第15話

 自分のアパートに帰ると、既に暗くなっている部屋の電気をつけて、床に鞄と解いたネクタイを放り投げた。そのままドサッとベッドに横になる。夕飯を作る気力はない。そもそも空腹を感じていない。

 頭の中で、さっき俺の目の前でコップを弾き飛ばした杉本の姿が何度もリピートされていた。

 怒らせた。いや、傷つけた。

 どうして杉本があんなに俺にちょっかいかけてくるのかはわからないけど、おもちゃにしてるわけじゃないことぐらい猫でもわかる。

 なのになんであんなことを言ってしまったんだろう。

 『怖かったんだよ』

 頭の中で誰かが囁いた。何に?

 さっきから杉本との記憶の合間に朧気に浮かんでくる記憶の断片が、段々とその輪郭を現していく。

『麻也』

 優しく俺を呼ぶ声。

 呼ばれただけで体がジワッと熱くなっていた。

 でも今は思い出しても何も感じない。

 俺の初めての人…歩と出会った日のことを俺は思い出していた。


 歩とはネットの掲示板を通して知り合った。そういったものを利用するのは初めてだったし、会う約束をしたときも、怖い目に合いはしないだろうかと内心ドキドキしながら待ち合わせ場所に向かった。

「朝くん?」

 待ち合わせた、よくわからない変な形の銅像?の前で立っていると、後ろから呼ばれて振り向いたそこには、俺よりも背の高い茶色い髪をした、大型犬のように人懐こい顔で笑う男の人が立っていた。

「Ayuさんですか?」

 俺より少し年上らしい彼に話しかけた。

「うん」

 彼は嬉しそうに笑った。

 それから少し2人で喋りながら散歩して、すぐに「俺んち来ない?」と誘われた。彼は地方出身の大学生で、親元から離れてアパートで一人暮らしをしている、という情報は得ていたので、部屋に誘われるということはどういうことなのかという意味をちゃんと理解しながら「うん」と答えていた。

 ワンルームの部屋に入ると、すぐにベッドに2人並んで腰掛けて、彼が緊張している俺の肩を抱き、右手で顎を上向かされてキスをされた。

 キスをしたのは初めてじゃない。中2のときに、委員会の用事で居残りをしていたとき、教室で一緒にいた女の子となんとなく流れでキスをした。心地いいな、とは思ったけど、ちょっとした違和感はあった。彼女は嬉しそうにしていたけど、俺は大して気持ちが動くことはなかった。とりあえず微笑んでみせたけど、彼女のように心から滲み出てくるような笑顔ではなかったと思う。でも今は…。

 だんだん息があがっていく。でもまだ緊張は解けない。舌で唇を舐られた。ゾクッとする。ここから先はしたことがないよ。

「初めて?」

 俺の緊張を察した彼が唇を僅かに離して訊ね、俺は正直に「うん」と答えた。

「あはは、カッチカチ〜」

 彼が陽気に笑いながら俺の肩を両手でさすった。

 続いて「こっちもカッチカチ〜」とおどけて俺の股間に手をやるので、思わずビクッとしてしまう。

 実際は緊張からそんなに『カッチカチ』にはなっていなかったと思う。

「怖い?」訊かれてとっさに「大丈夫」と答えた。嘘だ。少し怖い。予備知識は一応、仕入れてきたものの、頭の中でシミュレーションするのと実際に体験するのとは訳が違う。相手が居るなら尚更だ。初めてって誰でも怖いもんじゃないの?それとも俺だけ?

 まだ強張っている俺に構わず服を脱がされて、改めて彼の目的が、俺と恋愛を始めることではなく、こういうことをするために呼んだんだと思い知らされ軽くショックを受ける。

 でもそんなのお互い様だ。俺も今日、そのために覚悟を決めて来た。

 教室でキスをした女の子は、俺の煮えきらない態度に愛想をつかせて口も利いてくれなくなった。でもあのときは、好きになれるかなって思ったんだよ。それまで男しか好きになってこなかった俺でも、女の子と恋できるかなって。でも無理だった。だったらもうやることは決まりだ。

 俺は高校生になってすぐ、出会い系サイトで相手探しを始め、Ayuというニックネームの彼と何度かやり取りをし、そして今ここにいる。目的はひとつ。『俺をそっちの世界に連れてって』

 裸にされて、そのまま彼の手ほどきで目的を達した。触られたときは気持ち良かったけど、挿れられたときは正直、苦痛の方が大きくて気持ち良かったかどうかなんてわからなかった。でも2度3度と体を重ね、呼び方がニックネームから本名に変わり、歩の匂いや足音のクセを覚える頃には、俺は歩に抱き締められるだけで『カッチカチ』になってしまう体になっていた。


『それ』に気付いたのは、割と早い段階からだった。不自然に減っていくコンドーム。煙草を吸わない歩の部屋に置き忘れられたライター(多分わざとだ)。俺みたいに部屋に出入りしている男が他にもいるということは明らかだった。

 そしてそれを隠そうともしない歩。価値観の違いを感じながらも、そこには目を向けないようにしていた。

 俺はあのとき、ちゃんと悲しんだだろうか。ちゃんと怒っただろうか。ゲイなんてこんなもんだと、無理やり自分を納得させてはいなかっただろうか。

 あのとき押し込めた感情が、また顔を出すのが怖かった。

「杉本…」

 杉本が俺を揺さぶる。もう、わかった。俺に向かって背中を向けていたものが、ゆっくりとこっちを向いて現実を突きつけた。

 杉本が好きだ。でももう恋をするのが怖い。










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