第一章 首斬りの泉

第一章 首斬りの泉 1

『そろそろ着くんじゃないか。立ち上がってみてくれよ』

 頭の中で声が響くと同時に、黄色い左目がぎょろりと動いた。

 船の中、詰め込まれた葡萄酒樽の間で膝を抱えていたイザヤは、「目」――エレミヤの声に応えることなく、静かに呼吸を続けた。青い右目は、凪いだ湖面のように動かない。

『おい、いい加減無視しないで返事しろよ。乗り込んでから、一歩も動いてねえじゃねえか』

 苛立ちを持て余すように、左目がぐるりと回転した。眼窩でそれを感じながら、イザヤは黒い革手袋の右手を静かに握った。

『見えるもんは樽と、たまにちょろちょろ走るネズミだけ。退屈でしょうがないんだよ』

 緊張感の感じられないその声に、イザヤは小さくため息をついた。

「四六時中頭の中で他人の声を聞かなければいけない私の身にもなってほしいのですが」

『それは悪かったな』

 声の合間に、乾いた笑いが混じる。

『が、回収人の宿命だ。慣れてもらわねえと困るぜ』

「『目』であるあなたの役割は、私の監視であって話し相手ではないはずです」

『新人のくせに、えらそうな奴だな。おまえ、おれが先輩だってこと忘れてねえよな?』

「目」は、回収人の行動を見張る監視役を指す通称だ。稀人の中から選ばれ、回収人の視覚以外の五感を共有する。違反行為があれば、ただちに機構に報告を行う義務を有していた。

 以前一方的に語られたところによると、エレミヤはかつて回収人として二年ほど仕事をしたことがあるとのことだった。彼と彼の「目」の関係がなぜ解消されたのかについては不明のままだ。おそらく何かトラブルがあってのことだろうが、それが何であれ、イザヤにとっては大した問題ではなかった。

「私は、静かに仕事をしたいと考えています。口ではなく、文字通り『目』に徹していただけるとありがたく存じます」

『ふん。かわいくない奴だな』

 イザヤは、黒いマントを胸元にかき寄せて目を閉じた。その行為を「拒否」と解釈したのか、目的地に着船するまでの間、エレミヤの声が聞こえてくることはなかった。

 左目の交換手術の後、独房に戻ってからも、数日間の乗馬訓練の間も、エレミヤはひっきりなしにイザヤに声をかけてきた。そのあまりのうるささに辟易し、いっとき消灯後に大声を出してしまったほどだ。何事かと飛んできた巡回者には「手術を受けたばかり」ということで見逃してはもらったものの、この年で懲罰房行きなどごめんだ。ようやく機構の建物の外に出られるときが来たのだ。一日たりとも出発を遅らせたくはなかった。

 機構から赴くよう命じられたのは、機構のあるカナンから北に船で二日の場所にある町、フォンスだ。

 フォンスは、飲めば病が癒えるという噂の「女神の泉」を守るように発展した小さな町だ。泉を求めて数多くの人が訪れる聖地であったが、数ヶ月前から旅人の首が斬られるという事件が既に四件発生しているということだった。イザヤの任務は、これが魔力に取り憑かれた人間――「傀儡魔くぐつま」によるものであるかどうかの調査と、そうであった場合の「アトリビュート」の特定、および魔力の「回収」だ。

 大災害後の世界には、アバドンの放った魔力が残存している。

 この魔力は不思議なことに、旧世界に存在した美術品と密接に結びつく性質を持っていた。

 魔力は、回収人が魔術を用いてアトリビュートから回収されることで「魔石」となる。この魔石は、稀人が手にしたときのみ内部に白い渦が巻く。さらに稀人は、魔石から旧世界に存在した美術品の情報を読み取ることができた。魔石を目に近づけると、目の前に実物が展示されているかのように、美術品を鑑賞することができるのだ。

 同時に、作者名や画題などの情報も、本を読んでいるかのように頭の中に流れ込んでくる。美術品は、彫刻やタペストリーなどの場合もあるが、ほとんどが絵画だった。

 魔力のこの性質により、崩壊後の世界における美術品の所持と制作はいっさい禁じられていた。一方で魔石の中に保存された旧世界の美術品の情報は、稀人の教育に用いられていた。イザヤは独房で、魔石を通してさまざまな美術品を見ながら「主題」を学んだ。

