008. 悪夢の指先
「それでは、各班作業にあたってくれ!」
暁の低く力強い声がイベントホールに響くのと同時に、生存者たちは蜘蛛の子を散らすように各々作業に取り掛かる。今回の任務は二階から三階にかけての窓の封鎖と、食料や武器になりそうな物資の調達。生存者は二グループに分けられ、割り当てられた仕事をこなす。
「ぬおっ、これ結構重いなぁ。恵たん、大丈夫?」
「だ、大丈夫、です……!これくらい……!」
「めっちゃ声に力入ってるけど!?」
窓を封鎖するのは、モールと同じ高さを飛んでいる天使から視認されないためだ。材料となる立板を運ぶ翔也と恵だが、彼女には少し荷が重すぎたか、力が入るあまり今まで見たことのない形相になっている。
「恵たん、結構やるじゃん。もっとお淑やかな感じかと思ってた」
「は、恥ずかしいのであんまり見ないでください……」
一枚目の設置がなんとか終わり、その場に腰を下ろす二人。火照りか照れか、恵の赤くなった顔も、それを隠す仕草も、翔也の心を揺さぶる。学生時代は愚か、現職場でも出会いはなく、女っ気のない人生を送ってきた彼は、物言いこそおちゃらけた態度ではあるが、心の奥底からは純粋さが溢れ出して止まらない。
「そ、そいや恵たんって、普段何やってるの?」
溢れ出る純粋さに蓋をし、当たり障りのない話題を展開することで必死に平静を装う。
「私、大学生です。国際系の学部に通ってます」
「国際ってことは、英語喋れるってこと?」
「そ、そんな大した物じゃないですよ」
「へぇ〜。あ、因みに俺も喋れるよ!I am pen!」
文法も意味も崩壊した翔也語に、恵はうふふ、と静かに微笑む。直後俯くが、淡い茶色の髪が彼女の横顔を隠してしまって、その表情は読み取れない。
「私、ずっと一人だったんです。お友達とかもいなくて……」
「そうだったんだ。恵たん、モテそうなのに」
「全然。告白されたことも、したこともないですよ」
「あれだよ、恵たんの周りの男は、きっと目がパイン飴とかで出来てたんだよ!」
翔也の軽口に再びうふふ、と微笑する恵が、俯いてた顔を上げて翔也に微笑みかける。
「みなさんに……、翔也さんに出会えてよかったです……!」
それを見れば、きっと誰しもが恋心を内に芽生えさせてしまうはずだ。何も、翔也だけが特別に純粋すぎたというわけでは決してない。そして、その決壊した純粋さと下心——人間なら誰しもが持っている、また恋をすれば誰しもが必ず抱く、決して悪意のない生理的な下心から、翔也は恵に手を伸ばす。
「……え?」
しかし、翔也が触れたのは恵の手ではなく、確かに、悪夢の指先であった。
◆ ◆ ◆
「これだけあれば、全員分足りるだろ」
「流石、大きいとこにはキャンプ用品も売ってるから、結構役に立ちそうだね」
包丁やナイフ——武器になりそうなものを集めるのが、地景たちの班の仕事だ。最も、人間の使う武器が天使たちに通用するのかは不明ではあるが。
ブルーシートに並べられたそれらを見て回り、ふとその先——店の入り口の柱に腕を組みながら凭れかかる一人の男に地景の視線は移る。
「よっ、お前も何か良さそうなもの見つけたか?」
「……ちっ、あぁ?」
少しばかり勇気を振り絞って気持ち明るめの声を出したが、その相手は地景のことを鋭く睨みつけ、それは到底会話を続けようとする者の反応ではなかった。予想外の反応に地景が戸惑っていると、いつの間に後ろに来ていた聖那が地景の手を引き元の場所に連れ戻す。聖那は眉間に皺を寄せながら——
「地景。ダメだよ、あの人は」
「何でだよ?」
「あの人、恵さんを脅してたらしい。翔也さんがさっき言ってた……」
「マジか、あの人が……」
その男は、翔也がトイレに向かった時、恵につっかかり怯えさせていた者だ。今も、辺りを睨みつけながら壁に凭れかかっている。素性を知り、彼とのコミュニケーションを諦める地景。大人しく作業に戻ろうとすると——
「うわぁぁぁ!!!」
「助けてぇぇぇ!!!」
モール中に響く悲鳴と足音が、地景たちの鼓膜を刺激する。声のした方に目をやると、大勢の人たちが必死の形相でこちらに走ってくる——否、逃げてくる。
「地景、逃げろー!!!」
その大勢の中には、こちらに向かって叫ぶ翔也と恵の姿。窓の封鎖を担当していた班が、どう言うわけかこちらに走ってくるのである。息を切らし、地景の肩を掴む翔也に状況を聞く。
「何があったんだ!?まさか、天使が入り込んできたとか!?」
「……違う、天使じゃない。あいつらだ……」
その言葉と同時に、ある方向に翔也が指を指す。同じくその方向に、地景たちも目をやる。
「あいつらは……!」
よろよろと、壁や地面を這ってこちらに向かってくる、真っ黒な人の形をした何か。かつて、地景を地面に引き摺り込もうとした悪魔が、このモール内に蔓延っているのであった。
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