第三章 月影の修道院 5

 朝の祈りが始まる直前、ナオミがちらりとザカリアを一瞥したのをイザヤは見た。昨日と同じように後ろの壁越しに立ち、院長と修道女たちの後ろ姿を眺める。

 院長の祈りの言葉を聞きながら、イザヤはザカリアを横目で見た。あごをやや持ち上げ、薄い微笑みを顔に貼り付けて聖務日課を見学するその様子からは、少しの緊張も感じ取れなかった。

 ――本当に、うまくいくのだろうか。

 幸い、修道院に通じる扉は開いたままだ。そばに修道女が立ってはいるが、その立ち位置とやや大きめな頭巾の様子から見て、彼女の視界に入る危険は少なそうだ。

 祈りの言葉が終わる。と同時に、ザカリアが大声を上げた。

「お待ちください」

 振り向いた院長の顔は、当惑と怒りに染まっていた。眉をひそめ、唇を震わせている。

「すばらしいものを見学させていただいたお礼に、ぜひ感謝の言葉を述べさせていただきたいのです」

「結構です。もし本当に感謝の意をお持ちなら、空気のように静かにしていただくことで表していただければ」

「お許し願えれば、『黙示録』の新作教歌を歌わせていただきたいのです。カナン支部に出入りしている僕だからできることです。これはまだどこにも公開されていない、完全新作なんですよ」

 修道女たちが静かにどよめく。ザカリアは祭壇横の朗読台に上ると、両手を広げて仰々しい辞儀をした。院長は「下りなさい」と祭壇の前で色を失っている。

 ザカリアの緑色の瞳が、一瞬だけイザヤを捉えた。聖堂内の全員がザカリアに注視していることを確認すると、イザヤは腰を落として修道院への入り口をくぐった。

 ざわつく聖堂を背に、回廊を南へと駆け抜ける。階段を上ると、そこは全くの静寂に支配されていた。念のため南側の客間と院長室の扉を調べるが、ザカリアがナオミから聞いていた通り、どちらも鍵がかかっていた。

 東の通路に戻り、寮の扉に手をかける。すると左目が左右を確認するように動いた。

『本当に屋根裏なんて入れるのかね。だまされてるんじゃないのか?』

「ナオミさんを信じましょう」

『と言ってもな。ヤツの使った手がわかる気がするんだよ。それを思うと、いらついてくる』

 エレミヤの言葉を無視して寮に入る。広い板の間に、寝台がいくつも並んでいる。上にかけられた毛布は、ほとんどが起き抜けのままの形で乱れていた。

『あの院長の威厳もたいしたことねえな』

 そのとき、嗅ぎ慣れない匂いがイザヤの鼻をくすぐった。以前、これと似た匂いをどこかで嗅いだ気がする。どこか懐かしいような、妙な気安さを持った臭気。

「なんだか、不思議な匂いがします」

『女の匂いだろう。そんなことより、早いとこ片付けようぜ』

 左目が、奥へと向けられた。壁にかけられた梯子と、押し上げ式の天井扉が見える。

 静かに梯子を登り、扉を開ける。天井裏はさすがに暗い。瞳孔を開いて、見える範囲に誰もいないことを確認してから、するりと侵入する。

 梁の上には板が渡され、通路になっていた。イザヤは垂木に頭をぶつけないようにしながら通路を南へと進む。直角に曲がった先が、客間と院長室の真上に当たる箇所だ。

『ここで間違いねえ、はずだよな』

 ザカリアの推理では、傀儡魔は客間に幽閉されているということだった。しかし、客間からでは昨夜のイザヤの姿を捉えることは不可能だ。そこでザカリアは天井裏に注目し、傀儡魔が普段からそこに出入りしているのではないかと考えたのだ。

 南の通路に入って西端に目を向けると、ザカリアの予想した通りの小さな隙間があり、そこから光が漏れているのが見えた。あの小ささでは、外からは確認できない。

『あのちっこい隙間を窓代わりにしたってのかよ』

 イザヤはうなずいた。通路の先の天井板がずらされ、淡い光が漏れている。

「あそこが客間でしょう」

 小声で言って、静かに近づく。隙間に向かってかがみこみながら、イザヤは手袋を外した。すぐ下は、絹の布団の載った寝台だった。分厚い背板に足をかければ、簡単に天井に手が届くだろう。

 隙間から覗けるのは、寝台の周辺だけだった。見える範囲に、人はいない。

『どうする。様子を見ている暇はねえぞ。おまえがいないことに気づかれるのも、時間の問題だ』

 わかっている、とイザヤは心の内で答え、天井板に手をかけた。待つことはできない。ここまで来た以上、何も成果を上げずに戻ることはできないのだ。天井裏に侵入したことが知れれば、今度こそ院長はイザヤらを追い出しにかかるだろう。三日月から魔力を回収できるようになるのを待つ間、被害者は増え続ける。

