3 週に一度の入浴



 お風呂は、週に一度だけ。


 湯に浸かる贅沢は、何ものにも代え難い。

 地下深くから汲み上げられる水を、大きな寸胴鍋に、たっぷりのお湯を沸かすこと何回か。幾度か浴槽へ往復すると、少し水を加え温度を調整した後、湯気の昇る中へオイルを数滴垂らした。これも、睦月が私の為に手に入れてくれた沢山の中の、ひとつだ。

 たちまち、狭く物で溢れるシェルター内に、外へ向かって広がるような香りが充満する。

 掌の中、茶色の小瓶のラベルに書かれているlavender essential oilという外国の文字と描かれている紫色の花へ、視線を落とす。このラベンダーと呼ばれる植物は、小さな紫色の花を穂状に沢山つけるのだという。私が見た図鑑には、紫色一面にラベンダーの咲く丘の写真も一緒にあった。

 目を閉じて、想像してみる。

 なだらかなその丘に立つ、私を。

 睦月の呼吸のように柔らかな風は、私の頬を優しく撫で、おひさまは暖かく小さな接吻をいくつも落とす。空はどこまでも高く、手を伸ばした私の指の先を薄青く染める。両足が踏み締める地面からは知らない匂いがして、傍に立つ睦月に、それは土の香りだと教えて貰うのだ。


 いつのまにか後ろに立っていた睦月に、そっと抱きしめられたことで、物語の世界は霞むように遠くへ去り、私は目を開けた。


 剥き出しの灰色の冷たいコンクリートの壁が、同じ低い天井が、少ない照明の中で仄白く浴槽を浮かび上がらせている。

 後ろから回された睦月の手がボタンを、ひとつずつ外してゆく手慣れたその長い指先の動きを、不思議なものを見るように、じっと見下ろしながら尋ねた。


「壊れてしまった世界のどこかに、ラベンダーの咲く丘は残っていると思う?」


 私は、小さな声で聞いてみる。

 期待を、込めて。


「見つけたら、私を連れて行ってくれる?」


 空気に触れた私の素肌に唇を落とし、柔く膨らむ胸や、その尖端の周り、臍の窪みに円を描くように指を這わせながら、睦月は「外へ出たいの?」と聞くので弾む息のまま、分からない、と正直に答える。

 睦月から聞く壊れた外の世界は、私の知るどんな物語よりも恐ろしいものだったから。


 私と同じように服を脱ぎ捨てた睦月と、熱い湯に身体を沈め、浴槽に座る。

 熱い湯が、前後に重なり合うようにして座る私たちを包む感触は、慣れるまで、肌にひどく擽ったい。

 それを紛らわしてくれるかのように、背後から私を抱きすくめた睦月の大きな掌が、赤く染まりゆく真っ白な私の身体を優しく撫で上げる。


六花りっかは、小さくて、どこも真っ白で綺麗だ。そして、どこまでも柔らかい」


 耳朶を喰み、舌で嬲る睦月に身体を傾ければ、男の人である睦月と私の違いは、こんなにも明らかだ。睦月が触れるたび柔く形を変える白い私を綺麗だと言うが、彼の逞しく硬い身体こそ私は、美しいと思う。


 美しさは、恐ろしさと同じ。


 不意に蘇る図鑑で見た太陽の、姿。

 『おひさま』と『太陽』

 同じものでも、言葉を変えるとその印象は大きく違う。

 

 ぬるくなってきた湯の中で、足りない私の部分に睦月を埋め込まれ、その甘美な苦しさに絶え絶えに呼吸しながらも、ならば、睦月から伝え聞く恐ろしい外の世界もまた、違う言葉に変えて、実際に目にしたら美しいものになるのだろうかと、ふと考える。


「……何を、考えているの?」


 波が生じ緩やかに揺らぐ水面に、快感に、溢れて溺れそうになりながら私は、睦月のその問いかけに小さく首を横に振った。なぜか、その考えを知られては、いけないような気がしたからだ。

 途端、無理矢理に身体の向きを変えられ、睦月が正面から私の顔を覗き込む。

 美しく、恐ろしい、睦月。

 思わず目を逸らしてしまった私を「素直じゃないね」と、少し怒った睦月に激しく攻め立てられ、翻弄されるまま今度こそ何も考えられなくなった。

 これまでの短い間に、何度となく教え込まれた私の身体が、陶然と睦月と馴染み、湯の中に溶け出してしまうことに抗う術など持ち合わせている筈などない。悲鳴に似た声をあげ始めた私の口は、睦月の唇と舌によって隙間なく塞がれ、勢いを増す水音だけが耳を穿ち、部屋を揺らすのだった。





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