七 ××××、と友人は言った

 危うく轢かれるところだった。

 元気でな。

 と電話の向こう、はるか彼方の異国にいる彼の長年の友人は言った。いや、用心しろよ、という意味か。外国語に翻訳する場合にはいく通りもの訳し方が可能なそのフレーズの意味を彼は考えている。

 Take careテイクケア. と友人は言った。

 Take care of what何をケアしろと? と彼は思った。

 じゃあまた。

 その程度の別れ際の定型文句のつもりだったかもしれない。

 ご自愛ください? 

 いや、そこまでフォーマルじゃない。もっとあけすけな間柄なのだ、彼と友とは。彼の妻は、よりによってその友と浮気をしていた。同じ女性を分かち合った仲だ。

 しかしそれは、あの騒動が始まる前の話で、彼は二人を許したのだ。


 いや

 いや


 そんなことより

 彼は車に轢かれることなく道路を無事横断しきったことに満足し、歩きはじめた。巨大な公園に向かっていた。昼休みにジョギングする健康フリークたちの溜まり場。いや健康のためというよりは、体形維持のためか。

 彼は運動が好きではない。突き出た腹を意識した時は何かしなければ、という気になるが、実際には何もしない。なにしろもう六十を過ぎたのだし、彼は美貌や肉体美で売ってきたわけではない。

 それでも若い頃は、そのエキゾチックな風貌は多くの女性を惹きつけたものだった。彼の出自が旧植民地であろことを意に介さないタイプの白い肌の女達。

 意図的に選んだわけではないが、彼がこれまで付き合ったことがある女は皆色白だった。彼が故郷を後にし、旧宗主国の寄宿学校に入学したのは十三歳の時であり、それ以前にはデートすらしたことがなかった。

 留学先――後に彼はそこで帰化するのだが――特に彼が送り込まれた良家の子女や大金持ちの子供が通う名門校には彼の同類の数は少なく、圧倒的な白人社会だった。それ故、他の移民よりはるかに恵まれた境遇の彼ですら、その環境に馴染むまでは血を吐くような苦労を味わったし、数々の屈辱も経験した。それは彼の著作の中にも表れている。

 それでも、彼の作品を称賛したのは主に知識人、大帝国時代に先祖が植民地に行った数々の悪行、思いあがった独裁を恥じたり負い目を感じるようになった色の白い人々であり、同胞の移民達や故郷の人々ではなかった。帰化したところで彼の出自は彼のミルクコーヒー色の肌を見れば明らかであったし、その結果、どちらの側にも属さない、コウモリのような立ち位置で彼は一人取り残されることになった。

 そのだだっ広い公園は、ジョギングする者、バイクのペダルを漕ぐ者、犬を散歩させる者、スケボーの練習に励む者、ベンチや芝生で読書する者等で溢れかえっていた。母親の制止する声を無視して驚くべきスピードで逃亡を図る幼児、それを鬼の形相で追いかける母親、寄り添う恋人達、上空を通過していくヘリコプター。

 誰が、どれが刺客だろうか、と彼は周囲を見回して考える。そんなものは被害妄想だと苦笑しながら。


 いや、妄想ではない。

 いや、妄想だ。


 新婚当時は、新居の全ての部屋で互いを貪りあったものだ。彼女は二十代の後半にさしかかっていた。背後から乳房を鷲掴みにして、思い切り腰を突き上げる。それこそ、箍が外れたみたいに。キッチン、玄関ホール、階段の途中、居間のソファーで、カーペットの上で、地下室で、バスルームで、全くいかれていた。彼女がブロンドの髪を振り乱し、歓喜の声を上げのけぞる頭を引き寄せて、舌を突っ込んで黙らせる。棟続きのテラスハウスだ。新婚だからといって、両隣の家にあまり迷惑をかけたくない。彼女は彼の首に腕を回し、舌をからませてくる。

 お食事はいかがでしたか、と彼女はサーモンピンクの唇で訊く。ああいいね。すごくいい。とてもよかったよ。と彼は体を震わせながら彼女のまっ白な背中に爪を立ててわざとミミズ腫れの跡を残し――

 ジョギングコースが川に沿って走るようになり、視界が開け、遠くに霞む超高層ビルが乱立している。彼は少し乱れた呼吸を整えるために、柵にもたれかかって光を反射する水の流れを眺める。ガンジスでもテムズでもない川。川面を吹き抜ける風が汗を乾かしていく。あまり長居をすると風邪をひきそうだ。

 煌めく水面を透かして魚の背びれが見えた。かなり大きい。鯉?

