鬱状態に永遠に囚われる事なんだ。
それを考えると死ぬのが怖い。
そんな地獄に落ちるのは嫌だ。
けど、いつかまた死を考え続ける時が来るだろう。
ぐるぐるとした死という文字だけが思考を埋める時が。
いつかまたヤツが来る。
それはいつか。
すぐにかもしれない。
お願いだからもう来ないでくれ。
スマホが、鳴った。
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