 顔の大きさほどに広がった隙間から、中を覗く。誰もいない。が、寮で嗅いだのと同じ匂いがした。これがエレミヤの言った「女の匂い」なら、ここに十三人目がいるということになるのだろうか。確かに、生き物の発する有機的な匂いだと言える。だがそれなら、どうしてこれだけ妙な感じがするのだろうか。

 そう思った途端、空気が乱暴に揺れた。イザヤは咄嗟に顔を引っ込め、通路まで飛び退く。

 部屋から飛び出してきたのは、犬だった。耳のぴんと立った、鼻先の長い犬。だが普通の犬ではない。牙を剥いてよだれを垂らし、鼻に皺を寄せて低く唸るその体は、淡い魔力の光に包まれていた。

『ディアナの猟犬か!』

 エレミヤの声と同時に、猟犬はイザヤに向かって飛びかかった。一瞬の間に、イザヤは魔石に息を吹きかけた。繰り出す魔術を選ぶ余裕はなかった。

 すると、イザヤの指先が光った。光は玉となり、大量の蝶の舞となった。蝶はその光で天井裏を真っ白な世界へと変え、猟犬の目を潰した。ギャン、と叫び声を上げて通路に倒れる猟犬を咄嗟にかわすと、エレミヤが驚きの声を上げた。

『プシュケーの「蝶」……なんで使えるんだ?』

「わかりません。が、とにかくあれを倒さないことには、傀儡魔までたどり着けません」

 立ち上がったイザヤは、間髪入れずに「コキュートスの氷」で猟犬を氷漬けにした。立て続けに魔力を消耗したせいか、一瞬だけ足元がふらつく。

『油断するな、来るぞ!』

 客間から飛び出した何本もの光が、イザヤに向かって飛んで来る。矢だ。右手に出現させた革袋の紐を勢いよく引き、銀貨をぶつけて落とす。が、仕留められなかった一本の矢が、勢いを増してイザヤに襲いかかった。

『しゃがめ!』

 エレミヤの言った通りに身をかがめる。しかし、矢はイザヤを通り過ぎた後、ぐるりと方向を変えて再びこちらに迫ってきた。すかさず右手の魔石を口元へと近づける。

「無駄よ」

 背後で声が響いたと同時に、イザヤの右腕を別の矢が貫いた。最初に感じたのは、痛みではなく熱さだった。手首の数センチ下にぶすりと刺さった矢は、びりびりと光りながらイザヤの右腕の動きを止めている。バランスを崩したイザヤは、膝を突いた。

「あなた……昨日、下を歩いていた子よね」

 危うさをはらんだ、少女のような声。背後からイザヤの顔を覗き込んだ修道女の顔はしかし、意志の強い大人の女性のそれだった。高い自尊心と無慈悲な残酷性を内に秘める、灰色の瞳。十三人目の修道女――傀儡魔だ。

「どうして私の邪魔をするの? あなただって、永遠の若さと美しさが欲しいはずだわ」

「そんなもの、欲しくはない」

 イザヤは右腕に意識を集中させながら答えた。しびれが、肩のほうへと広がってきている。

「おまえは彼らを眠らせて、彼らから生を奪っている。彼らは死んでいるのと同じだ」

「いいじゃないの、死んでいたって。あなたは、一秒ごとに老いているのよ。老いは、死へと向かわせる抗えない変化。変化は美を損なうわ。私はただ、私の愛する美しい姿を保ってほしいだけなの」

 傀儡魔はゆっくりと歩き、イザヤの前に立った。そうして、満足げに彼の顔を眺める。

「愛などと軽々しく言うな。おまえの身勝手な魔術でどれだけの人の時間を止め、その人生を奪っているのか……本当に愛しているなら、そんなことはしないはずだ」

「私たち神々の愛は、人間のそれとは違うのよ。質も量も無限。時間も空間も関係がないの。私は彼らを、永遠に愛し続ける。もちろん、あなたもね」

 そう言うと、傀儡魔はイザヤの鼻先に顔を近づけ、うっとりと目を細めた。

「まだ完成されていない、壊れそうな若さと美……本当に、すばらしいわ。今すぐ、止めたい。止めなければ」

 狩猟の女神の矢に貫かれた右腕は、今や魔石の感触すら感じることができない。が、エレミヤの左目が、跪いたイザヤの足元に落ちている一枚の銀貨に気づいた。矢に当たらなかったため、まだ消えていないのだ。少しだけ魔力を保っているそれを、イザヤはマントの陰でそっと左手の中にしまった。修道女――月の女神の魔力に侵された傀儡魔は、ゆっくりと首を傾けた。

