2 金庫は【いつ?】開く(前編)

 翠蘭スイランが帰ってこない。

 時計を見て信一郎は首をかしげた。


 片手のコーヒーを少しすすり、今度は逆方向へ首を傾げる。

 いつも思うことではあるが、粉はスーパーで買った300gで398円(税別)で変わらないのに、淹れ手が翠蘭スイランかコーヒーメーカーかで味が違ってくるのが不思議なのだ。


 温度で味が変わることは知識としては知っているのだが、翠蘭スイランが沸かす湯とコーヒーメーカーの湯でそこまでの温度差があるものだろうか?


 ちなみに、信一郎の好みは翠蘭スイランが淹れた方である。

 コーヒーメーカーで淹れると苦味と酸味がバランス良くしっかりとして、それを一般的には美味いと評するのだろうが、信一郎は苦味も酸味もよく分からなくなる翠蘭スイランのコーヒーの方が好きなのだ。


 なお、翠蘭スイランのコーヒーが何故そうなるのかは全くの謎である。


 信一郎が真っ当な味わいのコーヒーを――好みではなくともそれはそれとして美味いわけだから――真っ当に楽しみ、そろそろかなと思ったところで、玄関の呼び鈴が鳴った。

 速やかに、しかし急がずに穏やかに行ってドアを開ける。


「信一郎おじさま、こんにちは」


「いらっしゃい、香織ちゃん」


 来訪した盲目の少女、木ノ下香織に信一郎が朗らかに応える。そして傍らに控える付き人の桜塚一弥青年にも「いらっしゃい」と笑いかけて、中へ招き入れた。

 先日、猫型のロボットトイを探し出して修理し、それを引き渡した際に、改めてお礼に伺いたいと言われていたのだ。


「えっと、つまらないものですが」


「これはご丁寧に」


 こなれた感は無いものの、小学生レベルではない振る舞いに、信一郎は内心で感心する。

 さすがは大手製薬会社の社長令嬢――というよりも、両親が亡くなった後に後見人となった祖母の影響だろう。


 現会長たる祖母は、元々は孫娘に非常に甘かったらしいが、香織に身寄りがなくなって以降は教育方針をハードモードへと転換したそうだ。先に逝くことが明らか故の指導であり、それを理解している香織との仲は良好のようだった。

 まあ、付き人兼護衛の桜塚青年に言わせれば、祖母と孫ではなく、まるで教官と生徒だそうだが。


「おっ、これは……!」


 手土産の中身を見た信一郎が軽く驚きの声を上げる。


 老舗のパン屋五十路のプリン食パン。

 地元に愛される伝統のパン屋でありながらも、時折「何でそうなった?」と言わざるを得ない珍品を創造してしまうことで有名な名店作の、その珍品の部類だ。


 珍品というと聞こえが悪いが、傑作である確率も非常に高く、このプリン食パンも意外なことに美味なのである。

 最も食感が近いのはおそらくクリームパンだろうが、クリームではなく、あくまでプリンとしての味わい、食パンとしての味わいをキープしているところが傑作たる所以ゆえんだ。

 余談ではあるが、熱厳禁で賞味期限半日、食パンなのにトーストすると大惨事になった上で縮むという際立きわだった個性もある。


 作るのが難しいらしく一日10本限定のため朝一で売り切れることも珍しくない、そして、翠蘭スイランの好物でもある一品。


翠蘭スイランお姉さまがお好きなのですよね?」


「よく買えたねぇ」


 香織に応えつつも目で桜塚青年をねぎらう信一郎に、相変わらず壮健な青年は、静かに首を横に振った。


「お嬢様が並んで購入されたのです」


「え? そうなの?」


 てっきり香織に頼まれて桜塚青年従者が買ってきたとばかり思っていた信一郎が、本日2度目の驚きを見せた。

 小さくうなずき、お手本のような微笑みを見せる香織。


「お祖母さまから、『礼を尽くすなら自分の手で』と教わりました」


「うん、カッコイイお祖母さんだね」


「はいっ」


 今度はお手本ではなく、花が咲いたような笑顔だった。

 翠蘭スイランが一日でノックアウトされだけはある、と信一郎も内心で舌を巻く。実際、香織に「おじさま」と呼ばれて少し浮き足立っている自分を自覚しているところだ。


 ただ――


「――今、翠蘭スイランはお使いに行ってもらってて……」


 森口組の龍田若頭にUSBメモリと伝言を届けてもらうだけだから、余裕で帰ってこれるはずだったのだが。香織が来る予定なのは翠蘭スイランももちろん知っていたし、だから今朝はご機嫌だったわけで、つまり時間に遅れるはずがない。


