第5話 文字通り、時と空の彼方へ

「あら? イクエちゃんじゃないの。おはよう」

「おはようございます」

「今のところ、掃除はな――」

「掃除っていいましたよね? カナリアさん」

「いいえぇ、気のせいよ。用事って言ったの、よ・う・じ」


 シルダがとぼけるような仕草をカナリアがしている。だからすぐに誤魔化していることがわかった。

 そのまま掃除ようじがないことを再度確認して、育江たちは宿屋へ戻ってきた。もちろん、昼ご飯、晩ご飯になりうる買い物を済ませた上で。


 部屋に戻ってきたからか、シルダはご飯を食べたばかりだったから、ベッドでころんと寝っ転がって、気がついたら『すぴーっ』っと寝息をたてていた。


「まぁ、今日はいいんだけどね。さて、と」


 育江はテーブルに備え付けられている椅子に座った。テーブルの上にある水差しから、コップに水を注ぐ。インベントリからジョッキを出すと、コップの横に並べる。グラスとジョッキの距離はほんの数センチ。これでテーブルの上は準備完了。


「ぽちっとな」


 システムメニューを出しっぱなしにする。時空魔法の取得経験値が一なのを確認。


 育江にとって、これまで一度も試したことがない魔法だ。初級のものを唱えて、どのような現象が起きるかは、やってみないとわからない。レベル一の呪文が『目視物体転移センドオブジェクト』とあるので、一番安全なものを用意したことになる。

 育江は、グラスの水をじっと見ながら、呪文を口ずさむ。


「『目視物体転移』、……あれ?」


 不発だった。なぜそう言いきれるのかというと、魔力が減っていないから。


「あるあるですよねー」


 両肩を上下させて、肩の力を意識的に抜く努力、リラックスできればと思っただろう。


「『目視物体転移センドオブジェクト』」


 二回目ももちろん不発。もちろん、魔力は減っていない。


「まぁそもそも、成功してもからってさ、そのうちどれくいらいの確率で、経験値入るかがわかんないんだから」


 気楽に、今日でスキル上げを終わらせるわけではない。あちらにいたときは、課金アイテムに『スキル成功率n倍チケット』とか、『経験値取得nパーセント増量チケット』などがあったくらい。

 上がるときは上がる、上がらないときはとことん上がらないのがスキル。サイコロを振って、思った目を出るように祈って振ったとして、うまく収束することもそれは確率、まったく出ないのもまた確率。

 スキルを連打するように、何かを行動したからといって、必ず経験値が一は入ると思ってはいけない。経験値取得できるように当たりを出すためのロジックも働いてはいるが、その反面、経験値取得をさせないためにハズレを出すためのロジックも働いている。それが経験値取得のロジックだということ。

 これは育江ではない誰かが調べたと思われる事象を、育江が身をもって検証作業を市焚けっ結果、『そういうもの』だと納得した事実にほど近い現象だということ。なので、焦っても仕方がないのは重々承知の上。


「ただねー、早くなんとかしたいのは山々。シルダの育成も止まっちゃってるし……」

「ぐあ――すぴぃ……」

「寝言ですかー」


 とにかく地味に、何度も何度も重ねるように呪文を続けるだけ。当てるけいけんちをもらうためには、取得に成功する数以上のスキルを連打する必要があるだけ。

 スキルが上がったきっかけが掴めたなら、その方法を試して検証をしつつ、効率の良いスキルが下を続けていく、そのような努力は怠らない。これが育江のスキル上げの神髄だった。


「あれ? 経験値、そういえば失敗しても入るんだっけ? すっかり忘れてたかも」


 時空魔法、取得経験値欄の数字が、一から四に上がっていた。育江はスキルが失敗、不発だったとしても上がる場合があるのを忘れていた。これを一部では『失敗上げ』と呼ばれていた。


「けどねー、成功した方がもらえる経験値多かったはずなのよ」


 それもまた事実。空間魔法スキル上げの退屈さに比べたら、知らない現象が起きるのを待っているだけわくわくできる。このあたり、育江はまだまだゲーマー気質が残っているのだろう。


 育江はまた、グラスの水面をじっと見つめる。


「『目視物体転移センドオブジェクト』」


 すると水面が若干揺れたような気がする。システムメニュー上の残存魔力は、空間魔法でインベントリを利用するときよりは多く魔力が減っており、取得経験値欄も四から八に増えていた。


