共感性の極値

はたねこ

第1話

 5月24日。朝七時半。

 通勤、通学に利用する人たちでごった返すこの時間帯の電車は誰にとっても心地良いものだとは言えないだろう。寝不足であろう中年の疲れきった顔に鼻腔を突き刺すおばさん特有のキツい香水の匂い。誰も幸せにならない、苦痛を皆で味わうこの空間から一日が始まる日本人はそりゃあ世界中から同情されるわけだ。

 

俺、戸波湊人も高校への通学の為にその朝の混沌へ身を埋める一人。本来ならもっと早くに家を出て満員電車を避けるのだが、今日は何故だか目覚まし時計が機能していなかった。電池の寿命なのか本体の寿命なのか焦りで確認している時間はなかったがこんなことならスマホのアラームとダブルスタンバイさせておくべきだった。むしろ、最近の若者はスマホのアラーム機能を利用する方がベターであろう。毎日触るもので寝る前には必ず充電するから今日みたいなことも起こりにくい。習慣と性能がマッチした実にいい機能だと思う。現代人の時計離れが加速するのも頷ける。時計業界は上がったりだ。

 

 満員電車に乗り込んだタイミングで座れる席を確保できたのは俺にとって不幸中の幸いだった。周囲の人間が本やらスマホやらに目を向けている隙間を縫って椅子取りゲームさながらのスピードを見せつける。卑しい姿を晒すこととなったが群衆ひしめく鉄の塊の中ではどうでもいいこと。


 何故なら俺は今、とても頭が痛い。学校に到着するまでの一時間、立ち続けることは不可能だ。喩え満員でなかったとしてもここで老人に席を譲るなんて真似はしない。陰湿な寝たふりを決め込む。逆に元気そうな老人がいたら席を変わるように懇願していたかもしれない。それほどに精神状況が危ういのだ。


 なら、今すぐ電車降りて家へ引き返せばいいじゃないか、と思う気持ちもあるにはある。だが、この頭痛は俺にとって生まれつきの持病のようなものでありしょっちゅう起こり得るものなのだ。ここで逃げたところでまたやってくる。最初のアクションとして向き合う姿勢でいかなければ逃げ癖がついて満足な生活ができないのだ。そしてこの場合、一時間の我慢耐久を行えば解消される。乗り越えることができる壁ならば向かって行かなければならない。


 つまりこの一時間の過ごし方は俺にとって自己を保つ戦いでもある。伊達にこの頭痛と共に人生を歩んできてはいない。抑制法の一つくらい持ち合わせている。


 まずは気を紛らわすことだ。車酔いしたときに遠くを見る療法宜しく、頭痛には心を無にする、あるいは別のことを考えて頭痛を忘れることが最も簡単で効果がある。古の民間療法は今尚健在です。


 だから俺は今朝の目覚まし時計の真相、時計業界の今後を憂うことで気を紛らわしていた。しかし、そんな即席の同情に熱を入れるのは難しくすぐに頭痛へと意識が戻されてしまった。別の集中のネタを模索する。


 それにしても頭が痛い。チクチクとした痛みとズキズキとした痛みが交互に頭を襲ってくる。寝過ごして満員電車に揺られるのは初めてじゃないからわかる。この痛みは異常だ。


 俺は意識を集中させる為に瞑っていた目をうっすらと開けてみる。決して寝たふりをしていたわけではない。


 目の前にはスーツの男性が片手につり革、片手に本を持ち器用に読書している。俺の顔色なんてまるで見ていない。本読んで気を紛らわす方法もありかもしれないと思ったが没入できる面白い本でない場合、その場で吐く可能性がある。勉強嫌いには文字の耐性がない。


 この場でもし仮に電車の事故で閉じ込められたとき、救助隊が現れ『体調が悪い順に助けて行きます』なんて言ったら俺の主張を何人の人間が信じてくれるのだろう。ここにいる人は誰も俺に興味を持っていない。こんなに顔色が悪いのに、こんなに頭を押さえる仕草を繰り返しているのに。いざその時となったら目の前の社会人も右隣のおばさんも左隣の中年も誰も、確かに体調悪そうだったなんて言ってくれないだろう。今から来るかもしれないそのときのためにここで僕は体調が悪いですと主張しておこうかな。


 そんなことを考えていると頭痛が更に強くなっていった。チクチクとガンガンが思考を覆い尽くしていく。目線を変え、周りを見渡す。すると人と人の隙間から反対側のドア付近に俺と同じ高校の女子制服が見えた。何やら外側を向き肩をすくめ異様な様子だったので顔を確認するついでにその一角を注視していた。電車の揺れのタイミングで隙間が大きくなる。それを俺は見逃さなかった。特に下半身、太腿付近まで肌が見えていることに違和感がある。おそらく、スカートが捲り上がっている。自分で意図的にスカートを短くしていることも考えられるが、様子からしてその可能性は低い。


 そうか、これか。

 俺は立ち上がると人を掻き分け近くへと移動する。まだ駅に到着していないのにも関わらず不必要に動く俺に乗客が苛立っているのがわかる。


「すみません」


 腰をを低くして移動していたが手に持っていた鞄が誰かの膝に当たったらしく反感を買ったサラリーマンから肘で背中を押される。その拍子に肩に触れてしまった女性から嫌悪感を示す舌打ちが送られる。