 美術品の多くには、主題と呼ばれる題材が存在する。それらは旧世界における「物語」とほぼ同義だ。物語は、口承により「旧世界文書」としてまとめられていた。イザヤら稀人が学んできたのも、この旧世界文書に書かれた物語である。

 魔力は、「アトリビュート」を介して人間に取り憑く。アトリビュートとは、描かれている人物や主題が何であるのかを、特定のアイテムを描き入れることで示すというものだ。

 例えば、「アダムとエヴァの誘惑」という主題においては、「リンゴかイチジクの木」や「木に巻きつく蛇」がアトリビュートとなる。

 魔力は、自身の主題を表すアトリビュートの現物に取り憑き、それを介して所有者や近くにいる者、あるいは主題の登場人物に近い精神状態の者を魔力に感染させ、傀儡魔化させる。

 傀儡魔と化した人間は、見た目こそ普通の人間と変わらないが、平時の判断能力を失い、魔力の主題に即した行動を取るようになる。そうした行動の多くが、殺人や傷害等の事件や、そうでなくても様々な厄介ごとを引き起こすことにつながる。

 回収人がアトリビュートから魔力を回収して魔石にすることで、傀儡魔であった人間は元の状態へと戻る。問題行動を起こすこともなくなり、「事件」は解決するという寸法だ。

 首が斬られる、と聞いたとき、すぐにいくつかの主題がイザヤの頭には浮かんだ。が、まだ魔力によるものであると確定できない以上、現場を見る前にあれこれと考えても無駄だろう。

 商人が積み荷を下ろすのに混じって下船すると、イザヤを迎えたのは人々の視線だった。全身を覆うフードつきの黒いマントは、暖かな春の陽光の下で異様な存在感を放っている。

 イザヤは視線を避けるように目を伏せ、商人たちの間を足早に通り過ぎた。背中に大きく刺繍されたイナゴの紋章が、好奇の視線を厭悪の声へと変える。

「――悪魔だ」

 静かなざわめきの中から届いた言葉に、イザヤはぎゅっと唇を噛んだ。こういうときに限って、エレミヤの声は聞こえてこない。

 わかっていたはずだった。機構の中でも、普通の人間である職員から向けられる視線に、かけられる言葉の端々に、世界における自分の意味を――望みもしない負荷と宿命を、色濃く感じていた。

 アバドンの子。稀人は古く、そう呼ばれていた。

 伝承上のアバドンと同じく星屑を散らしたような瞳を持ち、傷をつけてもすぐに治る。肉体の一部を切り落としたとしても、時間をかけて再生する。それを悪魔と呼ばずして何と呼ぼう。化け物だ。

 流れ出る血は赤いし、痛みだって感じる。考える頭もあれば、感じる心もある。けれども普通の人間と稀人とのいくつかの違いは、その他の共通点に物を言わせる隙を与えなかった。

 アバドンと同じく魔力を持っていること、魔力を結晶化させて魔石にできること、魔石にみずからの魔力を作用させることで「魔術」を用いることができること。

 崩壊後の世界で徐々に判明していったその事実は、アバドンの子に「稀人」という新たな名や「回収人」という仕事、生を試みる機会を与えはしたが、一方では「悪魔」という負の印象をより強め、偏見を助長した。

『震えるなよ』

「震えてなど」

 思わず言葉を返してしまう。イザヤはきまり悪さとともに、黒手袋の右手をぎゅっと握りこんだ。


 曳き船道を北上し、最初の目的地である教会へと向かう。

 リベル教会。カナンを首都とするカナニア連邦のみならず、大陸じゅうに広まりつつある宗教組織だ。ともに魔力の根絶を目指す魔力回収機構とは切っても切れぬ関係にあり、回収人の活動支援と称して様々な援助を行っている。