「……ということは成功? なんて地味な魔法なの?」


 となりのジョッキの底を見ると、若干濡れているのが見てとれる。グラスからジョッキへ、若干だが水が『転移』されたのは間違いない。

 熟練度ももちろん関係しているのだろう。成功した分だけ熟練度も上がることがある。それによって、多少は効果も違ってくるはずだ。


「『目視物体転移』」


「『目視物体転移』」


「『目視物体転移』」


「『目視物体転移』」


 育江はただひたすら『目視物体転移』を連打するのだった。


「――『目視物体転移』」


 経験値欄から見るに、百回目は優に超えた成功だったか。徐々に魔力の消費も多くなってきたのが実感したあたりで、やっとグラスに入っていた水がジョッキへ全て移し替えられている。

 PWOあちらでは、親切な人に教えてもらったりして、スキルや魔法の空打からうちから始めたことはあった。ただ、あのときは『初心者さん頑張って、応援チケット』があったから、ここまで地味な作業になったりはしなっかった。


 システムメニューの現在時刻を見ると、午前十時を越えたあたり。ギルドから戻って小一時間というところだろう。

 シルダはまだ気持ちよさそうに寝ている。寝る子は育つということわざがあるように、シルダもすくすく育っているのだろう。


 ジョッキからだと、水面を見るのが大変なので、ジョッキに移った水を育江は飲み干す。集中していたからか、初夏だからか。宿の中の室温は、どうやらマジックアイテムである程度調整されているようにも思える。

 けれど、喉からしみる水の味と香り、その美味しさも心地よさも、スキル上げを頑張っている充実感を底上げしてくれるくらいに、良いものだっただろう。


 新しく水差しからグラスに水を注いで、ラップ二週目。


「さて、頑張りますか『目視物体転移』、……よし、成功」


 ▼


 育江は、自分の服の裾が引っ張られる感触で我に返る。


「ぐあっ、ぐあっ」


 声の方を見ると、シルダが見ている。


「あ、あぁ。集中してたから気づかなかったわ。ごめんねシルダ」

「ぐあぁ……」


 シルダはうつむき加減でお腹をさすって、育江を見て恨めしそうな目をしている。


「はいはい、今あげるからね」


 するとシルダは、育江の隣の椅子を自分で引く。そこにちょこんと座り、口を軽く開けて待っている。


「ぐあっ」


 育江は、スキル上げに使っていた水差しとグラス、ジョッキを避ける。インベントリから持ち手が二つついた、大きめのジョッキを取り出すと、ストローを挿して水差しから水を注ぐ。

 実はシルダは、ストローを使って水を器用に飲む。口をぴったり閉じた状態で、右側か左側か、気分で変えつつ、ストローで水を吸い上げる。


「ぐあっ」


 『準備完了だからご飯』、そんな感じなのだろう。


「はい。シルダ」

「ぐぎゃ」


 いつものように『焼いただけの蛇肉』を美味しそうに頬張る。


「飽きないねー」

「ぐあ?」


 今日も一日お休みみたいなもの。シルダは満腹になると、ベッドでまた寝息をたてている。

 最近は、ギルドでカナリアの『お願い』を聞いていたからか、収入的にも余裕がでてきた。これといって贅沢をするわけではないが、前のように『今日は何をしようか?』と思えるくらいになるまでもう少しなのだろう。


「『目視物体転移』、『目視物体転移』、『目視物体転移』――」


 あと二割ほどで、レベルも上がる。そんな状態になると、水の転移は終えていた。空になったジョッキを一度見て、動かしたいテーブル上の座標ともいえる位置を見る。その状態で魔法を唱える。


「『目視物体転移』」


 十センチくらい移動しただろうか?


「おー」


 これだけでもそれなりに魔力を消費する。『ペットケージ』ほどではないにしても、二、三パーセント弱くらいは残存魔力のゲージ動いたかもしれない。


 とまじゅーを飲もうかと思ったけれど、最近は何もないとき朝一杯だけで我慢をしている。『何もないとき』とは、カナリアの無理な『お願い』のことである。

 それならその代わりになる呪文を使えばいい。


「『パルズマナ』」


 魔力回復補助呪文『パルズマナ』、これで十秒に一度、じわっと魔力が回復する。効果はとまじゅーと同じくらいだろう。


「よし、『目視物体転移』、『目視物体転移』……」


 連打しても、気にならない程度になっていた。


 更に小一時間ほど――

 一瞬、取得経験値欄が光ったような気がする。見ると、経験値の数値が一桁に戻っている。


「あ、もしかして上がった?」


 別に身体へ変化があるわけではないから、確認しないとわからないものである。育江は、時空魔法の行使可能呪文の一覧を見る。そこには、『目視物体転移』の次に『目視自身転移ムーブセルフ』というのが表示されていた。


「おー。『目視自身転移』ってどんな効果なんだろうね?」


 呪文の説明を見るが、別に何も記されていない。おそらくは、文字通りの効果ということなのだろう。


「すーっ、……はーっ。よし、『目視自身転移』」


 魔力の変化なし。


「ですよねー」


 お約束の失敗であった。

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