〇3

「……非常識にも、程があるね」

 真紅に染まった濃い鮮血が、白い皮膚から静かに垂れる。妙に熱を帯びたそれを、村雨は指で丁寧に掬った。

「親しくもない赤の他人に、競技の邪魔をされるなんて。これじゃあ、タイムもクソもないじゃないか」

「とぼけるな。貴様の言う『赤の他人』は、この世界での話だろうが」

 その言葉を聞いた瞬間、村雨の目から温度が消えた。せわしない木々のざわめきが、冷めた空間を覆いつくす。

「貴様の顔は、腐るほど見た。皮膚を裂かれ、筋肉を切られ、内臓をえぐり出された。そのたびに、俺は誓った。貴様のありとあらゆる神経を断ち切るまで、貴様のことを恨み抜くと」

 村雨は悟った。こいつは全てを知っている。想像を絶するほどの執着で、自分の命を狙っていると。

「……なるほどね。おかしな奴だとは思っていたけれど、これでようやく分かった」

 首筋を流れる、汗を拭った。そして、今までの全てを思い出した。

「前の世界、その前の世界、それよりずっと前の世界……。俺がどこへ行こうとも、君は俺を殺そうとした。――俺とは違う、何か別の力を使って」

 思考を続けた結果、村雨はこう結論付けた。氷神の持っている力は、「パラレルワールド間を移動する」自分とは、似て非なるものだと。


 凡人にとってのパラレルワールドは、あくまで可能性の一つでしかない。とある選択をした結果、その他の世界を無意識に捨てることになるのだから。しかし、村雨は違う。彼は自分の選択が過ちだと気づいた瞬間、その他の世界へ行くことができる。それがつまり、パラレルワールドを自由に移動できる能力となっているのだ。

 だが氷神には、パラレルワールドを移動している気配はない。彼は自分の身体を動かして、自分の望む世界へ移動することはできないのだ。……つまり彼の能力は、「別の世界にいる自分に、自分の記憶を引き継ぐ」ものだろう。身体は動かさずとも、記憶だけ継承できれば、何の問題もない。そして、憎悪の感情は強い。まさに、世界を跨ぐほどに。


「懲りない奴だね、君も。俺が何回殺してやったと思ってるんだ」

 この世界も駄目だな。村雨は頭の片隅で、静かにため息をついた。彼は完璧な理想をもって、自分にとって都合の良い世界を選択し続けている。……今回は、さほど悪くはなかった。夢城とだって、上手くやれていた。もう少しで、手に入れられそうだった。

「君が邪魔さえしなければ、俺は確実に、理想の世界を見つけられる。俺が幸せになるのが、そんなに嫌かい?」

「黙れ……! 貴様の幸福だけは……!」

 氷神は顔を歪ませ、そしてとある名前を零した。……それは村雨にとって、かつて面識のあった女のことだった。彼女は氷神の愛した姉であり、村雨が最も嫉妬した相手だった。

「姉を殺したのは、貴様だ……! 全ての世界からはじき出され、その存在自体も消え去った……! 貴様のくだらん理想像に、俺は唯一の肉親を、殺されたんだぞ……!」

 ――ああ、あいつかと、村雨は思った。が、それ以上でもそれ以下でもなかった。純粋に、あいつは邪魔だったのだ。

「元はと言えば、あいつが悪い。先輩面して、夢城君に近づいてさ。あまりに鬱陶しいから、分岐点の狭間で殺しただけだ」

 あのときは、ほとんど「奇跡」と言っても良いぐらいの確率で、氷神の姉を「なき者」にできた。現に今、村雨は頭を抱えている。姉の方は上手くいったが、弟の方だけは、どうしても上手くいかない。姉弟揃って消えてくれれば、理想の世界に行けるはずなのに。

「――貴様は、いつもそうだ。俺は『夢城』という男が憎い。八つ裂きにして海に沈めたこともあったが、それでも姉が還って来ることはなかった」

 当たり前だろと、村雨は思った。それと同時に、夢城が殺された世界を思い出し、凄まじい吐き気に襲われた。

「……あのときは、本当に殺気が湧いたよ。君の身体をひき肉にしても、足りないぐらいにはね」

 ……遠くの方で、声が聞こえたような気がした。Nクラスの参加者が、ゴールしたのかもしれない。

「少し、喋りすぎたかな。いい加減、君の顔を見るのもうんざりだ」

 村雨は軽蔑の目線を送ると、仇敵と一気に距離を詰めた。どこからともなく現れた、光の刃を握りながら。


 ――この世界が駄目ならば、別の世界に行くだけだ。


 彼は求め続ける。無数の世界のどこかにある、完璧なまでのシナリオを。

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