第29話

 次の日の朝からは、もう、戦いだった。

「杉本!すーぎーもーと!もう起きないと遅刻だって!」

「ん〜…無理。上條、先、行って」

 言った瞬間から、杉本はもう寝息をたてている。

 んもーっ!ああ、もう出ないと電車に乗り遅れる。

「後から絶対、来いよ!」

 俺は叫ぶと1人でアパートを飛び出した。


「あれ?上條くん、今日も真咲と待ちあわせ?」

 結局、いつもの電車には乗れずに駅で相田さんとかち合う。

「うん…まあね」

 朝からぐったりと疲れた俺はもう、相田さんの問いかけには適当に答えてやり過ごす。

 今朝だけで10回は起こした。明日は何回、起こせば杉本を遅刻させなくて済むだろう。

 いや、回数の問題じゃない。きっと薬が強すぎるんだ。次の診察のとき医師に相談する必要があるな、と俺は自分の頭に刻み込んだ。

「あ〜今回の期末、私、ヤバいかも〜」

 相田さんが空を仰いだ。

 そうだった…俺、他にも刻み込まなきゃいけないこと、たくさんあるんだよ!物質の化学式も高次方程式も近代ヨーロッパの成熟も単語も熟語も漢字も!まだ全然、頭に定着していない。

 俺は、はあ〜とひとつ、大きなため息をつく。

「上條くん、疲れてる?」

 相田さんが俺の顔を覗き込んで言った。

 うん、疲れてる。今日はちゃんと、空気読めてるね、相田さん。


 結局その日、杉本は2限目の途中にやって来た。

 その時間はまたしても武田先生の数学で、「あれ?杉本また元に戻ったか?」と言われてしまった。

『10回、起こしましたよ』と、心のなかで言い訳する俺。

 そしてあんなに朝、起きられなかったくせに昼にはもう元気で、相変わらず1人でどこかに姿を消した。


「今日はどこでお昼食べたの?」

 帰りの電車の中で杉本に訊ねた。

「んーなんか、階段下。行ったら篠宮たちがいて一緒に食った」

「篠宮?あいつ喋るの?」意外な組み合わせに少し驚いた。

「篠宮は全然、喋んない。むしろ、ずっと嫌そうな顔してた。もう1人のやつがすげー喋るんだよ。なんだっけ、ふつクラのブロッコリーみたいなやつ」

 ああ、あの、同じ養護施設にいるっていう…。あいつと杉本の間に何の共通の話題があるというのか、まったく想像出来ない。

「何の話、してたの?」

「児童養護施設ってどんなとこ?とか」

 直球だな…。

「兄弟がいっぱいいる感じだよ〜たまに入れ替わるけどねって言ってた。そしたらそいつ…あ、そうだ山口だ。普通すぎて覚えらんなかった。山口が、杉本くんちも訳ありらしいね〜とかって。俺んちのことって、そんなに有名なのかな」

 有名かどうかは知らないが、山口もなかなかの直球だ。案外気が合うのかも知れない。

 俺と居るときとどっちが楽しかった?なんてベタなことは訊かないよ。そんなのどうみたってただの嫉妬だ。嫉妬?あれ?もしかして…篠宮も嫉妬してたんだろうか…。いや、考えすぎか。


 その日の夜から、俺は本気で気合いを入れて勉強し始めた。さすがにやらないともうヤバい。

 杉本も俺の向かいでなんとなく教科書とノートを広げているけれど、ゴロンと寝そべったりスマホをいじったり、落ち着きがない。

 さらに「ねえ、上條〜」と声をかけてくる。

 なんだよ、うるさいな。俺、今、化学反応式を覚えるのに必死なんだよ。過酸化水素、にーえいちつーおーつー→にーえいちつーおー+おーつー、塩化ナトリウム、にーえぬえーしーえる→にーえぬえー…

「チューしていい?」

 ポキ。

 思わずシャーペンを持つ手に力が入ってしまい、芯を折って飛ばした。

 はあああっ?!いや、おまえがスキンシップ好きなのは知ってるし、今までもちょいちょいされてたけど…さすがにそれはちょっと過ぎるだろっておい!やめろ、その『待て』をされているときのワンコみたいな目。俺はそういうのに…「い…い…けど…」…弱くてつい、許してしまう。

 杉本が『待て』を解かれたワンコの勢いで嬉しそうに俺のところへ来ると、俺とテーブルの間の狭い隙間に体を滑り込ませ、向かい合わせの姿勢で俺のあぐらをかいた足の上に腰をおろした。

 そして俺の肩に手を置くと、ゆっくりと顔を近づけて俺の唇に、触れる。触れる。触れる。触れる。触れる。いや長いな。触れる。触れる。いやいや、ちょっと待て!ちょっと待て!さすがにこれ以上は……ヤバい。色んな意味で。

「はいっ!終了!」

 俺は杉本の肩を掴むと、無理矢理向こうへ押しやって引っぺがした。そして杉本が不服そうに頬を膨らませるのを横目に「先に風呂、入るね」と立ち上がった。その後、風呂場で俺が何をしたのか、それは言うまでもない。


 期末テスト当日。

 俺はテスト期間だけは、絶対、杉本を遅刻させてはならぬと、寝ている杉本を寝たまま制服に着替えさせ、まるで命を持たない荷物のように脱力した杉本を担ぐように起き上がらせた。朝ごはんはパス。前日にスーパーで仕入れておいた惣菜パンを、杉本の鞄にずぼと突っ込んで自分の鞄と一緒に持ち、「ほら、歩くよ」と腕を抱えて、ほとんど引きずるようにアパートを出た。


 電車の中では取り敢えず寝かせておき、乗り継ぎ、下車後から学校まではまた腕を抱えて歩き、教室の席に座らせてからは、寝てしまわないようにずっとそっちを気にしていた。

 視界の右端でカクンと首が揺れる気配がするたびにビクッとして、なんとか堪えている杉本の姿を確認して安心する。そんなことの繰り返しで、1限目の終業のチャイムが鳴ったとき、化学の答案用紙は3分の1くらいが白紙のまま提出されることになった。


 散々だったテストの出来を気にしている余裕もなく、俺と杉本は、予約していた時間に病院へ行った。

 医師に寝すぎてしまうことを告げると、「じゃあ睡眠薬を半分にしてみましょう」と言われて、調剤薬局で半錠に割って個包装された薬を渡された。

 明日こそは安心してテストを受けられますように、と祈るような気持ちで杉本がそれを飲んで寝るのを見届けたけれど、残念ながら結果はあまり変わらなかった。


 怒涛のテスト期間が終わり、次々と返却されてくるテストを見て俺は絶望的な気分になった。

 まだ全部返ってきたわけじゃなかったけど、ほとんどが今まで受けたテストの中で最低の出来だった。おそらく順位も大幅に下がっているだろう。

 杉本は赤点いくつあるだろうか。もう4限目に入ったというのに、まだ右隣は空席のままだ。

 俺たちこのままじゃ駄目になる。2人揃って駄目になる。なんとかしなくちゃいけない。次はどうするべきなのか、考えるんだ、俺。


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