第5話・私はまだ、ここに居たい

 今年もまた、桜が無節操に花を咲かせる季節がやって来た。

 桜はずるい。何も考えずに一度に咲くからすぐに散ってしまうだけなのに、その散り方さえも「儚い」として人間達に高く評価されている。

 それに比べて自分はどうだ。


 母体である老木を見上げ、杏子(あんず)は独りため息をついた。本来ならば桜などには負けない薄紅色の花を付ける杏の樹。年のせいか、最近はまばらにしか咲くことが無い。これではとても、人間達に愛でられる対象にはなり得ない。

 杏子は杏の一級精霊である。精霊は、人間達に存在を認識されて初めて精霊たり得る。誰からも認識されない精霊は、悪戯に年月を費やし、徐々に朽ち果てていくのだ。母体である老木と共に。最後には抜け殻と成り、霊魂は消えてしまう。


(そんなの嫌。私はまだ、ここに居たい)

 だからこそ頑張らなければ。来年こそは満開にしてみせるぞと杏子は気合を入れる。

 だが彼女がそうやって気合を入れれば入れる程に老樹に掛かる負担は大きくなり、結果として寿命を早めてしまうことになるのだった。

 そして、彼女が頑張らなくても救世主はやって来る。


「よー。あんずー」

 杏子が望む、望まないにかかわらず。彼女を理解する唯一人の人間が毎日律儀に遊びに来る限り、彼女が完全消滅することは無いのである。


「もう、良平さんったら。あんな遠くから叫ばなくても……呼ばれるこっちの身にもなって欲しいものだわ。おまけにあんな大きく手まで振って。ああ、恥ずかしい」

 走って来る青年に手を振り返しながら、杏子はそう呟いた。口では文句を言いながらも、その表情は穏やかだった。何だかんだで悪い気はしない彼女なのであった。


 そんな二人の様子を、天高く見下ろす存在が在った。

 雲雀(ひばり)に変化した桜の一級精霊である。普段はこんな高く昇ることは無いが、今回はヤボ用があった。


「──ちゅーわけなんよ。だからこっちは抑え目にしてもらえんかなぁ?」

「わかりました。できる範囲で加減はしてみます。ですがこちらも仕事ですので、ある程度は”さらす”ことになりますよ」

「ええよ。その代わりウチんトコ派手にぶちかましたってや。みんなびっくりするでー。今から楽しみや」

「相変わらずの気性ですね……まあ良いでしょう。それでは、皆に伝えて来ます」

 そう言って飛び去る黄砂の二級精霊。


「そっちこそ、相変わらず生真面目やなあ。毎年毎年、砂ばかり運んで来んでもええのに……」

 思わず呟き、桜の精霊は下界を見下ろす。あの二人はまだ痴話喧嘩を続けている。いつも思うが、実に楽しそうだ。

 もちろん、人間との交流自体は彼女も経験している。毎年この季節ともなれば大勢の花見客が訪れ、彼女達を愛でながら酒を酌み交わすのだから。けれど人間達はあくまで「彼女達」として一括りにしか見てくれない。多数の中の一人でしかないのだ。それがちょっと不満な彼女にとって、一対一で人間と接することのできている杏子は羨ましい存在だった。


「ええなぁ杏子ちゃんは。普通風の少ない場所には悪い気が溜まり易くなるもんやけど、あんたんところにはほとんど無いわ」

 黄砂は砂を運ぶだけではない。砂を運ぶのは大陸よりの風だ。風とは大きな大気の移動。大気は循環し、この星は常に新鮮な空気に満たされている。黄砂もまた、春を運ぶのだ。桜の精霊たる彼女もまた、そのことは良く知っている。

 春になれば、人は騒ぐ。桜の周りではそれが当たり前だったが、慣れていない杏の精霊はさぞかし仰天するだろう。


「さてと。ウチはそろそろ戻ろうかなぁ。月見をしながら花見酒っていうのもオツやしねぇ」

 今宵も人々は酒を持ってやって来るのだろう。それはとても騒がしいが、決して嫌いではなかった。たまに暴走して樹に傷を付けたり、枝を折ったりする輩も居るが。そんな奴らに全力でお仕置きするのもまた、精霊の愉しみの一つだった。