 そう、そうこう言ってる間に帰ってくるだろう。きっと、すぐソコまで戻って――


「あ……、そうなんですね……」


 ――よしダメだ電話しよう。


 はにかむような香織を目の当たりにして、信一郎は即座に手のひらを返した。

 その表情が残念さや寂しさを隠したものと察した瞬間に溢れ出した謎の罪悪感に、信一郎は耐えられなかったのだ。


 コールし始めて2回ほどでつながる。


『はい』


「あ、もしもし翠蘭スイラン? 時間かかってるけれど、どうかしたの?」


『いえ、用事は済んだのですが』


「何か別件でもあったっけ? トラブルでも起こってるのかな?」


『どうも、そのようで』


「あー、巻き込まれたかぁ。厄介そう? まだ時間かかる?」


『それは何とも……』


 翠蘭スイランの歯切れの悪さから、そこそこに面倒な事態なのは確定だった。

 ただ、純粋な荒事であれば翠蘭スイランが後れを取るとは考え難い。仮に、森口組で名高い“鬼”が相手であったとしても、だ。


「うーん、香織ちゃん、もう来ちゃってるんだよねぇ」


『そうなのですか?』


「いつ戻れるか分からないんじゃあ、香織ちゃんに待ってもらうのも限度があるなぁ」


『そ、それは……』


 狼狽うろたえる翠蘭スイラン

 中々お目にかかれない様子に、信一郎に悪戯心が頭をもたげた。


「仕方ないよねー? 手土産に五十路のプリン食パンもいただいたけれど、食べちゃっても仕方ないよねー?」


『あ゙ぁ゙ん?』


「へぁっ!?」


 思った以上のガチギレのリアクションに、信一郎の口から半分悲鳴のような声が漏れた。

 想定をはるかに上回るイライラ度合いだったようだ。


「おじさま? 翠蘭スイランお姉さまに意地悪しちゃダメです」


 横から小学生にたしなめられて、ますます肩身が狭くなる信一郎。

 慌てて翠蘭スイランへのフォローに走る。


「じょ、冗談だよ冗談、そんなことするわけないでしょ? さっさと帰してもらえるように話するからさ、スピーカーにしてくれるかな?」


 急に腰を低くして告げて、一方で、香織と桜塚青年には応接で待ってもらうように促す。

 電話先が電話先なだけに、になる可能性も考慮しなければならない。


「あー、もしもしー、聞こえてるかなー?」


 頃合いを見計らって、信一郎が呼びかけてみる。

 すると、声からしてそのスジの方と丸わかりな、太ぉい声が返ってきた。


『あー、聞こえてるよ、信一郎の旦那だな?』


「あ、鬼怒川さんかい? お久しぶりだねぇ、元気してた? 龍田くんは不在なのかな?」


 電話口に出たのは、森口組一門でも武闘派筆頭、“森口の鬼”と呼ばれる鬼怒川である。若頭の龍田と同様、それなりに気心の知れた間柄だ。


『ああ。若頭はちょいと出張ってるところでな。今日の夕方には戻るはずなんだが』


 はて?


