episode7

 伊集院が部屋から出ていった後、俺は抜けがらのように床に転がっていた。空っぽの俺というかたまり。試験勉強はおろか、食事をることも風呂に入ることも眠ることもせず、ただ、ゴミのように床に転がっていた。

 長かった夜もすでに終わりを告げ、カーテンの隙間からは陽光が差し込んでいる。今の俺にはその光がまぶしすぎて、避けるように床の上を転がる。天井を見つめながら、伊集院のことを恨めしく思う。

 柊はなんの病気なのだろう。治る病気なのだろうか。……死んでしまうような重い病気だったら、そう考えると不安と恐怖で押しつぶされそうになり、両手で顔をおおう。

 いつもより長く孤独な夜の間、この恐怖に支配され続け頭がおかしくなりそうだった。

「柊さん」

 思わず柊の名前を呟いた。すると突然、携帯が鳴り、俺はビクリと身体を震わせる。

「……な、んだよ」

 寝転がったまま床に放置していた携帯を手に取ると、秋山の名前がディスプレイに表示されていた。

「はい」

「祐一? お前、どこにいんだよ。試験あと三十分で始まるぞ」

 聞き慣れない秋山の切羽詰せっぱつまった声。ああ、試験。忘れていた。

「今、家」

 寝転がりながら答えると「はぁ?」という素頓狂すっとんきょうな秋山の声が聞こえた。

「今から行くよ」

「今からって……間に合うのか?」

 心配そうな秋山の声をよそに「分からん」と素っ気なく答えた。

 月宮館から大学まで徒歩で約二十分。走ればギリギリ間に合うだろうと軽く考えていた。

 秋山からの返事がない。とうとう呆れられてしまったか。ボソボソと誰かと話している声が、かすかに聞こえた。

「秋山?」

「今、堺さんが車で迎えに行ってくれるって。外で待ってろ!」

 突然の秋山の言葉に、俺は慌てて起き上がる。貧血で一瞬目の前が真っ黒になる。

「そんな、いいよ!」

「いいって! あの人、買ったばかりの車で迎えに行くから、あらゆる賛美さんびの言葉を使って褒めとけよ」

 秋山が携帯を切った。

「ええっ?!」

 クラクラする頭を押さえながら立ち上がり、急いで服を着替えて俺は部屋から飛び出した。

 追試を受けるつもりだったのに。

 ――俺は、どうしてこうも他人ひとに迷惑をかけてばかりなんだ。自己嫌悪に陥りながら、階段を駆け降りた。

 しばらくすると、赤いコペンが俺の目の前に止まった。

「おそよー」

 運転席の窓を開け、今日は前髪を斜めに流した堺が顔を出した。思っていたよりも随分と小さい車だった。どうめればいいのか悩んでしまう。

「堺さん、すみません」

 恐縮する俺に堺は、「いいよ、気にするな。乗って」と笑いかけた。俺が助手席に乗り込むと、「じゃあ、行くよ」と堺がアクセルを踏み込んだ。

 グリーンのチェックのネルシャツとブラックデニムをいた堺が、少し窮屈そうに運転席に収まっている。長身の堺とこの小さなコペンのアンバランスな感じが予想外に似合っている。難点は、運転席と助手席の距離が近すぎることか。

 細く入り組んだ道を右へ左へと器用にハンドルをさばきながら、「いいとこ住んでるね」と堺は横目で俺を見た。

「海外赴任中の親戚の家を借りてるだけです」

 俺は遠慮がちに言う。

「お、ラッキーじゃん」

「……ええ、まぁ」

 俺は目を伏せながら答え、「車、いつ届いたんですか? 秋山から車を買ったって聞きましたけど」と話題をらした。月宮館の話はしたくなかった。

「あ、コレ?」

 堺はハンドルをポンポンと軽く叩き、

「一週間前。もう、乗りまくり」

 話題がれたことにホッとしつつ、「彼女とですか?」と俺は尋ねた。

 堺ならば、彼女の一人や二人――いや、二人もいらないが――いてもおかしくない。しかし意外にも堺は「いないよ」とあっさりと否定した。

「ほんとですか?」

 聞き返すと「君に嘘ついてどうするんだよ」と堺が笑った。

「確かに」

「アッキたちと同じく、わびしい独り身だ。だからジンやアッキ、滝川を一人ずつ乗せてドライブしてるよ。優しい先輩だろ? アッキとは海を見に行ったよ。嫌そうだったなぁ、アイツ」

 俺は思わず、吹き出してしまった。

「すみません」

 謝りながらなおも笑っていると、「ま、男二人でこの車は窮屈きゅうくつだよな」と堺も笑った。

「どうしてこの車を選んだんですか?」

「可愛いだろ? 小回りきくし」

 普通の軽自動車でも十分小回りはきくと思うが、それは言わないでおこう。迎えに来てもらっている身としては、ここは素直に同意しておいたほうが賢明けんめいだ。


「ほんと、すみませんでした」

 正面玄関まで車を乗りつけてもらい、礼を言うと、「いいって。あの教授さ、そういうのに厳しい人なんだ。気をつけた方がいいよ」と堺が言った。

 ――そうか。だから、わざわざ迎えに。

 俺は自分の考えの甘さに恥ずかしくなった。

「ま、あとは君次第だ」

「頑張ります!」

 俺が力強くうなずくと、堺はクスリと笑った。

「頑張れよ」

「はい、ありがとうございました」

 もう一度堺に礼を言うと、俺は車から降りて走り出す。試験まであと十五分。絶対に間に合わせなければ。

 だが、思いとは裏腹に身体が思うように動かない。不摂生ふせっせいな毎日を送っていた上、寝不足もあってか何度かつんのめって転びそうになる。

「くっそー!」

 俺は叫びながら、がむしゃらに手足を動かして校舎へと急いだ。目指す校舎が見えてきたところでラストスパートをかける。そのまま減速せずに校舎の中へと走り込もうとした時、こっちへ歩いてくる柊の姿が目に入った。

 俺は思わず足を止める。

 息を切らしながら柊を見つめていると、俺に気づいた柊も足を止めた。眼鏡をかけた柊は何冊かの本を抱え、じっと俺を見つめる。表情のない柊の顔から何もうかがい知ることができない。

 俺は唇を噛み、柊に背を向け走り出した。堺の好意を無駄にするわけにはいかない。階段を駆け上がり、教室に飛び込むと秋山の表情がホッとしたようにやわらいだ。息を切らしながら席に着く俺に彼が駆け寄る。

「お前、知らなかったのか? この教授」

「さっき、堺さんに聞いた」

 上手く呼吸ができずに咳込む俺を呆れて見ながら、「あっぶねぇなぁ、お前」と秋山が言った。

 俺は肩をすくめてみせる。

 本当だ。なにしてるんだろ、俺――。

 しかも、正面玄関から教室までの激走で試験を受ける気力すら残っていなかった。

 おろかにもほどがある。

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