第17話

 クズ野郎だな、そいつ、と杉本が言うのを聞いて、おまえも女の子に『ちょいちょい』手を出してたんだろと思ってチクリと胸に痛みを感じつつ、そろそろ家に帰ろうと後片付けを始めた。

 ティーポットの中身を三角コーナーに捨て、お皿やカップと一緒に洗い、シンクの上に干してあった布巾で拭いて食器棚に仕舞って、パウンドケーキの型をゴミ箱に捨て、テーブルの上を電子レンジの横に見つけた除菌シートで綺麗に拭いた。

 俺がテキパキと動いている間、杉本は所在なさげにウロウロしながら、顔だけは一緒にやってますを装っていたけど、実際はまったく戦力になっていなかった。


「明日は学校来るよな?」

 塀の上から顔だけ出して俺を見下ろしている杉本に、こっちは道路から見上げる格好で訊ねる。

「起きれたらね」

「いや、起きろよ」

 俺の突っ込みに杉本は、ふはっ、と笑って「頑張る」と手を振った。

「じゃ、明日」

 俺も手を振って、杉本家に背を向けて歩き出した。

 外はもう薄暗かったけど、俺の心はなんだか明るく、うきうきとした気分になっていた。

 ふと暫く歩いてから後ろを振り返ってみると、杉本はまだ塀の上から顔を出してこっちを見ていて、俺が振り返ったのを見てもう一度手を振ってみせた。


 その日の夜、シャワーを浴びながらモヤモヤとした気分になった。間違えた。ムラムラとした気分になった。

 普通に生きているだけで、3日に1回くらいこれがやって来る。『溜まってくる』ってやつだ。

 俺はシャワーのお湯を止めると、浴槽の中で立ったまま壁に片手をついて、空いた方の手をもう既にうずうずしている自分のモノに持っていった。

 目をつむって頭の中に歩とヤっていた頃の記憶を手繰り寄せる。

 終わった相手とのセックスをオカズにすることになんの感傷も湧きはしない。そこには本人は関与していない。オカズはただのオカズだ。

『いいね、麻也』

 初めてキスで自分から舌を入れたとき。

『上手だよ、麻也』

 求められ、歩のを咥えて舐め回したとき。

『敏感になったね、麻也』

 後ろから挿れられて、思わず声が漏れたとき。

 …駄目だ、なんかのらない。その時…

『すげぇな、上條は』

 バチン!

 突然ブレーカーが落ちたように頭のスイッチが切り替わり、思わずつむっていた目を開いた。

 今日、腰にすがりついた杉本の匂いを思い出す。頭を撫でられた感触も。そしてこの部屋で、まだ好きかどうかもわからなかった頃、激しく舌を絡ませあって、今みたいに1人で抜いた。

「…っ」

 筋肉がぎゅっと収縮したあと、一気に弛緩した。

 手の中にあるものが、どくんどくんと脈打つ。

「はぁ…っ」

 全部出し切るまで肩で何度も息をついたあと、シャワーのお湯を出して汚してしまった壁を洗い流し、自分の体も流した。

 こういうことになるのか…。

 俺はこうやって、杉本を想いながら1人で抜いて、やがて高校を卒業してこの気持ちをいつか忘れる。いや、卒業を前に消えてしまうかも知れない。歩への恋心を失くしたように、人を想う気持ちなんていつどうなるかわからない。

「あ」

 しまった。席が隣じゃないか。こんなことしていて、授業中に思い出したらどうしよう。

「席替え無いんかな…」

 狭いユニットバスの中で1人呟いた。


 体育の授業の着替えの時間、俺はなるべく教室の隅っこで後ろを向いて着替えるようにしている。クラスメイトは当然、全員、俺のことはわかっているわけで、そんな俺の目線を気にする人はいるだろう。いや正確には俺の目線を気にする人を俺が気にする。だからその時も俺はみんなに背中を向けていたわけで、後ろに杉本が迫っていることにまったく気づいていなかった。

「ねえ〜、上條〜」

「うわあああっ!!」

 上半身裸になっていた俺の体にいきなり後ろから抱きつかれて、俺は思わず大声をあげた。

「なっ…なっ…なんだよっ!」

 慌てて杉本の腕を振りほどきながら振り返ると、まだ制服のままの杉本が困ったような顔をして立っていた。

「俺、体操服、忘れちった」

「知らねーし!他のクラスのやつに借りてこい!」

「え〜〜」

 杉本は、ぶー、と頬を膨らませると、トボトボと教室を出ていった。

 その場に取り残された俺がハッとして周りを見回すと、みんなが動きを止めて、俺の方を凝視している。

 俺は曖昧に笑顔を浮かべ、くるっと背を向けると、再び壁の方を向いて着替えの続きを始めた。


 今日の体育は持久走だ。

 キツい…。日頃の運動不足が祟る。

 俺が横っ腹を押さえながら息も絶え絶えにトラックを走っていると「よっ」と片手を上げながら、涼しい顔をして走っている高橋が横に並んだ。

 あれ、キミはさっき俺の前を走っていたような…てことは俺、周回遅れか!くそっ。

「さっきのさあ、あれ、良かったよ」

 高橋が並走しながら話しかけてきた。さっきの?もう返事をする気力もない。

「着替えのとき。杉本とやり取りしてたの」

「良くは…ないでしょ」

 何を言い出すんだ、と思わず疲れも忘れて答えた。

「いや、上條いつもちょっと無理してる感あったからさ。さっき杉本と喋ってたとき、素が出てた感じがして良かった」

 高橋が悪びれもなく言った。

 別にあれが素ってわけじゃない。杉本に引っ張られてああなってしまうだけだ。でも持久走という苦行で少々酸欠を起こしかけている頭では上手く答えることが出来ない。

 かたや高橋は涼しい顔のままで「もっといつも、あんな感じでいいと思う。あと、着替えのとき、あんな隅っこで着替えなくていいよ。誰も気にしないから」というと、じゃ、と笑顔で俺を置いて先に走って行った。

 いや、気にする人は気にするでしょうよ、と答えたかったけど、高橋はもうすでに何メートルも先を走っている。

 さすが特進クラスに居ながらにしてサッカー部もこなすスーパーDK高橋。人当たりも良く面倒見もいい。キミはきっと、いい会社に就職して、美人の奥さんと結婚をし、休日には息子と公園でサッカーをする。俺には手に入れることの出来ない夢だ。と、多少、いやかなりヒガミの入った妄想をしながら持久走の苦行からしばし逃避した。

「あと、いっぷ〜ん!!」

 体育教師がタイムリミットを示す掛け声を校庭中に響き渡る声で叫んだ。

 あと、1分も走るの?!トラックの内側には、既に1500メートルを走り終えた数人が談笑している姿が見える。もちろん高橋もいる。

 杉本は、結局、体育の時間には姿を見せなかった。


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