疫病禍

野守水矢

第1話 官邸の意向

 和義は杖を左手に持ち替えて、病室のカーテンを開けた。

 細かい雨が、灰色の街を濡らしていた。

「時雨だ」

 和義はぽつんと呟いた。

「秋雨でしょう。まだ、九月ですよ」

 後ろから幸枝の声が聞こえた。

「起きてたのか」

 和義は外を見たまま、言った。

「銀杏が黄色い」

「ほんとうですか」

 ベッドを傾けるモーターが短く唸った。

「ここからは、何も見えませんわ」

 振り向くと、幸枝が上体を起こしてこちらを見ていた。

 和義は杖を突いて、ベッドに向かって歩きながら小さな声で言った。

「代々木も紅葉していた。季節が狂ってる」

「やはり、あのせいなんでしょうか」

 和義が軽く咳をした。

「大丈夫ですか、あなた」

「風邪かもしれん。急に寒くなったからな」

 和義はベッドの縁に浅く腰掛けた。しばらくの間、黙って幸枝を見つめた。そして、幸枝の頬を右手でそっと撫で、痩せて骨張った感触を確かめた。

「昨日、近所の公園で猪を見かけた。住宅街の真ん中なのに」

「雨の中、震えて、毛が抜けて、血を吐いてた」

「今朝、道で死んでいた。かわいそうに」

 幸枝が背中を丸めて、激しく咳き込んだ。

「大丈夫か。だいぶ進行してるんじゃないか」

 和義は撫でるように背中をさすった。

「すまん、俺のせいで」

「俺のせいで、こんなことになって」

「仕方ありませんでしたわ。お役人だったんですもの」

 二人は見つめ合った。


「メシ、食ってくる」

 和義は視線をそらして、立てかけた杖に手を伸ばした。音を立てて、杖が倒れた。

「年だな。最近、力が出ん」

 杖を拾おうとして、両膝を折った。

 幸枝は体を横に向けて、和義を覗き込んだ。

「年ですか。髪の毛が薄くなりましたね」

「そういうお前だって」

 

「あら、私のは病気ですから。でも、あなたのは……」

 和義が頭を上げたのと、幸枝が口をつぐんだのはほぼ同時だった。

 幸枝の目は大きく開かれて、ぐっと和義を凝視していた。

 和義は幸枝の飲み込んだ言葉を理解した。

——もしかして、あなたもなの。

 和義は黙って病室を出た。


 和義の心には、幸枝の「仕方ありませんでしたわ」が引っかかっていた。本当に仕方なかったのだろうか。あのとき、避難解除を決裁したのは自分だ。少しためらいはあったが、『官邸の意向だ』と、心に蓋をした。省内での立場を考え、真っ先に帰宅した。


 数年後、幸枝が発症した。


 病室に戻ると、幸枝の寝息が聞こえた。和義はゆっくり近づくいて、幸枝の上体に毛布を掛けた。


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