 突端に十字架の乗った屋根を見上げてから、イザヤは建物の裏手に回った。

 ――稀人は、教会の正面入り口を使うことはできない。

 機構でこれを教えられたとき、教育係の司祭に理由を問うたことがある。

「そう決められているからです」

 誰に、と問うことはなかった。すぐに「そんなことを考えても仕方がないですよ」と言葉を足されたからだ。

「回収人のイザヤさんですね。聞いております。こちらへどうぞ」

 出迎えた若い助祭に厩舎へ連れていかれると、鞍のつけられた栗毛の馬が静かに首を揺らしていた。

「こちらもお持ちください」

 馬に乗ろうとしたところで、助祭が布袋を差し出してくる。

「これは?」

「チーズとパン、少ないですが路銀です」

『わざわざ聞くなよ、わかるだろ』

 エレミヤの声をかき消すように礼を言い、馬に跨がる。

『おまえ、向こうに着いたらどうするつもりなんだ? 初仕事だろ? 先輩のおれの助言を聞いておくに越したことはないと思うぜ』

「いえ、けっこうです」

 護衛の騎士をつけるかという提案をしてきた司祭に、黒い革手袋の手を向ける。それは同時に、エレミヤへの返答でもあった。

「神のご加護を」

 上品な笑みを浮かべて十字を切る助祭に頭を下げ、イザヤは草地に延びる細い街道に出た。

 旅は常に危険を伴うものだが、回収人に限ってはその心配は不要となる。盗賊が回収人を襲うことは非常に稀だ。回収人に危害を加えた場合は教会裁判でほぼ例外なく極刑に処せられるし、そもそも関わりを持つこと自体が避けられるからだ。

『なあ。おまえ、当たりはついているのか』

 速足で駆ける馬の上で、左目が左右に動きながら言った。

『おれはついてるぜ。「首斬り」はわかりやすい主題だからな』

「それが当たっているかどうかはわかりませんよ。事件の経緯――つまり魔力の主題、およびアトリビュート双方の観点から、注意深く探るべきです」

『聞いた通りの優等生だなあ、おまえ』

「聞いた?」

『ああ、噂を少しな。機構始まって以来の優秀な稀人だとか何とか』

「大袈裟な。誰がそんなことを言うんです」

『おれたちの手術をした、あの陰気な職員だよ。おまえ、教えられてもないのにアトリビュートから魔力を回収したことがあるらしいな』

 イザヤの喉がひゅっと鳴った。脳裏に、顎髭を生やした司祭の穏やかな目元が浮かぶ。

『なあ、詳しく教えてくれよ。傀儡魔に襲われたんだろ? 傀儡魔になったのは機構の職員か? それともリベルの司祭?』

「話したくありません」

 答えながら、イザヤはきゅっと首をすくめた。

 独房で、初めて「絵」を見せてもらった日。

 イザヤの目の前で老司祭が豹変し、傀儡魔と化した。独房内に、あるはずのないアトリビュートが持ち込まれたことが原因だった。

 ――機構内で傀儡魔が発生した際は、どんな状況であろうが必ず「処分」される。

 彼の次に来るようになった年若い司祭から教わった、機構の定めた「決まり」のひとつだ。

 あのとき、アトリビュートさえ存在しなければ。

 澱のように胸の底に巣食うこの罪悪感とは、無縁な生を送ることができたのだろうか。

『まあ、それにしても』

 わずかな沈黙の後、エレミヤが明るい声を出した。

『おまえの得物は、なんというか……少し、頼りねえ感じがするな』

「そうですか」

『おまえは、それで満足してるのか?』

「そもそも、文句を言える立場じゃありませんから。それに、決められていることです」

 左目の交換手術の際、稀人の手のひらには次々と魔石が載せられていく。それらはすべて、過去に機構の回収人が結晶化させたものだ。支給される魔石は、内部に発生した渦の大きさで決められるのだった。

 ふう、と頭の中に、他人のため息が響く。

『そうか。おれは、少し寝る。町に着いたら起こしてくれ』

「監視はどうするんです」

 驚いて問う。「目」の意識が左目に宿っている間、その肉体は機構内で眠っている。が、報告書の作成などの際には、任意で意識を肉体に戻して活動することができた。

 その「目」が寝ると言うことは、意識が肉体に戻る――つまり、左目が義眼同然になることを意味していた。

『おまえが初仕事をほっぽり出して逃げ出すとは思えねえよ。それに、しゃべってたせいで舌を噛んだなんて言われたくねえからな。馬に鞭を入れろよ……って、おまえ襲歩は苦手なんだったな』

「できますよ。できるようになったじゃないですか」

『だいぶ危なっかしかったけどな』

 エレミヤの言葉が終わらぬうちに、イザヤは馬に鞭を入れた。顔をたたくような風に、思わず目を細める。

『しかしその魔石、よく考えりゃおれたちにぴったりだな』

 エレミヤのつぶやきが、風切り音の向こうに聞こえた。

『――何せ、『世紀の嫌われ者』だもんな』

 夢の中で聞く自分の声のようなその言葉は、しばらくの間、イザヤの耳にこびりついて離れなかった。

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