第39話「それでも妹は『お兄ちゃんはわたしをすきになる』と言う」
別に何か特別なことがあったわけじゃない。
ただ、今日はバイトが休みで、まだ新しいバイト先は手続きが残ってたりして、ちょっとだけ時間に余裕があったから、校舎内を歩いていた。
乾いた打球音とブラスバンドの音を背に、緋色差し込む三階の廊下を進む。
場所すら知らなかったはずなのに、導かれるように――俺はここにいた。
油絵具の独特の刺激臭にふと視線を上げると、室名札には『美術室』と書かれていた。
「…………小町先輩」
ドアの窓から中を覗くと、そこには自身の体より大きなキャンバスに向かう一人の少女がいた。
たった一かけらの雑念もなく、鋭く細めた瞳を持って一心不乱に筆を置く。
そこには、普段の気の抜けるような柔らかい表情はなく、床に敷かれるように差し込んだ陽の光も相まって神秘的だとさえ思った。
彼女が絵を描いているところなんて初めて見た。
初めて見た彼女の真剣な姿は、何も感じないというには熱烈だ。
だから、目を背けてしまおうと踵を返すと、教室のドアに肘がぶつかってしまう。
鈍い音が鳴り、こちらに気づいた小町先輩と視線が合った。
「あ、後輩くん!」
「あ、えっと……」
どうしようかと視線を彷徨わせていると、小町先輩が柔らかい笑顔を浮かべて手招きする。
ここで逃げるのもおかしな話で、俺は彼女の隣へ行って、空いている椅子に座った。
「すみません、邪魔しちゃって」
「ううん、私もちょうど休憩しようと思ってたところだからいいの」
小町先輩は筆を置くと、うーんと大きく伸びをする。
「それにしても、珍しいね? 私に何か用事あったのかな」
「いえ、偶然、本当に偶然気づいたらここにいて」
「ほほう、これは後輩くんの細胞が絵を描きたいって叫んでるって証拠だね」
「…………えっと」
「冗談だよ、別に何かなくてもいつでも遊びに来ていいんだよ。部員と言ってもまともに活動してるのは私くらいだし」
「なんか気を使わせちゃってすみません」
「ううん、私先輩だもん! これくらい普通だよ。蓮くんも何か描いてみる? ほら、別に入部どうとかじゃなく軽い気持ちでさ」
「いえ……俺は……」
咄嗟に否定の言葉が出るが、今俺が断ってもおかしくない理由なんてないように思えた。
だって、暇で適当にぶらつててここに来ただけで、時間がないからなんて言えるような状況でもなくて、だから俺はただ――。
「蓮くん、素直になったらいいのに。意固地になってるだけでしょ」
そう、今小町先輩が言ったように、意地になってるだけなのだ。
少なくとも、今描かない理由はそれしかない。
でも、それと俺が間違ったことをしているかというのは別の話で、やはり必要なことだとも思うのだ。
「そうかもしれませんね……」
「誰も後輩くんが絵を描くことを反対なんてしてないのにね。おかしいね」
「おかしい、ですかね」
「おかしいよ。でも、普通に頑張っても私の言葉は蓮くんに届かないんだろうなあ」
小町先輩は、隣に座る俺に背を向け、ぼうっと遠くの空を見ながら言った。
「そんなことないですよ、小町先輩には結構感謝してるし、小町先輩だからどうとかないですよ」
「私、そんなにいい先輩じゃないよ?」
「言葉じゃ言い表せないくらいいい先輩ですよ。だから、俺なんかに構わなくてもいいんですよ」
「私はね、ずっと自分のために動いてるよ。別に、後輩くんに幸せになって欲しいとか、そう思っての行動じゃないんだよ」
「それでも、俺が優しいって感じるなら、優しいんですよ」
小町先輩は普通じゃ考えられないくらい優しい。
お節介とも言えるかもしれないけど、突っぱねても突っぱねても諦めずに声をかけて、ずっと変わらず接してくれて、しつこくてちっこい先輩に俺は救われている。
なら、美術部に入ってやれよ、と言われたらそれはその通りなのだけど。
