第6話



 ◆ ◆ ◆

 

 

 スワロイヤ領で暮らし始め、数ヶ月が経過した。

 用意された部屋は日差しがよく入る南向きで、歓迎されているのがよく分かる。

 胸に湧き上がった何かに気がつかないふりをして、ベッドに腰掛けたまま首を振った。

 買われた身で無相応だと思う反面、これくらいは優遇してもらわねば割に合わない。なにせ初日からこの瞬間まで、銀行に預けられた金が減り続けている事が現実なのだ。

 ケイトは悪魔のような女で、居候生活で発生する全てを、一億から差し引いているのである。

 食費や衣類、教育の為の文具、教本……。様々なものが勝手に差し引かれ、命を削られていく。

 なんて理不尽なのだと、内心で悪態をついてベッドに寝転がった。

 十分な金がある。だがは分からない。十分な金があるのに、不安を抱えて生活しなければならない事が、もはや怒りを通り越して、焦りすら感じるほどだった。

 ケイト・デル・スワロイヤという女は、領主として忙殺される日々かと思えば、意外にも屋敷にいることが多かった。

 もちろん、オスカーと共に執務室にこもっていることが常だが、貴族外出する機会はあまりない。一度だけ問いかけた事があったが、彼女曰く、元王族としてその辺りは免除されているらしい。

 やや腑に落ちない説明であったが、屋敷内の全員がケイトの外出に消極的なので、そのようなものかと納得した。

 スワロイヤ領に招かれてから、オスカーの特訓を受け、ケイトの我が儘に付き合わされ、あっという間に時間が過ぎていく。

 それでも忙しい時間の中、一人になったふとした瞬間に思うのだ。


 ──お前は何をしている?


 こんな場所で安寧に過ごして、一体、何を得ようとしているのだろう。

 自分自身が、己を嘲笑う声がする。

 お前にそんな資格があるのかと、いずれまた、悪意の手が伸ばされるのではないかと、自責と不安で精神は押し潰されて揺らぐのだ。

 先ほどまで晴天だった空に、暗雲が近づいている。四角い窓は大きく、しかしどこにも行けない己を表しているようだった。

 一人でいる時の思考は毒だ。両手で顔を覆い、息を吐き出す。

 何も考えないまま、いっそ、全てを手放してしまえたら。


「きゃあっ!」


 悲鳴と共に何かが転がる音がして、慌ててベッドから飛び退いた。何事だと慌てて扉を開ければ、二階に続く階段の下に、ケイトが目を回して蹲っている。

 周囲に散乱している本の様子から、どうやら足を滑らせたらしい。

 そういえば今日は、軍部の用件と言って軍人三人は出かけていた。スーゼアとジャンネも、庭の方にいるのだろう。仕方なく近づけば、彼女は頭を押さえてこちらを見上げる。

 若干、肌が青褪めていて、よほど強かぶつけたらしい。流石に不憫に思い、片手を差し出した。


「大丈夫か、室内でも怪我はするんだぜ。気をつけろ」

「ありがとう、アレックス。それにしても、痛いわね……!」


 憤慨しつつ手を取り、ふらつきながら立ち上がる。引っ張り上げた体は想像より軽く、少しばかり驚いた。

 彼女は文句を言いながら、散らばった本を集め始める。様々な本や書類は数が多く、ひ弱な女が持てる量を超えているのは明白だ。

 見かねて腕を伸ばし、書類をまとめて腕に抱える。見れば、セカンダリースクールを目指す学生用の、募集要項が記載された書類のようだった。

 オスカーの特訓のおかげか、読み書きも思考能力も、随分と自分のものに出来てきている。それが幸か不幸かはまだ分からないが、問題なく書面を確認できるのは、利点なようにも思えた。

 領主に必要なものか、と疑問に思いつつ、彼女の両手にある本も持ち上げてやる。


「二階だろう」

「あら、持ってくれるの? ありがとう」


 柔らかく笑ったケイトは、背中を向けて階段に足を踏み出した。

 二階は主にケイトの私室になっているようで、暮らし始めてから唯一、足を踏み入れたことのない領域だ。

 そもそも彼女は、基本的に一階の執務室に居て、それ以外はリビングにいる事が多いので、私室を利用する頻度は少ないのかもしれない。

 二階に着くと、ケイトの部屋の他に、もう一部屋あった。オスカーの部屋だろうかと、少し興味を惹かれて近寄ると、ケイトが部屋からこちらを呼ぶ声がする。


「アレックス、入っていいわよ」


 一瞬、そんな簡単に異性の入室を許可して良いのか、と苦言を呈しそうになった。だが彼女にとって自分は、異性の括りに入らないのだろう。自分から見ても、ケイトは女ではあるが何の色気もない。

