推理小説未満 —翠の徒然なる日々—

橘 永佳

1 猫は【なぜ?】倉庫で丸くなる(前編)

「……猫、でございますか?」


「そう、猫なんだって」


 メイドの翠蘭スイランに見下ろされながら、ソファに堂々と沈み込みながら、飄々と朗らかに答える信一郎。

 しかし、その内心は早鐘の心臓に脂汗ダラッダラ、出来るならば脱兎のごとく脱出したいと熱望する真っ最中である。

 例えそれが一回り以上も年下の、まだ成人直前の小娘であろうと関係ない。そう、年齢は全く何も一切関係がないのだ。


 一方で、暈けた蛍光灯の下でも艶を失わない黒髪と同じく美しい、珠のような漆黒の瞳を半目にして主を見下ろす従者は、ふいっと目線を外した。

 そして、コツコツと控え目なくせに猛烈な自己主張をする靴音を伴ってゆっくりと、ゆっくりと、実にゆっくりと信一郎の背後へとまわっていく。


 ヴィクトリアンスタイルのメイド服は運動に向いているわけでは、もちろんない。

 折からの資金難――有り体に言えば単に貧乏なだけだ――で着古されて馴染んでいるとはいえ、同様に着古されている信一郎のジャケット及びスラックスと比較すれば、動きやすさの点においては一歩遅れを取るだろう。


 もっとも、ガワではなく本体なかみで十歩以上差があるのだから、はっきり言って誤差にすらならないのだが。


「猫がいなくなって、って落ち込んでいる女の子を放っておくのは気が引けるでしょ? 翠蘭スイランだってさ、ね?」


「そう、でございますね」


 じっくりと後ろへ、視界から去ろうとしていく翠蘭スイランのペースが全く変わらない。


 鍛え上げられた体幹による姿勢の良さと所作の美しさから、何も知らなければただただ見惚れるだけだろう。

 しかし、何もかも知っている信一郎にしてみれば、ギロチンが同じペースで吊り上げられていくようにしか感じられない。

 内心、ではなく信一郎のこめかみをリアルな汗が一滴、ツツツーと伝っていく。


「あー、そう言えば、VNPv4問題は間抜けな結果だったねぇ。version4に移行する際に旧versionのv3とも互換性を持つように、は良いけれど、v3で運用されていた機器のアドレスに適当な数字を当てれば、同じアドレスを持った機器が多発してパニクるに決まってるじゃないか。人間って集まると時折とんでもないアホになるよね」


 焦りに焦った信一郎から、雰囲気を変えようとして今朝のネットニュースの話題が滑り落ちる。

 世界中に広がるネットワークシステムの通信方式の話で、要するにネット接続の電子機器があまりに増加したのでアドレスを増やそうとした顛末だ。

 端的に言うと、数字で3組の○○○・■■■・△△△だったアドレスを、4組の○○○・■■■・△△△・◆◆◆に増やしたわけだ。しかし、そうすると3組で既に使っている機器は最後の◆◆◆が無いため『アドレスが不明確=無い』になってしまう。それならばと、空欄になる◆◆◆を、何と適当に111やら222やらに翻訳するプログラムを導入したのだ。

 結果は信一郎が言ったとおり――なのだが、信一郎とは違って、翠蘭スイランはその手の話に詳しくはない。


「左様でございますか」


 にべもない一言に間違いを痛感する信一郎。

 額から頬へと伝う汗が、また一滴追加される。


「というか、アレだね、最近のトイは凄いね? AIは普通にコミュニケーションとれるレベルまで来てるし、家族のように接する人も増えてるらしいよ。そのうち人間の自我みたいなものまで再現できるようになるんじゃないかな?」


 もっとも、そのためにはまず『人間の自我』とは何かを定義する必要があるのだけれど、と信一郎は自分の頭の中でだけ続ける。

 その手の話を続けることが目的ではない。翠蘭スイランの注意を逸らせるかどうか、それだけが問題なのだ。


「左様でございますね」


 失敗を痛感する信一郎。

 汗はもう、一滴などという控え目な話ではなくなっている。

 話題の切り出し順を間違えたか――などとズレた悩みが頭を横切っている間に、強烈な自己主張をしていたコツコツ音が止んだ。


 真後ろで。


「…………」


「…………」


 もやは滝汗の信一郎。

 後ろからの無言の圧。


 ……よし、逃げよう!


