正しい文法規則

◇正しい文法規則はあるか

正しい文法規則に従わなければ小説を読んでもらえない、という意見を見かけることがよくあるよね。「てにをは」とか、句読点の打ち方とか、段落や改行や三点リーダーの用い方とか、語彙の正確さとか。基本に則っていなければ「読む価値なし!」の烙印を押されるというわけだ。

果たして本当にそうだろうか?


実際のところ、キツネの短い一生のあいだにも文法規則は変遷している。ら抜き言葉が市民権を獲得しつつあることは周知の事実。WEB媒体が現れてからは、改行のルールに随分と幅が出てきたようだ。文法というのは言語の運用におけるコンセンサスに過ぎない。運用が変われば文法が変わるという当たり前の事実を忘れると、「正しい文法がある」というドグマに囚われることになる。


◇正しさの可変性

現代日本の〈小説〉という分野は、坪内逍遥『小説神髄』と二葉亭四迷『小説総論』において用意されたとみるのが一般的だ。小説とは、浮き世の様々な形(フォーム)を描くことで、意(アイデア)を表現するものだという。さて、この「形を描く」方法を試行錯誤し、言葉と文章の関係を結び直すところにこそ、小説の真価がある。二葉亭四迷が成し遂げたのは正しい文法に則って文章を書くことではなく、文章を書くことによって日本語の可能性を押し広げることだった。これにより二葉亭四迷『浮雲』は言文一致運動の嚆矢となった。同じようなことが、ロシアではプーシキンによって行われた。プーシキンはその作品によって、ロシアの近代文章語を確立したといわれている。同様に、セルバンテスは『Novelas ejemplares』によって従来の形式に囚われない新しい叙述を生み出したと評価されている。

既存の正しさに従うのではなく、新しさを求めるからNovel(原義:新しい)=小説なんだね。


辞書に書いてある語釈の通りに言葉を使わないといけないと勘違いしているひとは少なくない。最近、とある行為が「座り込み」に当たるかどうかが問題となっていたけれど、その正解を辞書に求めるのは誤りだ。辞書は従来の用例を採集し、整理したものに過ぎない。つまり辞書は定義を与えることができない。このことは辞書の編纂者が強調していたよ。現在進行形でどういう意味を持つのかは、現在を生きる者の生きた発話による。


正解がわたしたちの外部にある、という勘違いは怖ろしいね。それは目の前の可能性を制圧しかねない。実際には、正しさとは、正しさを探求する共同体における当面の合意のことだ。その内容は可変で、「こっちのほうがよくない?」「よいかも〜」で移り変わるものだ。


◇正しさの流動性

とはいえ、この〈共同体〉というのが曲者で。共同体が省エネを求めるときには、正しさの流動性は大いに下がる。科学の共同体であれば、理論の整合性がとれなくなったときにパラダイムシフトする。芸術の共同体は新奇な提案を希求している。しかし、娯楽の共同体は必ずしもそうではない。娯楽というのは一般に、労働に対する余暇であって、労働を再生産するための装置、つまりは社会の現状維持に奉仕するための道具であるから。社会そのものへの異議申し立ては娯楽の役割ではない。そのため、飽きに対する刺激は求めるけれど、難解なものは求めない。娯楽小説が読みやすくなければならない理由はここにある。読みやすいというのは、よく知られている文法規則や語彙に従っており、物語の構造に一定のお約束があるということ。エンターテイメントほど縛りが大きい所以だろう。


にもかかわらず、エンターテイメントも時代によって変遷するよね。これは、そもそも社会のほうが変化していってしまうので、現状維持の手段が変わっていくということが一つ。また、飽きによって既存のものの価値が風化してしまうということが一つ。結局、娯楽であっても新しさからは逃れられない。むしろ、意識の上ではみんな新しいものを求めている。実態としては現状維持バイアスがかかっているけれど。バイアスがあるからこそ、それを崩すものへの憧憬もあるのかもしれない。


◇娯楽の中の芸術

というわけで、冒頭の問い。正しい文法規則に従わなければ小説を読んでもらえない、という例は事実としてある。けれど、正しさとは今まさに〈あなたとわたし〉の間で生成されゆくものなのだから、むしろ、小説=Novel=新奇なものの名に賭けて、「このような新しい規則はいかがですか」と提案してみるのはよいだろう。そこで新しいコンセンサスが生まれれば、それは既存の正しさへの異議申し立てであり、芸術でさえある。

そう、娯楽を娯楽の内部から突き破ることで芸術に至る。もしかしたら、娯楽を享受している者もまたその瞬間を待ち望んでいるかもしれない。娯楽の中の芸術は、次なる娯楽の礎石となるのだろう。

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