 軽くため息をついて扉を潜れば、予想外に、部屋は物で溢れていた。

 戸棚に並べられた本は、漫画本も専門書も括りがなく、小物や衣類すら無造作に乗せられている。天井のファンには船の模型がぶら下がり、一定の速度で回っていた。ベッドの枕元は少女らしいぬいぐるみで埋もれ、机の上は本が積まれて、整理された形跡もない。

 あまりの雑然さに拍子抜けしていると、ケイトは書類や本を受け取って、また無造作に積み上げた。


「……もう少し、片付けられねぇのか……?」

「仕方ないじゃない。これでも片付いている方よ」


 あっけらかんとのたまうケイトに呆れ、もはや怒る気にもならない。

 早々に退散しよう踵を返すも、腕を掴まれて再度、室内に連行される。


「お、おい、何しやがる!」

「どうせ急ぐ用事もないでしょ。ちょっと話を聞きなさい」


 ぬいぐるみを避けた彼女は、ベッドに座るように促した。先ほどの書類を手に持つと、紐で綴じられた冊子をこちらに差し出す。


「ねぇアレックス。あなた、学校に行きなさい」

「……は?」


 押し付けられたのは、先ほど一瞬目を通した、セカンダリースクールの募集要項だ。

 セカンダリー中等教育と言っても、誰でも通える場所ではない。

 タイリッカ国でも、リースギン国でも、その識字率が低いのは、庶民が通える学校が整備されていないからだ。

 学校は貴族が通うもの、などという身分云々の話ではない。

 裕福な豪商の子息女であれば可能だが、入学金が高すぎるのだ。

 庶民の給金では到底賄えず、たとえ入学したとしても学費が払えず退学など、ザラにある。

 日常生活に困らない程度の文字書きが出来れば、そう考える国民も多いため、必然的に貴族学校となっている場所だった。

 訝しげな視線を向ければ、ケイトは椅子を引き寄せ、腰を落ち着かせる。


「ごめんなさい、性急な対応だったわ。でも、学校に通わせたいのは、本当。……オスカーとの特訓は楽しい?」

「……楽しそうに見えるのか、お前には。……まぁだが、有意義な時間だとは思うぜ」


 突然の話題転換に面食らいながら返事をしてやれば、彼女は目尻を下げて微笑んだ。

 最初は反発しかなかったが、いざオスカーと向き合うと、新しいことに触れる楽しさを感じるようになった。

 一日の特訓が終了した後の焦燥感はある。それでも慌ただしい時間は、自らの深層心理に向き合わずに済むのだ。


「……そう。よかった」


 至極満足そうに笑うケイトに、不思議な感覚を覚えて口を開く。


「……お前と総統閣下は、親子だよな?」

「そうね。そうよ?」


 投げかけた疑問に、ケイトが一瞬、目を伏せた。それはすぐに笑みの中に隠れて、赤い双眸が柔和に細まる。

 屋敷で暮らし始め、少しずつ時間も経過し、とある疑問が浮かぶ時がある。

 ケイトとオスカーが、どうも親子とは思いにくいのだ。

 本当に血のつながった親子なのかもしれないが、彼女の出自の歪さも相まって、他人行儀でよそよそしい。屋敷に住まう他の人間に対しては、大切にしている事が伝わってくるが、オスカーに対しては距離が遠いのだ。

 ケイトの中で唯一、オスカーの居場所だけがポッカリと抜けているように。


「親子という割には、あまり接点がないように見えるが」

「わたしもオスカーも、忙しいのよ」


 しれっと答える彼女の瞳に、揺らぎは見受けられない。優雅に両足を組んで、指先で短い髪を弄る。

 領主である彼女にとって、家族も領民も分け隔てなく、という信念ならいいだろう。それでもオスカーに対し、あまりに何事も無さすぎるのだ。

 例えば朝の挨拶、日常の他愛無い挨拶、何気ない疑問。ケイトがオスカーに対し語りかけているところを、一度も見たことがない。

 いつも聞こえてくるのは、業務内容の確認と、了承か否かの返事。世間話など論外だ。

 

「そもそも、お前は元王族じゃないのか」


 至極真っ当な疑問を突きつけると、ケイトは瞠目し、ややあって苦く笑った。


「ああ……そうね。アレックスには話してなかったわ」

「何がだ」

「オスカーがわたしの父なのは、本当。あの人は、王妃のなの」

「…………、……なん、……」


 予想外、──否、予想したくなかった結論に、自身の意思とは関係なく狼狽えてしまう。


「国王陛下は、子供に恵まれなかったらしいわ。何人か側妃がいて、正妃争いが勃発したの。わたしの母は野心家で、何が何でも子供をこしらえたくて、オスカーに一服盛ったんですって。妊娠したと分れば、対応が違ってくるでしょう? お腹の子供が誰の血をひいていようと」


