第20話

 そろそろいいかと制服を夏服に替えた、少し汗ばむくらいの5月の陽気の中、武田先生が黒板の前で複素数について説明している声を聴きながら、俺は教室の自分の席に座って右隣の空いている席を横目で見ていた。


「明日、姉ちゃんが引っ越す」

 そう言って杉本が、俺の部屋のベッドで枕を抱えながら天井を眺めていたのが昨日のこと。最近、杉本は毎日のように俺の部屋で学校が終わった後の時間をだらだらと過ごしていた。

 じゃあ明日は見送りかな、と俺はローテーブルに向かって勉強していた手を止めて考えた。そしたら案の定、今朝俺のスマホに『今日、学校休む』という杉本からのメールが入った。それが朝の5時半という早い時間だったのには驚いた。着信音で一度起こされた俺はおかげで少し眠い。

 杉本は昨日、そんなに落ち込んでいる様子でもなくて、なんだかそれが逆に心配になった俺は、学校が終わった後、杉本の家に行ってみることにした。


 いつもの様に、杉本んちの石垣をよじ登ろうとしたとき、囲いの切れ目の向こうが何やら騒がしいのに気がついた。

 俺は石垣を登るのをやめ、囲いの切れ目に向かって歩いていく。囲いが切れて視界が開けた先は歩道のついた二車線の広い通りになっていた。

 ここまで来たのは初めてだったけど、どうやらそっちが普段、人が出入りする、ちゃんとした杉本家の正面らしい。

 目線の先にまず入ったのは、ベッドやタンスやドレッサーなどの家具、そしていくつものダンボールを積み込んだトラックの後ろ姿だった。丁度荷物を詰め終えた青い制服の業者らしき人がトラックの後ろ扉を閉めている。

 その横に、数人の人の輪。

 エプロンをした年配の女性が2人。そして上品なニットにロングスカートを身にまとい、厚化粧をした40代くらいの女の人。その横に俺と同い年くらいの女の子。それらの輪の中心にいるのは紛れもない、杉本が『俺の姉ちゃん』と写真で紹介してくれたその人だった。

 杉本のお姉さんは、おそらく家政婦さん、そして義理の母親、妹と何やら談笑している。

 そして、そんな別れの儀式を行っている人々を、少し離れたところで眺めている杉本が居た。

 杉本は、丁度、俺に背を向けていて、どんな表情をしているのか俺からは見えない。足元の裸足にサンダルが、かろうじて悲しみを滲み出している。

 その背中は微動だにせず、まるで劇場の座席から、舞台の上の出来事でも眺めているかのように、そこだけが異質な空間になって浮き上がっているように見えた。

「真咲」

 お義母さんたちと話していたお姉さんが、優しい顔で杉本の方へ寄ってくるのと同時に「あ」と杉本の後ろでぼんやり突っ立っている部外者の俺に目を留めた。

「真咲の友だちじゃないの?」

「え?」

 杉本が振り向く。

 そして意味もなくビクッとしてしまった俺に向かって「上條…」と呟いた。元気はないが、とりわけ落ち込んでいるわけでもなさそうな表情だ。

 何故、お姉さんは俺のことを杉本の友だちだと見破ったんだろう?と一瞬パニクったけど、答えは簡単、弟と一緒の高校の制服を着ていたら誰でもそう思う。俺は学校からそのままここに来た。

「約束してたの?」

 お姉さんが杉本に向かって訊ねた。

「あ、いえ、違うんです!俺が勝手に来ただけで。すみません、お忙しいときに」

 俺は杉本の代わりに、手を横に振りながら早口で答えた。

 家族の儀式を邪魔してしまったにも関わらず、お姉さんは優しい顔をしたまま俺に向かって「ごめんなさいね、ちょっと取り込んでしまっていて。もうすぐ行きますので、良かったら上がってゆっくりしてって下さいね」と上品に微笑んだ。