入る気はないくせに、彼女の存在に救われてて、なんて言う俺は自分勝手なクソ野郎だとは自分でも思うけど。
だから、彼女から離れてってくれれば楽なのに。
悲しいけど、それが一番いいと思う。
けど、俺はもうこれまでで散々分かっているのだ。
彼女は、そんな理由じゃ絶対諦めはしないことを。
「描いてよ――ッッ」
彼女は意を決したように力強く立ち上がると、筆の先の方を持って俺に突き出した。
手を上げれば、もうつかめる距離に筆がある。
小町先輩は水晶のように透き通っていて、尚且つ燃えるような情熱の秘めた瞳で真っすぐ俺を射抜く。
「――っ」
彼女に射抜かれて、思わず硬直してしまう。
「後輩くんの気持ちとかじゃないよ、私のために描いてよ」
「無理……です……」
「描きたいんだろ――ッ」
一歩、こちらへ、更に近くへ小町先輩は距離を詰めてくる。
「そりゃ……描きたいでしょ」
彼女の真っ直ぐな、真っ直ぐすぎる気持ちに、思わず本音が漏れてしまう。
初めて、彼女の前でその気持ちが表に出てしまった。
「だったら――」
「でも! 描きたかったら、描けばいいってそんな単純なことじゃないんですよ! 父が亡くなって、それから母が一人で俺と璃亜のこと育ててくれてて、そんなにお金にも余裕なくて…………母はいつ体を壊してもおかしくないくらいの働き方してて、少しでも力になりたいんですよ」
「蓮くん……」
「いい人たちなんですよ、母も、璃亜も。今のは母父の再婚相手で、でも、父が死んだ今でも血の繋がらない俺に優しくしてくれるんです。璃亜にも、俺のせいで余計な苦労をかけたくないんですよ!」
「だからって、蓮くんが全部我慢しなくちゃいけないの? 璃亜ちゃんと、お母さんとちゃんと話あってみた?」
「話せるわけないでしょ………………俺は何かを要求できるような立場じゃないし、それでも、優しいから…………ダメなんて絶対言わないんだから、言えるわけがない!!」
「でも、自分一人の思い込みでそんなのおかしいよ!」
「おかしくないでしょ!」
「璃亜ちゃんだってそんなこと望んでない」
「先輩になんで分かるんですか! やめてくださいよ、これ以上変なこと言うの。璃亜に迷惑かけたくないんですよ、母にも。それで、ちゃんと家族だって認めて欲しいんですよ。これって…………おかしなことですか?」
すごい剣幕で詰め寄って来る小町先輩に、俺は腰が引けて思わず視線を逸らす。
こんなこと言うつもりじゃなかった。
小町先輩に当たり散らすつもりも、話すつもりもなかったのに。
どうしてか、彼女の視線に当てられて、どうしても熱が灯る。
今回に関しては、悪い意味で。
小町先輩は俺の頬にそっと手を当てて、微笑む。
俺の今までの言動とか全てを、この話を聞いて得心が言ったように、優しく笑うのだ。
「うん、おかしなことだよ。だって、家族って互いに助け合うものでしょ?」
「…………っ」
「蓮くんは、家族になりたいって誰よりも思ってるはずなのに、それがどんなものか知らないんだね。それに、家族って認めるものとか、なってもらうものとかじゃないよ」
「そ、れは……普通ならそうかもだけど……っ」
「ふつうだよ。蓮くんだって、何も変わらないふつうの家族だよ。特別なことなんて何もないんだよ」
「そんなの、そんなので納得なんてできないですよ」
小町先輩の手を振り払い、立ち上がる。
論理的な言葉なんて何一つ思いつかなくて、正しいとか間違ってるとか、そういうのも全部分からなくなって……ただ、癇癪を起す子供のように小町先輩から距離を取る。
「れ、蓮くん!?」
ただここに居たくなくて、背を向けて駆け出した。
勢いよくドアを開けて、教室を出て、そこで――――。
「…………璃亜」
扉に背中をあずけて体育座りしていた璃亜と視線が合った。
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