第一章⑩

 意識を戻したとき、最初に目に入ったのは、ステンドグラスの窓から差し込む幻想的な光だった。

 ああ、まだ夢の中だ、と。爽良は薄目を開けたまま、その心地よさにしばらく浸る。──しかし。

「起きた?」

 突如降ってきた声と、額に触れた手のひらの感触で、一気に頭がかくせいした。

 視線を彷徨わせると、真上からのぞき込む礼央と目が合う。

「礼……」

 慌てて体を起こそうとしたけれど、礼央に額を押し返され、背中はふたたび柔らかい感触に包まれた。

「急に体を起こさないで」

 わけがわからないまま、爽良はひとまず頷く。そして、ゆっくりと周囲を確認し、自分がどこにいるのかを理解した。

 視界にあるのは、大きな窓とボルドー色のカーテン。忘れもしない、鳳銘館の談話室だ。爽良が寝ているのはソファの上で、ブランケットがかけられている。

 なにがどうなってここにいるのか、思い出そうとしてもまったくわからなかった。鳳銘館の庭での出来事は覚えているけれど、今になって思えば、あれが現実だったのかどうかも怪しい。

 必死に記憶を辿たどる爽良を、横に座る礼央が静かに見下ろしていた。

「あの……」

「倒れたんだよ。ここに来る途中で」

「倒れた……?」

 礼央がくれた報告は、爽良の記憶とはずいぶん違っていた。

 だとすると、庭でのことはすべて夢だったのだろうかと、爽良は混乱する。──しかし。

「──ねえ、なんで懐かれてんの」

 突如響いた、聞き覚えのある声。

 ゆっくり顔を上げると、ダイニングチェアに座る御堂と目が合った。

「御堂さん……。懐かれるっていうのは……」

 わけがわからず尋ねると、御堂は苦笑いを浮かべて窓際を指差す。

 視線を向けると、窓の両端でまとめられたカーテンのひとつが、不自然に膨らんでいた。

「あれ……? 誰か、隠れて──」

 そう口にしながら、爽良は、カーテンの端からチラリと見える水色のワンピースに気付く。

 たちまち全身に緊張が走った。──しかし、そのとき。

 爽良の心境とは真逆の、ずいぶんのん気な御堂の笑い声が響いた。

「どうして笑っ……」

「だから、懐かれたんだって。……君が彼女になにをしたのか知らないけど、今はいたって無害だよ」

「……私が……?」

 混乱のなか、思い出すのは庭で交わした少女との会話。

 ただ、それは礼央から聞いた報告から考えても、現実での出来事ではないはずだった。

「なんか話したんでしょ?」

「え、でも……、夢の中で……」

「それは夢じゃなくて、多分あの子の意識の中だよ」

「は……?」

「は? じゃなくて」

 この人はなにを言っているのだろうと、爽良はぼうぜんとした。

 しかし、事実、カーテンに隠れる少女からは、恨みも悲しみも伝わってこない。

 爽良は、少女と交わした会話をゆっくりと思い返す。──そして。

「私が……、話し相手になる……って」

「言ったの?」

「……はい」

 うなずいた瞬間、カーテンの端から少女がチラリと顔を覗かせた。その顔は青白く、目はうつろで、目が合った瞬間に背筋がゾクッと冷える。

 すると、少女はふたたびカーテンに隠れた。

「……いやいや、約束したなら責任とってよ。可哀想じゃん」

 御堂の口調は相変わらず軽く、一瞬、相手が霊であることを忘れそうになる。前に会ったときから感じていたけれど、この人にとっては霊なんて珍しくもないのだろう。

「それは……、そうなんです、けど……、慣れなくて……」

「もし後悔してるなら、俺が強引にはらってもいいけど」

 御堂が淡々とそう言った瞬間、カーテンのすそから覗く足がカタカタと揺れた。

 祓うとはどういうことなのか、爽良にはよくわからない。ただ、少女がおびえていることだけは、はっきりとわかる。

 その様子は、爽良を少し冷静にさせた。

「後悔は、……してない、です。……かなり、戸惑ってはいるけど」

 爽良はソファから起き上がると、おそるおそるカーテンに近寄り、ゆっくりとひざをつく。

「あ、あの……、よければ、名前を……」

 必死に絞り出したひと言目は、やけにぎこちなかった。ただ、生身の人間とすら滅多に会話しない爽良にとっては、それが精一杯だった。

 すると、少女はふたたびチラリと顔を覗かせ、爽良をじっと見つめる。

 初めて間近で見た少女は、表情こそないけれど、まつ毛が長く、まるで人形のように整った顔をしていた。

「さっきは、ごめんなさい……。私は、鳳爽良といいます……」

 反応はない。

 けれど、やはり、憎悪も悲しみも感じ取れない。

 そして、長い沈黙の後。

『……

 小さな声が響き、カーテンの膨らみがふわりと消えてしまった。

「あれ……?」

 部屋を見渡しても、もう気配はない。

「よかったね。名前教えてくれたじゃん」

 談話室に御堂の楽しげな言葉が響き、爽良の緊張がほどけた。

「紗枝ちゃんっていうんですね……。あの、どこに……」

「彼女らはそんなに長く姿を現さないから、そのうちまた出てくるんじゃない」

「そういうものなんですか……」

「だんだん頻度が減って、勝手に成仏するよ。ただ、霊なんて理不尽なもんで、今回みたいに急に怒りだしたりするから油断しないで。ま、また放火をはじめたら、さすがの俺ももう黙ってらんないけど」