 二十五年もの間武装警官に警護された生活をした末に、予算の都合という理由で放り出されたのだ。勿論、不安である。

 しかし、既に決定が下され、実行に移されてしまった。彼を警護していた警官達は姿を消し、二度と現れなかった。気持ちを切り替えていくしかない。ホテルを一週間程度で移動する煩わしさに、彼のことを知る者がいない、件の宗教とも無関係な国、東洋にでも居住を移そうかとも考えた。

 しかし、喉首をかき切られて亡くなった翻訳者の一人は、まさしくその東洋で襲われた被害者だ。執念深い刺客は、彼の居所を知れば、地の果てまでも追いかけてくるだろう。自分の乗った飛行機が襲われたら、甚大な被害が出る可能性もある。

 結局彼は動けなかった。ホテルの移動、街から街への移動はするが、国境を跨ぐような大きな引っ越しはできなかった。だからまだこの国にいて、大都会の中で絶大な存在感を示す巨大な緑の公園で川面を眺めている。

 初めの何日か、警護が完全に解かれてから数日は、ホテルの部屋の外に出ることができなかった。二十五年も隠遁生活を続けていればさすがに緊張は薄れ、警護の警官と軽口を叩いたり、時には出版パーティーに出かけたりもしたものだ。無論、彼がそのパーティーに現れるということは事前に告げずに。ある映画(彼の小説が原作ですらなかった)にカメオ出演をしたこともあった。何十年も前に帰化した旧宗主国から、長年の作家生活を称えられ勲章を授与されることになっても、彼を賞金首と見做す人々からの反発が激しく、式典に出席することは見送った。女王陛下が一緒に吹き飛ばされでもしたら、目も当てられない。

 それでも、長年無傷で過ごして来たことで、彼の日常は、完全にではないが、ある程度取り戻すことができていたのだ。ここ数年間は特に、私服警官の存在を意識しない術を身に着けていた。

 しかし

 これ以上は、警護にかかる莫大な経費を捻出することはできない、と宣言されてしまった。二度目の死刑宣告に等しいその無慈悲な決断を伝えられた時、彼の全身をぴりぴりと電気が駆け抜けた。民間のボディーガードを雇うことを考えないではなかったが、何人? いつまで? 彼の財力か命、そのどちらかが尽きるまで?

 一人きり、一生ホテルに閉じこもっているわけにも行かないと、外出を決意した彼は、緊張した面持ちでエレベーターに乗り込み(階段を利用することも考えたが、そこは十三階だったので却下した。刺客に出くわす前に心臓発作を起こすか足を踏み外して首の骨を折るかしそうだったから)、ホテル周辺を散歩し、中華のテイクアウトを購入して部屋に戻ってみた。

 思ったよりも、抵抗はなかった。

 ホテルのエレベーターに他の客が乗り込んできた時も。相手が中年の白人カップルや、過度に着飾った年配の女性だったから、というのもあまり警戒心を抱かなかった理由ではある。彼と同じ人種の男性が乗り込んで来たら、やはり相当慌てるだろう。

 勿論、街中に出れば、アジア系や中東系はいくらでもいる。ただ、こんなにも早く、二十四時間警護が解かれて早々に刺客が彼を発見するなどという偶然は信じられなかったが、雑踏の中を歩く時はできるだけ顔を伏せて、誰とも目を合わせないようにしていた。

 散歩の範囲を徐々に広げて、カフェでコーヒーを注文し、ほんの十分程テーブルに着くリハビリを繰り返し、昨晩はついにホテルのバーで酒を煽った。たった一人で、護衛なしに。

 何を飲んでるの。同じものをいただいていいかしら。

 女はカウンターで飲んでいた彼の隣に座って、言った。薄暗い照明のせいもあり、三十代に見えた。少々肉付きがよすぎると思ったが、酔った勢いでならどうにかなるか、とも。

 護衛付きでは当然、女を買うことなどできなかった。最初の妻と別れてから、何人かの女と付き合ったし、一度再婚もした。寝室の中でまで護衛が見張っているわけではない。それでも、娼婦を買うような法律違反は彼らの前ではできなかった。六十を過ぎた彼は、最早色恋の面倒は飛ばして、以前よりは随分頻度が落ちた肉欲の高ぶりを静めるために対価を払って事務的に済ませる方が楽だと考えるようになっていた。もしやこの女が、という懸念を強い酒で隅に押しやり、彼はバーで意気投合した女に誘われるままに、彼女を部屋に連れて行った。

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