 意を決した信一郎がソファから弾けるように――


 トン。


 ――出掛かったところを、タイミングよく背中を一突きされた。


「あ」


 体勢が崩れたところを、トトトンっと――足払いからの突き落としからの踏みつけまで、一息も無い半呼吸の間に完結。

 僅かな引っかかりさえも見当たらない鮮やかな流れ作業で、信一郎はうつ伏せに転がされた上で翠蘭スイランに背中を踏まれていた。

 翠蘭スイランの踵が、ぐりっと食い込む。


「あだだだだっ!?」


 背骨を横から抉られるような痛みに悶絶する信一郎。次の瞬間には横隔膜を後ろから踏み込まれて、肺の中の空気を絞り出される。


「かはっ!? か――かひょっ……ひゅひっ!」


 酸素を求めて全力をもって起き上がろうとすると、背骨をゴリゴリと抉られる痛みで思わず突っ伏する。そして直後には横隔膜を踏み込まれてまた息を吐き出さされる。

 翠蘭スイランは単に足をグリグリとしているだけだが、踏まれる信一郎には地獄のループだ。

 ギブアップを示すように床をバンバン叩く信一郎を見下ろしながら、あくまで翠蘭スイランは淡々としている。


「今日はお醤油を買ってきていただくだけの簡単な用事だったはずですが……何故それがお子さまのクレープ代に消えるのでしょうか? お使いもろくに出来ないのでしょうかこの駄主人様は」


 物憂げに溜息を吐くその横顔は、見ようによっては気品ある良家の令嬢っぽく見えなくもない。が、その足下までを視野に入れれば、まあ、その、色々と察することができることだろう。

 ちなみにこういったやりとりは珍しいことではなく、いやむしろ日常茶飯事で、初めは「駄目なご主人様」だったのが終に「駄主人」まで省略されるようになって久しかったりする。


 と、ここまで完全に置いてけぼりを食らっていた参席者が、ついに口を挟んだ。


「あ、あの、おじさまは私を見かねて、というか大丈夫なんですか!?」


 事態の展開について行くことが出来てなかったが、信一郎の声にならない悲鳴はさすがに理解できたらしい。


 盲目であっても。


 話の中に登場していた『猫がいなくなって落ち込んでいて、クレープを奢ってもらった女の子』本人が、おろおろと声をかけた。

 その後ろに控える付き人っぽい男は、主を止めるわけでもなく翠蘭スイランを止めるわけでもなく、ただ信一郎を胡散臭そうに見ているだけだが。


 信一郎の名誉のために補足するのならば、彼の容姿が胡散臭いわけではない。

 むしろ、やや暗めの茶髪はくせっ毛ではあるがウォールナット製の家具のような風合いで、瞳も緑の翠眼、彫りも日本人にしては少々深めと、素材は一般的には美形と言われてもおかしくはないのだ。ややたれ目がちなのも色気を醸し出していると言えるだろう。その辺りは、イタリア出身の祖父に似たらしい。

 問題は、その髪がボサボサで放置されっぱなし、同じく無精ひげも放置されっぱなしの無精さだ。

 混じりっ気無しのインドア派と言うだけでは説明が付かないほど『身を繕う』発想が欠如しており、そうなるともう、色気のあるはずの目元も、ただただ眠たそうにしか見えない。

 詰まるところ、結局は胡散臭い信一郎をフォローする気にはならず、しかし自分が傍を離れてしまっている間に主人を保護してくれた相手を貶すことも出来ず、付き人の男は傍観に徹している訳だ。


 が、盲目の彼女には分かりようもない話で、自身を助けてくれた恩人が何故かひたすら苦しそうに呻いていれば、そりゃ驚きもするだろう。

 まだ十一、二歳と思しき女児、しかも盲目の子供が慌てる様を見て、翠蘭スイランもスッと足を引いた。さすがに教育上良くはないと判断したらしい。

 ごひゅーっ、ぜはーぜーはーと空気をかき集める信一郎の横で居住まいを正し、静かに一礼する。


「これは失礼いたしました。それで、お嬢様、お話はその――」


「ねっ、猫ぉっ」


「――を探して欲しい、ということでしょうか?」


 途中で瀕死っぽい雰囲気を演出する信一郎の声を挟みつつ、翠蘭スイランが女の子へ声をかけた。


「あ、えっと、その――」


「いっ、いや、猫、のっ、居場所、自体、は、あたりが付いてる、んだよ、翠蘭スイラン


 今度は女の子の声の後を引き継ぐ信一郎。かなり呼吸が回復してきたらしき様子に、どことなく無念そうに顔を若干歪めつつ、翠蘭スイランは首を傾げた。


「分かっているのであれば何故回収してこられなかったのですか?」


 声の調子には、何の含みもなく純粋な疑問が表れていた。

 駄主人と酷評しつつも、結論に届くのに始末をつけていないことが主らしくない、と翠蘭スイランは評しているわけだ。

 評価されているのかされていないのか分からない当の本人は、ようやく大きく深呼吸して、切れ切れではない回答をしてみせる。


「分かっていても、すぐには入れない場所なんだよ。本来なら、それこそ猫の子一匹だって入ることも出ることも不可能なはずなんだよね」



(続く)

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