「怖い? 大丈夫よ。夢の中でいつでも会えるから、寂しくはないわ」

 そうして口元を綻ばせる傀儡魔を見上げ、イザヤはぎゅっと左手を握った。挑発するように、震える唇の端をゆっくりと持ち上げる。

「ここでは無理だな。月の光がない」

「夜まで待てばいいのよ。時間はたっぷりあるわ。それまでは、私と一緒に語らいましょう」

 傀儡魔はそう言うと、左手を軽く上げた。次の瞬間には、その手の中に優美な反りの弓が握られていた。右手が弦にかけられると、空中から染み出るように矢が現れる。

「その美しい顔を、もっと見せて」

 つがえられた矢が、いっぱいに引かれる。その瞬間、イザヤは勢いよく銀貨を投げた。体温で温められた銀貨は、屋根裏の空気を切り裂くような鋭いきらめきを放ち、弓もろとも女神の矢を消した。傀儡魔がひるんだ一瞬の隙に、イザヤは彼女の横をすり抜けて梯子に向かって走った。

『急げ! すぐに次の攻撃が来るぞ!』

 答える代わりに、必死で足を動かす。が、胸まで広がっているしびれのせいか、思ったような速度が出ない。

「ああ、もう、どうして――どうして、私の言うことが聞けないの!」

 天井扉までもう少しのところで、背中が割れるような怒声が響いた。左目がぎょろりと回る。

『伏せろ!』

 前に飛び、重力に任せて体を落とす。腹ばいになったと同時に、頭上を複数の矢がかすめ飛ぶのがわかった。だが、これで終わってはいない。

 天井扉の取っ手はもう、すぐそこだ。寮に逃げ込んだところで矢の追尾からは逃れられないだろうが、大きな音を出して人を呼ぶことで、傀儡魔に捕らえられることは防げるかもしれない。

 が、左手を伸ばした瞬間、鈍く光る鏃がこちらを向いた。さっきの攻撃よりも勢いが増している。――間に合わない。

 そのとき、嗅ぎ慣れない芳香が鼻をついた。昨夜知ったばかりの、優しく気高い、愛に満ちた女性的な香り。

 天井扉が開き、黄金色の液体が生き物のように舞い出てきた。イザヤの右腕に刺さっていたものも含め、すべての矢が消滅する。

「随分と尊大で傲慢な女神様だな。それでは、救世主の愛と聖女の信仰心には到底敵うまい」

「ザカリアさん……」

 天井扉からひょっこりと飛び出た顔を見て、イザヤは安堵の息をついた。

「すまない、遅れた。院長を振り切るのに手間取ってな」

 ザカリアは梯子を上ると、イザヤを背後に隠すように傀儡魔の前に立ちはだかった。

「そうした人間らしい振る舞いは魅力的でもあるが、君たちは力を持った『神』だ。力を持つ者にふさわしい行いをしてもらいたいものだね」

「あなたたちはできているって言うの? その、いまいましい魔石とやらで」

「少なくとも、君のように悪用はしないさ」

 ザカリアは再び香油を手のひらから振りまいた。傀儡魔がそれを避けるように身をよじった瞬間、イザヤは彼女を氷漬けにした。氷が溶けると、目を見開いたその表情が、みるみる色をなくしていった。がさりと通路に倒れた傀儡魔は、今や穏やかな表情をしたひとりの修道女でしかなかった。

「さすがユダ。鮮やかだな」

「彼女が目覚める前に、魔力を回収してしまいましょう」

「回収?」

 ザカリアが眉を寄せる。

「おそらく、それが今回のアトリビュートです」

 イザヤは通路に倒れている三匹の子犬を指差した。傀儡魔は彼らを合体させて魔術に利用していたようだ。寮や客間で感じた妙な匂いは、獣の匂いだったのだ。

「なるほど、猟犬か。修道女たちが、内緒で飼っていたというわけだな」

 図書室で話を聞いた写本係のレアは、寮の話になったとき、妙にそわそわしていた。あれは、犬を気にしてのことだったのだろう。

 イザヤは子犬たちに向けて「回収」をかけた。現れたのは、黄金色の魔石だった。中に見える絵画は、ヨハン・グルントの「ディアナとエンデュミオン」。額に三日月型の印をつけた女神は、弓矢を携え、猟犬を従えている。彼女の視線の先には、静かに眠るエンデュミオンの姿がある。

 そのとき、子犬たちが目を覚ました。きょとんとしてあたりを見回し、もぞもぞと動き出す。

「彼女やシスター・タマルのことも含め、院長と話すことを思うと気が重くなってくるな」

「そういえば、お祈りはどうなったんです?」

 そのとき、どたどたという大勢の足音が聞こえた。梯子の下に、院長の真っ赤な顔が見える。

「私をだまして寮に入り込むなんて、どういう了見なんです! もう我慢の限界です。修道生活を破壊する危険人物として教会に訴えます!」

 院長の後ろには、心配そうな表情のタマルの姿が見えた。一方で、ナオミはわくわくした顔でこちらを見上げている。

「……どうする、イザヤ」

 二人のすぐ下では、梯子を上ろうとする院長と、危ないと言ってそれを止める修道女たちの喧噪が響いていた。イザヤは倒れた修道女を振り返って、深く息をついた。

「まずは彼女を下に下ろして、それからラザロさんの到着を待ちましょう」

「それがいいな。ラザロに間に入ってもらおう」

 二人は互いに顔を見合わせ、疲れた笑みを浮かべた。

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