 口調は軽いのに、最後のひと言には妙な気迫が感じられ、爽良は口をつぐむ。──すると。

「あの子、これからも爽良に付きまとうの」

 ずっと黙って聞いていた礼央が、突如、御堂にそう問いかけた。

 爽良はふと違和感を覚える。

 礼央の口調はいつも通り冷静だけれど、その中に静かな怒りが揺れているような気がしたからだ。

 そもそも、礼央は基本的にあまり人との会話を好まないし、ましてや、初対面で明らかに年上の相手に敬語を使わないなんてことはない。

 かたんで様子をうかがっていると、御堂は意味深な笑みを浮かべ、礼央に視線を向けた。

「そりゃそうでしょ。爽良ちゃんが自分で話し相手になるって言ったんだから」

「……爽良ちゃん」

「いやそこ? だって鳳さんって堅いし。庄之助さんの孫なら俺の妹のようなもんだし。……ってか、さっきも言ったけどしばらくは大丈夫だよ。まぁ無害とはいえ地縛霊だから、寒いとか肩が重いくらいの弊害は多少あるかもしれないけど。……霊障っていうんだけどね、そういうの」

「…………」

 やはり、礼央は怒っていると爽良は思う。

 そして、御堂は御堂でわざとあおっているように見えた。

「まぁ爽良ちゃんがここに住めば、多少の霊障からは守ってあげられるよ。ってか、どうするか決めた?」

「い、いえ……、まだ……」

「急ぐ必要はないからね。……ただ、ここなら余計な気を張らなくていいから、爽良ちゃんのような体質の人にとっては居心地がいいと思うよ。なんせ、ここの住人は全員視えるから、コソコソ隠す必要もない」

「え……? 全員……?」

 新たに知った衝撃の事実に、爽良は言葉を失う。

 御堂のように霊に精通した人間が暮らす場所ならば、他にも同類が存在するかもしれないと薄々思ってはいたけれど、住人全員という言葉はきようがくだった。

 御堂はさもなんでもないことのように、言葉を続ける。

「なにせ、そうなるように入居希望者を厳選してるからね。そんなことするから、部屋は半分も埋まってないんだけど。……やっぱ、分かり合える人がいる方が安心するじゃん。そういう場所にしたかったんだよ、庄之助さんは」

「…………」

 唐突に、「心が自由になる」という庄之助の言葉が頭を巡った。

 やはりそういうことだったのかと、ずっと抱えていた疑問が落ち着くべき場所にストンとはまったような感覚を覚える。

 確かに、誰にも隠さず当たり前に過ごせる生活は、爽良にとって絶対に手に入らないと思い込んでいた自由そのものだ。

 そして、──自分はそんな生活にかれているのだと、爽良はもはや、その気持ちをすことができなくなっていた。

 御堂はいまだ謎だらけだし、そもそも鳳銘館のオーナーになるということも具体的によくわかっていないけれど、ただシンプルに、ここにいたいと心が訴えている。それは、これまであまり感じたことのない、強い思いだった。

「私……」

 そんな気持ちに押し出されるように、言葉が込み上げてくる。

 二人の視線が、同時に爽良に向いた。

「私は、……ここで、過ごしてみたい、……です」

 導かれるようにそう口にした瞬間、窓は閉まっているのに、談話室をふわりと柔らかい風が通り抜ける。それは、爽良の髪を優しくでて止み、どこか懐かしい香りを残した。

「いいと思うよー、俺は。そんなに難しく考えなくたって、一度お試しでやってみて、嫌だったら辞めればいいわけだし。前にも言ったけど、君がどっちに決めても俺や住人にはさほど影響がないから、周りのことは気にせず、自分がやりたいようにしなね」

「……はい。ありがとうございます。……ただ、ちゃんと決断する前に、解決しなきゃいけない問題がいろいろありまして……。でも、近々きちんと答えを出すので、また相談させてください」

「もちろん」

「今日は、帰りますね」

「了解。じゃあ、送……る必要ないのか。あの子懐いちゃったしね」

 まるで世間話のように霊の話をする御堂には、正直、まだ慣れない。爽良がうなずくと、礼央が立ち上がって御堂にぺこりと会釈をした。

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