第21話:美しく青きドナウ

 ネオ・ジーランドのマウンテン・ビューは小高い丘の斜面に広がる大きな農村地帯だ。主な産物はワイン用の葡萄、各種野菜類、それに羊。

 エクレアは一日の始まりにヘムロック教会の敷地から目前に広がる広い農耕地を眺めることが今では好きになっていた。日の出と共に起きだし、着替えてから園庭の縁へと足を伸ばす。

 朝靄に湿った空気が肌に心地よい。目の前には牧草地帯が広がり、まとまって寝ていた羊たちが目覚めてのんびりと草を喰み始めている。丘の向こうには太陽εエリダヌスが顔を覗かせ、目の前一面の農耕地では赤や黄色に色づき始めた葡萄の木が目に鮮やかな輝きを見せる。

(綺麗……)

 エクレアがこの景観を美しいと感じるようになったのは最近のことだ。それまでは景色のことなんて何も考えていなかった。

 教会の下の方には大きな川が流れ、そのまた向こうにはキングフィッシャー・パブのある市街地が広がっている。

 教会からまっすぐ市街地へと繋がる道路は舗装されていない。未舗装の泥だらけの道。だが、だからこそ空気が強く香るし、緑がより色濃く感じられる。

「んー」

 まだ誰も起き出していない園庭の端っこでエクレアは大きく伸びをした。

 また、一日が始まる。


+ + +


 地上でエクレアがのんびりと伸びをしている頃、OCV56アルテミスもちょうど地平線から顔を覗かせた太陽εエリダヌスに向かって高度千二百キロの中軌道M E Oを航行中だった。

 人工知性体のトピアは睡眠を必要としない。定期的に体内のサブ・ニューラル・ネットワークを軌道上のメイン・ニューラル・ネットワークとシンクロさせる必要はあったが、これも今ではバースト通信によって一瞬で完了する。

 そのため、トピアは命じられた雑用をこなしながら同時にタドポールのスウォーム攻撃の対策をのんびりとシミュレーションするという離れ業が可能だった。

 トピアは専用のタブレット片手に空母の舷側展望室の片隅、お気に入りの一角に陣取って作業を行うのを常としていた。なぜその場所が好きなのかというバレンタインの質問に対しトピアはただ「眺めがいいから」とだけ答えていたが、実のところトピア自身もどうしてその場所が落ち着くのかよくわかっていない。

「今頃エクレア大尉はアルテミスの真下にいるのね……」

 タブレットを操作して地上の様子をスキャンする。

 ……ネオ・ジーランド……マウンテン・ビュー市……ヘムロック教会……

 トピアはタブレットを操作してヘムロック教会を見つけると、数個の偵察衛星を乗っ取り極低軌道から光学装置を使ってヘムロック教会の探査を行い始めた。

 ヘムロック教会孤児院はすぐに見つかった。今日は晴天、教会の隣に位置するログハウス構造のヘムロック教会孤児院がよく見える。木造の教会孤児院には長細い居室棟が繋がり、その前には大きな園庭が広がっている。