 やらなければよかったとは少ししか思わない。今にも涙が溢れそうだが後悔は少ししかない。何故ならこれは正義の為にやっているわけではないから。勿論、痴漢を受ける女子の為でも痴漢をしているおじさんの為でもない。これは自分の為なのだ。自分のことは自分で守る。俺のことは他人では守れないのだ。だからなんとしてもこの痴漢を止める。


 それに大概いい行いをするとその後、恋愛的な面でとてもいいことがあると知っている。アニメとか漫画とかで見たことある。現実では一切聞いたことも見たこともないが二次元は嘘つかない。


 意を決してスカートを捲り上げているであろうおじさんの肩に手を置く。


「あ、あにょ、や、やめたほうがいいですよっ」


 上滑りかつ震えた小さな声に自分でも情けなくなった。ここまですんなりと来たことで度胸があると勘違いしていた。俺は小心者だ。


 吹き出した脂汗と泳いだ目におじさんは少し安堵したのかもしれない。俺がもう少し大きな声で注意できていれば周りを巻き込めたが俺の声は車内の空調に飛ばされていった。


 明らかに罰の悪そうな顔をしたおじさんは女子高生から手を離し俺に背を向けた。俺がこれ以上注意する勇気がないのを知ってか開き直って無視する方針に切り替えたようだ。俺も一息つく。俺一人ににできることはおじさんを咎めることではなく女子生徒を守ることしかない。監視の目があるだけでも十分抑制にはなるはずだ。


 ちょうどよく車内アナウンスが流れ駅の到着が告げられる。俺には勿論、おじさんを掴んだまま駅員に差し出すなんて度胸はなく、むしろ肩に置いただけども手を振り払われおじさんの左腕が俺の眼前に向けられた。


 うわー、おじさんいい時計してるじゃん。シルバーで針が大きくて高級そうな。これ有名なブランドのやつじゃない。お金持ちー。なるほどな。時計業界は性能ではなくブランド価値を高める方向で成長を続けているんだな。アクセサリーとしての金銭的価値がそのままその人の価値を表すんだ。俺もいつかこんな時計つけてみたーい。


 なんて現実逃避をしているとシルバーの腕時計が左目へ直撃した。


「ぐへっ」


 その勢いのままおじさんは開いたドアを走って出て行く。


 これでいい。目的は果たした。少なくとも間違ったことはしていない。色んな人から反感を買ったが一人の女の子を守り感謝されればそれは成功と言えよう。


 俺はほら感謝しろと女子生徒の顔色を窺った。すっかり頬を赤らめているんじゃないか?


「ちっ」


 え、なんでぇ? 舌打ちは違くない?

 俺の頭はズキズキという痛みはなくなりチクチクという痛みだけが残った。


 

 結局、その後特に女子生徒と会話を交わすこともなく目的地である高校の最寄駅へと到着した。


「オロロロロロロロー」


 俺の頭痛はギリギリ外で限界を迎え、駅に設置されたゴミ箱へと嘔吐していた。通行人に不審な目を向けられ不潔だと思われても俺の胃液は止まらない。朝ご飯食べてこなくてよかった。喉が胃酸で痺れる程度で済んだ。


「ちょっと、君大丈夫?」


 優しい駅員さんが不審な俺に声をかけてくる。そりゃそうか、この状態の学生を放っておけるほど日本は冷たくない。威力業務妨害で訴えられてもおかしくないテロも優しく介護してもらえる。


「す、すみません。ちゃんとこのゴミ持ち帰りますんで今だけは許してください」


「いや、そこまでしなくていいけど。君、緑島高校の生徒だよね。休憩室で休んで行ったら? 学校には連絡してあげるから」


「大丈夫です。もう胃の中すべて出しましたんでこれからすぐに向かいます」


 頭は重いが身体は幾分か軽くなった。


「そういう問題じゃないだろう。具合悪いのなら無理しない方がいい」


「本当に大丈夫ですから。よくあることなんでそれじゃ」


「あ、ちょっと」


 人が集まり始めたのでこの場から去ることを決める。俺は荷物をまとめるとダッシュで駅員さんの抑制を振り切り改札を抜け出した。


「あぶねー。あのままだとまた発作が発症するとこだった」


 この持病の頭痛、どうやらただの頭痛ではない。不思議なことに周囲にいる人間のネガティブな感情に触発されて発症する特殊なテレパシーのようなものなのだ。当然、ちゃんとした病気ではない。医者に診せてもただの偏頭痛だと言われ、しっかり診てくれと駄々こねた際には精神科医にも連れて行かれた。自分自身、思い込みが激しい共感好きだと最初は思っていたが頭痛を繰り返していくうちに俺の性格は関係していないことがわかった。実験として人混みの中で視覚と聴覚を封じてみたり、日本語の通じない素性のわからない外国人の集まるホームパーティーに参加したりもした。そのどちらでも頭痛は発症し、ネガティブな感情を爆発させた人間を見てきた。


 今日で言えば満員電車に対して不便さ不快さを持った乗客の苛立ちの感情が俺の頭痛の原因のひとつである。そして、その中でも人によっての気持ちの大小は頭痛の大小にもリンクする。俺に突き刺していたチクチクという痛みあれはおそらく怒り。それは乗客によるものだった。そして、その中のズキズキという痛み。これは怯えや焦り。あの痴漢されていた女子生徒のものだ。その証拠に彼女助けた際にはズキズキという痛みは消えチクチクという痛みに変わった。彼女の怯えや焦りが収まり俺に対する怒りに変わったのだと推測できる。


 このように俺は誰のものかはわからないがネガティブな感情を身を呈して検知している。

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