 声には出さずに首だけ傾げる信一郎。

 確か昨日の晩には戻ると聞いていたのだが。だから翠蘭スイランに今朝行ってもらったのだ。

 が、若頭の龍田はかなり多忙で、こういったことは珍しくもない。


「それはまあいいや。ウチの翠蘭スイランがお世話になってるみたいだけれど、帰してもらっていいかな? 僕も手伝うからさ、何かあったんでしょ?」


『金庫破りだよ。朝になったら開いててな。お宅の翠蘭スイランがそれを見つけた、まあ第一発見者ってやつだ』


 なるほど、確かに面倒な事態である。

 知り合いのヤクザの事務所の金庫を開ける理由は、翠蘭スイランには無い。

 しかし、聞いている限りだと、翠蘭スイランのアリバイや動機がないことを証明しても、ハイそうですかと言ってくれそうもない。


 相手は翠蘭スイランの潔白を知りたいのではなく、誰が犯人なのかを知りたいのだ。


 となると――


「間違いなく閉めてあったの?」


 ――犯人に目星をつける方が早道か。


『若頭の不在中は、大体鍵をかけっぱなしだよ。確認で夕方に一回開けるぐらいだな』


「ってことは、最後に開けたのは、昨日の夕方?」


『おう』


 夕方には確認済み、朝に扉が開いていた。

 なら、普通に考えれば夜の間に金庫が開けられたことになる。

 夕方のチェックに間違いが無いならば。


「そのときの様子は?」


『様子も何も、いつも通り中をざっと見て、閉めてロック。以上そんだけだ。そうそう、谷山がちょうど騒ぎやがってな、何事かと思って行ったらムカデにビビったってだけで、思わずシバいちまったわ』


 金庫の内容確認と施錠自体は、至っていつも通りということらしい。


 ふむ、と信一郎は一息入れる。


「ん? 新入りくんかな? 虫は苦手かい?」


 聞き覚えのない声の主へ問いかける信一郎。

 対して、いかにも小心者っぽい、やや哀れみすら感じさせる声の返事があった。


『いや、その、ムカデだけはちょっと……』


「どこに居たのか知らないけれど、頼りになる鬼怒川さんが駆けつけてくれて良かったねー」


『いや、谷山こいつ、ドア出たところで腰抜かしてやがったんだよ』


 鬼怒川のコメントに、ほう、と信一郎はスマホが拾わない程度でつぶやく。


 まあ、誰しも苦手なものはあるわけだから、かな?


 とりあえずそこには触れないことにして、信一郎は、何よりも確認しなければならないことへと話を移す。


「それはそれとして、金庫ってどんなの? 鍵の方式は?」


『テンキー式だよ。暗証番号を知ってるのは若頭と俺だけだな。盗難防止機能付きで、ちょっとでも動かせば問答無用でロック状態になる』


 まあ当然にして龍田と鬼怒川しか開けられないわけで、ならば翠蘭スイランがどうこうではなく、犯人はどうやって暗証番号を手に入れたのかが問題である。

 ……はずなのだが、肉体言語が非常に堪能な鬼怒川は「犯人に吐かせればいいじゃねえか」と言ってしまうタイプなのだ。


 したがって暗証番号の入手経路という命題はさておき、信一郎はちょっと目新しい新情報を確認することにする。


 そう、盗難防止機能の方だ。


「何それ珍しいね、型番とか分かる?」


 応接を横切る時に香織へ無言かつ笑顔で手を振って、仕事道具のアタッシュケースを取り出して開ける。

 電源を入れて起動、すぐにデスクトップ画面が表示される。

 持ち運び可能であることと、可能な限り即座に使える状態になることを信一郎なりに追求した、アタッシュケース自体が筐体きょうたいという持ち運びパソコン。

 中身はすでにPCパーツで埋め尽くされているため鞄としての機能は全く果たせないが、信一郎的には結構重宝している一品だった。


『ん? えっとなあ……○×工業製のNK-2012、か?』


「どれどれ」


 手元も見ずにキーボードを打ち、カタログから使用コメントまで、ざっくりと目を通す。


「へー、壁か床に子機を仕込んでおいて、電波でリンクさせるのかぁ。電波は汎用の2.4GHz帯ね」


 目的の項目を目で追う信一郎。


「ふむふむ、本体と子機との距離が変動、もしくはリンク切れなどの異常を検知すると強制ロック状態になる、と。異常がなくなればロックする前の状態に戻る、か。なるほど?」


 言葉の終わり近くになると画面を切り替えて、手早くネット検索を繰り返していく。


 なるほど?

 2.4GHzに、、ね?

 ということなら、確認することは――


「――じゃあ後は2つほどかな。鬼怒川さん、その部屋の金庫とドアって、位置的に一直線上になる?」


『ああ、なるな』


「じゃあ最後。昨日ムカデ騒動の後で戻ったとき、金庫の鍵をだったのか、だったのか、どっちだい?」


 これまで歯切れ良く、テンポ良く続いていた鬼怒川のレスポンスが、


『それはかけた後――だった、はず? だぞ? 俺が部屋の中に戻って、後ろから『鍵閉めた』って――そうそう、鍵がもうかかってたしな、後だわ、うん』


 よし。


 あまり香織たちを待たせることもなく済んだと、信一郎は安堵する。


「はい終了っと。じゃあ翠蘭スイラン、帰っておいで」




(続く)

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