 そして杉本に向き直ると「たまには帰ってくるからね。ちゃんと学校、行くんだよ」と言って両手で杉本の左手を、ぎゅっ、と包み込んだ。

「うん…」杉本が力なく頷くと、「じゃあね」と笑顔で手を振り、お姉さんはお義母さんたちの前を通り過ぎながら「また顔出します」と会釈をし、どうやらトラックの前に停まっているらしい乗用車に乗り込んだ。

 杉本と俺を除く全員が、わらわらと乗用車の窓に集まって手を振っている。

「杉本…」行かなくていいの?俺は杉本の背中に近寄って声をかけたけど、杉本はその場から動こうとはしない。

 やがて乗用車が発進し、その後に続いてトラックも走り出した。

 遠ざかるトラックの背中が小さくなっていくのを最後まで見届けることなく、杉本は無言で俺の腕を取ると、俺を引っ張って広い門をくぐり敷地内に招き入れた。こっちから入るのは初めてだ。


 門を潜る瞬間、こっちを見ていた義理の母親と目があった。

 この人が、杉本を締め出した人…。

 冷たいとも温かいとも思えない、なんとも言えない雰囲気を感じた。

「真咲さん、お茶を持っていかせましょうか?」

 義理の母親が杉本に向かって声をかけ、家政婦さんの1人がソワソワし始める。

「大丈夫」

 杉本が答えた。素っ気なく。


 正面から見ると改めて杉本んちは広い。

 門を入ると向かってすぐ左に、いつも杉本がいる家があって、右側に畑、横に駐輪場、その奥にガレージ、さらにその奥に、一体何LDKあるんだろうと思うくらいの大きなお屋敷があった。杉本の住む純和風の家とは違って少し洋風で、二階のバルコニーが無駄に広い。庭はほぼ砂利だったけど、門からお屋敷に続く場所はコンクリートで舗装されていて、横に広がったお屋敷の大きな窓の前だけが綺麗な芝になっていた。バーベキューでもできそうな雰囲気だ。

 思わず見入っていると、杉本にまた、ぐいと腕を引かれて、俺たち2人は杉本の住む家に入った。


 入ってすぐだった。

 俺が引き戸を閉めた途端に、先に入っていた杉本が靴も脱がずにくるりと振り向くと、俺の肩に顔をうずめた。

 俺は一瞬息を飲む。

 杉本が顔を埋めている方の肩が、じんわりと温かくなっていく。

 杉本が泣いているのだ、と理解するまでそんなに時間はかからなかった。

 俺の肩が制服越しにどんどん濡れていくのがはっきりわかる。杉本はなんの声も出さない。ただ、不規則に息を吸ったり吐いたりする音だけが聞こえる。声を殺して泣く。言葉だけは知っていたけど、実際そうしている人を見たのは初めてだった。

 俺は持っていた鞄をそのまま下に落とすと、何の躊躇いもなく杉本の背中に腕を回した。

 頭を撫でたかった。でも抱き寄せる手を緩めたくなかった。代わりに俺は唇を、すぐ目の前にあったレモン色の髪に押し当てた。

 するとそこがスイッチであったかのように、杉本は顔をパッと上げて、濡れた目で一瞬、俺と視線を合わせると、ゆっくりと目を閉じながら、俺の唇にキスをした。

 俺は黙って、杉本の唇が放つ熱をじっと受け止めた。

 2人で玄関の三和土に立ったまんま、暫くの間、身動きもせず、ただ唇を合わせていると、不意に杉本が唇を離して「ごめん、またしちゃった」と俺の視線を避けるように俯いた。

 俺は、大丈夫だよ、の代わりに、杉本の頬に手を滑らせて上を向かせると、もう一度、唇を合わせた。

 杉本が少しの躊躇いを置いて、でも弾かれたように俺の背中に腕を回す。俺もその上から包み込むように背中に両腕を回す。

 そして唇を離し、更に体を密着させるようにしっかりと抱き締めた。

 そしてこのとき俺ははっきり自覚することになる。

 自分が如何に『自ら巻き込まれていく』のが得意かということを。

 俺は杉本の耳元に口を寄せて囁いた。

「俺んちで一緒に暮らそう」




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