 彼女の母、現王妃が秘密裏に手を回した医者の見立てでは、子を授かれない原因は国王にあったらしい。だから現王妃は、他の男の種子を得る強硬手段に出たのだ。

 その被害者が、当時、辺境伯であったオスカーなのだと言う。


「でも、オスカーの名誉の為に言うけれど、彼は相手が国王の妻だと知らなかったのよ」

「どういう、意味だ?」

「たまたまスワロイヤ領に訪れた旅芸人の一座に紛れて、踊り子として近づいてきたらしいわ。……そしてお酒を酌み交わしたの」


 その一座が、最初から罠であったのか、単なる隠れ蓑であったのかは分からない。

 辺境の地を護る部下たちの、少しでも気休めとなるよう、オスカーは一座を歓迎し酒の席を設けた。

 その善意が悪意に塗り固められ、たった一夜で、己の立場の全てが危うくなることも知らずに。

 二の句がつけず口を閉ざしていると、彼女は肩をすくめて、視線を逸らした。


「あなたが、わたしとオスカーの距離を感じるのは、そういうことなのかもしれないわ」

「…………」

「それよりアレックス。話を戻しましょう。オスカーにあなたの特訓が順調だと聞いたから、今現在の目標として学校に通って欲しいのよ」


 軽く両手を叩いて話を切り上げ、ケイトがこちらの顔を改めて覗く。


「一応、セカンダリーの資料を取り寄せたけれど、どこに編入できるかは分からない。その為の勉強も、オスカーが見てくれるわ」

「……いや、ちょ、……待て待て、勝手に話を進めるな。学校? そんな金がどこにあるんだ?」

「あら、我が領地にある学校の入学金や学費は、王都と比べて格安よ?」

「そんな話じゃねぇんだよ……!!」


 冗談ではないと、慌てて話を遮った。

 一億は着実に毎日削られ、この間など、ベルギスが気まぐれに剣の稽古などつけたせいで、食器戸棚を一つ倒しているのだ。もちろんほとんどベルギスの給金から差し引かれたが、こちらも無傷だったわけではない。

 学校に通うなどしたら、文字通り命を縮める行為。はっきり言って自殺行為だ。

 鬼気迫る勢いで訴えると、彼女は目を瞬かせた後、心底つまらなそうに鼻を鳴らす。


「ああ、そう。アレックス、自信がないのね」

「…………何?」

「わたしより年上のくせに、学校に入れる自信がないのかと、聞いているのよ」


 人を小馬鹿にした様子で、片手を額に当てたケイトは、わざとらしいため息をついた。

 明らかに演技がかった仕草に、こちらの額にも青筋が浮かぶ。


「そうは言いていない。金があれば、いくらでも……」

「『金がない』を、免罪符にしているんじゃないかしら」


 言葉を遮り、ケイトが更に言葉を畳み掛けてくる。そして、新しい玩具を目にした子供のように、ニヤリと笑って見せた。


「あら、いいえ、分かってるわ。本当に自信がないんでしょう? いいのよ。あなたに学術的な才能がなくたって、我が屋敷には置いといてあげる。オスカーの指導に耐えられたからって、わたしがあなたの能力を高く見積もり過ぎたわ」

「……お前、聞いていれば、散々なこと言いやがって……!」


 まずい流れだと、脳裏で冷静な部分が止めにかかるが、眉間に深く皺を刻み、声帯は勝手に震えて言い返す。

 自身の性格上、馬鹿にされて黙っていられるほど、大人にはなりきれない。

 ケイトは唇を三日月に歪めると、組んでいた足を解いて、背中を丸めた。そして両膝の上に肘をつき、両手を組む。

 年端もいかぬ少女には似つかわしくない、悪い顔で目を眇めた。


「無理しなくていいのよ?」

「無理などしていない!」

「じゃあ、その意味通り、死ぬ気で勉強して見せて」

「望むところだ……! ……あ」


 叫んだ瞬間、失言に気がついて動きを止める。

 今更後悔しても、もう遅い。彼女は打って変わった花のような笑みで、背筋を伸ばして首を傾けた。


「そう言ってくれると思ってたわ!」


 上手く誘導された感覚が否めず、しかし口を出てしまった言葉は戻らず、歯噛みして顔を逸らす。頭を掻きむしって、ぬいぐるみを巻き込みながらベッドに倒れると、彼女は笑って肩をすくめた。


「ああ、面白い。アレックス、あなた、きっといい男になるわ」

「それは褒めてんのか、貶してんのか……」


 地を這う声で睨んでも、ケイトには全く効果がなく、更に声を上げて笑うだけだった。

 




 

 

 


 


 

 

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