 トピアは狙った領域に偵察衛星のカメラを固定すると、カメラを切り替えながらエクレアの姿を探した。

 数瞬の後、UNRO国連監察宇宙軍偵察局12号衛星とUNRO68号衛星から同時に報告。園庭に人影。女性一人。

 トピアは近場のUNRO衛星たちを使って園庭の人影を拡大した。短い金髪、簡素な服装。

 エクレアだ。

「こんな早くから何をしているのかしら?」

 トピアは不思議に思う。

 エクレアの過去の行動記録にこのようなパターンは残されていなかった。さらにシミュレーションを加速し、エクレアが何をしているのかを推測する。

 だが、トピアが答えに辿り着く前に極低軌道を飛行する偵察衛星はエクレアの頭上を通り越し、地平線の彼方へと消えていってしまった。

 仕方なくトピアは異なるUNRO衛星を捕まえると、先に獲得した座標情報を使ってそれらの衛星から地表の様子を伺ってみた。

 トピアのタブレットの中でエクレアがのんびりと伸びをしている。

 それはトピアが今まで見たことのないエクレアの姿だった。エクレアがこんなにリラックスしている姿を見るのは初めてだ。

「髪、伸ばしているんだ……」

 アルテミスに乗っていた時には常にバリカンで刈ったような短髪だった髪型が今では少しふんわりと伸びている。

 エクレア大尉が髪の毛を伸ばし始めるなんて。

 と、タブレットの中のエクレアはポケットから何かの紙片を取り出した。

 その場に座り、取り出した紙片を眺めている。

 好奇心に駆られ、トピアはエクレアの持っている紙片を乗り換えたUNRO衛星のカメラを使って最大望遠してみた。

 UNRO衛星のカメラがエクレアの姿を大きく捉える。エクレアが手にしていたのはどうやら何かのダンスのステップを記したもののようだった。

「……ダンスの、ステップ?」

 トピアが興味深く眺めるなか、エクレアが立ち上がった。姿勢を正し、その紙片を眺めながら一人でステップを踏み始める。

 トピアはエクレアの動きを衛星軌道上のメイン・ニューラル・ネットワークに送り検索を実行した。一瞬の沈黙。だがすぐにネットワークが答えを導き出し、応答を返す。

「……ワルツ」

 1、2、3……1、2、3……1、2……

 エクレアが一人でワルツを踊っている。

「これは、貴重な映像だわ……」

 反射的にトピアはカメラが送ってくるリアルタイム画像を録画しようとして……だが、すんでのところでそれは止めた。

 なぜワルツを踊っているのかはわからない。だが、これはきっとエクレア大尉にとってとても大切なことなのだろう。

 エクレアは真剣だ。ステップは辿々しいものの、一所懸命に練習していることが画面からも伝わってくる。

「…………」

 黙ってワルツを踊るエクレアの姿を見ているうちにUNRO衛星はエクレアの頭上を通過し、そして地平線の彼方へと消えていった。


+ + +


「トピア、なんか面白いことでもあったのか?」

 その日の夕刻、廊下ですれ違った時にトピアはバレンタインに呼び止められた。

「あ、隊長」

「珍しく楽しそうにしているじゃないか。何かあったのか?」

(なんでこの人には私のことが判っちゃうのかしら)

 今朝エクレアが一人でワルツを踊っているのを見て以来、トピアはなんとなく胸の高まりを抑えきれないでいた。なぜか胸がとても暖かい。

 人工知性体が胸の高まりを感じるというのも思えば不思議な話だが、どうやらバレンタインからはそれが丸見えだったようだ。

(今度はもっと上手に隠さないと)

 トピアはタスク・リストにそれを記録すると、バレンタインに今朝の出来事を話すことにした。

 どちらにしても隠しごとをして良いことは一つもない。

「実は……」

 場所を部隊のブリーフィングルームに移し、バレンタインに今朝エクレアを見つけたこと、それに彼女がなぜか一所懸命にワルツのステップの練習をしていたことを報告した。

「ふーん」

 バレンタインが鼻を鳴らす。

「じゃあ、トピアから見て今エクレアは楽しそうなんだな?」

「はい」

 国連監察宇宙軍の兵士は全員、身体状態を本部に通知するバイタル・モニターが胸にインプラントされている。アクセス権は一部の幹部たちに限定されているが、トピアには全隊員に対するバイタル・モニターへのフルアクセスが与えられていた。

「バイタル・モニターによれば、エクレア大尉は極めてリラックスした状態であると同時にこれからのことに関する期待感で興奮していると考えられます」

「ふーん」

 トピアはふと思い出すと上空から捉えたエクレアの姿をタブレットに写し、バレンタインに示してみせた。

 衛星から捉えたエクレアの一時記録。このデータはローカルキャッシュに保存され、メインのデータバンクに送られることはない。

 エクレアの姿からは枝が生え、そこにエクレアの身体状態が表示されている。

「これがリラックスした状態なのか?」

 バレンタインの目から見ると、枝の先に表示されている数値の羅列はまるで意味をなさない単なるデータだ。

 心拍、血圧、呼吸量に血糖値……。

 だが、トピアはその意味を正確に把握することができた。

「はい。エクレア大尉の身体状態は今までになく良好です」

「髪が伸びているな」

「はい。どうやらエクレア大尉は髪の毛を伸ばし始めたようです」

「へえ」

 バレンタインから見たエクレアは常に短髪で、ヘアスタイルなどに興味を示さない、可愛げのない部下だった。エクレアと比較したら彼女のナビゲーターであるルビアの方がよっぽど愛嬌がある。

「ヘムロック教会からの報告はあるか?」

 ヘムロック教会には定期的に報告をあげるようにと国連監察宇宙軍エリス防衛分遣隊司令本部経由で依頼してある。

「はい。セシル院長からもエクレア大尉の精神状態は良好、最近では周囲の人たちとも交わるようになってきたという報告が届いています」

「よかろう」

 バレンタインは椅子の背中に身を預けるとトピアに告げた。

「では経過良好、本隊復帰への道のりは順調に推移中と報告書を上げておいてくれ」

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