「ぺっぺっ。うげぇ、砂が喉に入っちまった」

「馬鹿声ばかり上げるからですよ。きっと黄砂の精霊にでも粛清されたんでしょう。どれ、私が洗浄して差し上げますわ」

「お。キス? キス来ますかひょっとして」

「……蒸散!」

 ぼかん。掌から放った空気の弾丸は、狙い違わず青年の眉間を打っていた。倒れる彼の様子を見、ガッツポーズを取る杏子。


「ふふん。さすがは私。今日も冴え渡るツッコミです」

「…………」

「……って、あれ? 良平さん? いつもならここで『それツッコミじゃなくて弾幕』だとか何とか返してくれると思うのですが」

「…………」

「良平、さん?」

 杏子が呼びかけても、良平は身動き一つ取らなかった。ゆさゆさと揺さぶってみても何の反応も無い。


「え、嘘。まさか、そんな」

「…………」

「嘘、ですよね? そんな……良平さん!? お願い……お願いですから、返事して下さいよ」

「…………」

「良平さん」

 当たり前だが、人間はいつか死ぬ。精霊と違って大地に還元される訳ではないが、死ねば自我を忘れる点では同じだ。


「嫌。嫌です、私。だって私、まだここに居たいのに……貴方と一緒だから、居たかったのに」

 だからこそ、精霊は人間と同じ死の痛みを味わうことができた。死の概念を理解できるからこそ、悲しみを感じることができた。輪廻は転生する。だが、その時にはもう、その人は別人になっている。前世の何もかもを忘却し、後に残した人のことなど気にすることも無く、新たな生を謳歌するのだ。そうして巡るのが、人間にとっては自然なことだった。

 だが、精霊たる自分と人間とでは寿命の長さがまるで違う。人間が生を繰り返す間も、精霊は精霊で在り続ける。記憶だけを積み重ねて、ただ生き続けていく。「はじめまして」と「さようなら」の繰り返し。決して忘れることは無く、悲しみだけが増していく。


「良平さん。私は貴方と、もっと一緒に。ずっと一緒に居たいの」

「俺もだ」

「……え?」

 零れ落ちる水滴を、彼は掬い取っていた。


「悪い。死んだフリでもすりゃあ、お前の本音聞けるかと思ってさ。

 ──すまん。やり過ぎたな」

 そう言って苦笑する彼の目には、彼女の表情がどのように映っただろうか。

「う」

「う?」

「うわあああああん。良平さんのバカあああああああっ」

 ぷしゅー。全身から水蒸気を噴出しながら、杏子は良平に抱き付いた。


「うおっ!? なんじゃこりゃあ!?」

「わ、私達植物の精霊はっ、感情が昂ぶるとっ、こ、こんな風になるんですっ……もう! そんなことはどうでも良いんです!

 あ、あなたがっ、りょうへいさんがっ、無事だったなら、それで良いんですっ……ぐすん」

「あんず。お前」

 杏子は泣いていた。人間と表現方法は違えど、それは紛れも無く涙であり。誰よりも近くで彼女を見てきた青年は、そのことを理解していた。


「安心しろ。俺はお前の傍に居てやるから。絶対、どこへも行ったりしないから。約束するよ。

 だから。もしも、俺が死んだらさ。お前が俺を、ここに埋めてくれ。そしたら俺達、永遠に一緒だぜ? お前の中で、俺は永遠に生き続けることができるんだから」

「……もう。縁起でもないこと言わないで下さい」

「はは。まあ当分、死ぬ予定は無いんだけどな」

「……たら」

「ん?」

「もしも、私が先に死んじゃったら。この樹の近くに、苗木を植えて下さい。それはきっと、私じゃない私だけど。精霊の生命は循環するんです。きっと新しく生まれて来るその子が、貴方の支えになってくれると思います」

 そう言って。

 泣き腫らした顔で、杏子は微笑んだ。

 彼女は予感していた。

 そう遠くない未来に、別れはやって来るのだと。


 それが、人間を愛してしまった精霊の宿命なのだ。

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