第3話

 空間のひずみの向こう側で、魔王が蠢く。

 

 その触手が意志を持って動くと、取り囲む異形が慄くように身動ぎする。


 複数本が絡み合い、崩壊の止まった太い触手が一方向を指向する。


 空間どころか時間すら同じではないはずなのに、それが指すのがフィリップ自身であると理解できた。


 

 付き従うものたちが一斉にそちらを確認するように動いた。目に該当する器官を持たない異形までもが、みな一様に。


 そして人外の知で以て、その冒涜的な呻き声と挙動から在りもしない意図を汲み、平伏した。


 無数の触手を持ち、顔のない頭で咆哮する異形が嘲笑を漏らす。それはフィリップと、玉座に眠るものへ向けられたものだ。

 山羊にも似た、人の表情と触手を持ち、その全てに似ていないと思わせる違和感を持った異形が冷笑する。どこか慈悲を湛えたようにも見えるそれは、フィリップへ触手の一本を向けた。


 吐き気が収まり、魔法の効果が消える。

 身体の自由を取り戻したフィリップが初めに取った行動は、反射的に祭壇から転がり落ちることだった。


 四つん這いになり、在りもしない吐き気を抑えるように荒い息を漏らす。

 薬の効果も消えており、碌に覚えてもいない彼らの姿を思い出すだけで気を失いそうだった。


 頭上では空間のひずみが消え、それと同時に周囲に人の気配が生じる。

 

 いや──人ではない。

 極限まで抑え込まれてはいるが、感じる異物感は先ほどの異形と酷似している。この世の全てに唾棄し、冒涜するような気配。


 「ふむ、壊れる寸前といったところですか」


 嘲りが多分に含まれているのに、穏やかで耳触りの良い声。


 うずくまるフィリップの隣に片膝を突き、声の主が顔を覗き込んできた。


 「あなた、は……?」


 胃酸と過呼吸で喉が荒れたのか、魔法によって発音不可能な名前を無理矢理唱えさせられたからか、フィリップの声はかすれていた。

 血色も悪く、目は落ち窪み、唇はカサカサに荒れている。


 「私はNyarlathotep……どうぞ、ナイ神父と呼んでください」

 「ナイアーラトテップ……ナイ神父?」


 にっこりと笑う、浅黒い肌に黒髪黒目の青年。その身体は確かに黒いカソックに包まれており、一神教の神父であることを示す十字架が首元で揺れている。

 女性どころか男性でも誘惑されそうな甘いマスクと、その魅力を引き出す笑顔を向けられて。は、と。フィリップの口から失笑が漏れた。


 神父? この悍ましく、冒涜的な、神どころか世界そのものに唾棄するような存在が?


 血の気が引くような、身体──いや、その奥底、精神から大事な何かが抜け落ちていくような感覚がある。

 その空いた穴を埋めるように、ふつふつとが湧いて来た。


 「はは、はははは、あはははははは!」


 面白い。あぁ、傑作ではないか。

 神? 世界を創造した、人類に魔法を教えた唯一神? なんだそれは。人類はそんな──信仰に依って立つしかない、矮小なる下等存在を崇めているのか?

 何という蒙昧、滑稽の極みか!


 しかし、あぁ、言葉に縛られたヒトの思考が恨めしい。

 強大で、この上なく偉大なるもの。彼らを称するのに相応しい言葉もまた「神」だとは!


 「ははは、ははははは!」


 嗤い続け、どれだけの時間が経っただろうか。数分かもしれないし、数秒かもしれない。数時間ということは無いだろうが、分からない。

 

 「ナイ神父、これは狂気というものではないの?」


 落ち着いた女性の声。すっと脳に染み込むような声と共に、優しく頭頂部に手が置かれた。

 途端に笑いの発作が収まり、冷静さを取り戻した。いや、それだけではない。のことを理解している。知り、畏れ、理解しているのに──拒絶感も恐怖も湧いてこない。


 「流石は母神。お優しいことですね」


 ナイ神父が嘲るが、女性は淡々と答えるだけだ。


 「この子の守護は、我らが父王の命令よ? 使徒たる貴方が、それを無視すると?」

 「痴愚の意図なき命令ですよ。……まぁ、どれだけ愚かな命令であれ、従いますが」


 フィリップの頭に手を置いているのは、顔を薄いヴェールで隠した妙齢の美女だ。“銀色”としか形容できない月光色の長髪や、白い陶磁器のような肌、豊満な肢体の魅力は、身に纏う漆黒の喪服によっても些かなりとも減じることが無い。

 惜しむらくは──彼女に感じる気配もまた、あの場に居た異形と同じことだ。


 「シュブ=ニグラス……」


 慌ててその手を払いのけ、立ち上がって距離を取る。

 いつの間にか与えられた智慧が、彼女の強大さを訴え、警鐘を鳴らしていた。


 「そう、私はShub-Niggurath。マザーとでも呼んで頂戴? 授けた智慧はきちんと定着しているようね」


 にっこりと笑う森の黒山羊。母親マザーだか修道女の指導者マザーだか知らないが、冗談のような呼び名を指定するものだ。

 フィリップの知識は相変わらず異物感と拒絶感をと主張しているが、最早拒絶感や恐怖を感じることは無かった。


 「なんで、こんなところに……」


 ナイアーラトテップ。魔王の使徒。千の貌を持ち、この世の全てを嘲り貶す冒涜者。外神最強の一角。


 シュブ=ニグラス。千の子孕みし森の黒山羊。無数の眷属を産み落とす豊穣神。地属性の最高位神格にして、外神最強の一角。


 罷り間違ってもこんな小さな辺境の星に同時に顕現していい神格では無かった。


 神父が略式の礼を取り、喪服の貴婦人がカーテシーをする。

 

 「我が父王の命に従い、君を守護しよう。白痴の魔王が寵児よ」

 「お爺様の気まぐれだけど、安心して。あなたには外神すべての加護と寵愛が約束されているわ」


 ふっと、目の前が真っ暗になった。

 与えられた知識にある外神の名前が意識に浮かんでは消えていく。かつて旧支配者を産み落とし、旧神を駆逐せんとした外なる神。信仰に依らない確立した存在である彼らは、「神という生物」という表現が最も近しい。


 それが──守護? 自分を?


 まるで意味が分からなかった。

 いっそ発狂できたらいいのに、と。フィリップは自分から狂気を奪った魔女を果敢にも睨み付け。


 「どうしたの?」

 「……いえ、何でもありません」


 返された微笑から目を逸らした。

 フィリップがこれまで見た中で、という狭い範囲でも。そして、全人類の中でという広い範囲でも、マザーの容姿はと頭に付けても間違いにならないほど、一番に美しかった。


 普通なら、その美貌は異性を強烈に魅了する。フィリップのような10歳の、未だ性を知らない子供でさえも。

 しかし残念ながら、或いは幸運にも、フィリップは彼女の本性を知っている。彼女が外見通りの綺麗で優しげなお姉さんなどではなく、人間に、人間社会に、この星に、宇宙の全てに、何ら価値を見出さない邪神であると知っている。


 知っている。

 ナイアーラトテップ。シュブ=ニグラス。その他無数の、この世界の外側に犇めく強大無比な邪神、外なる神々の名を、性質を、本性を、在り方を。


 知っている。

 クトゥルフ。ハスター。かつて外なる神々と全宇宙を巻き込んだ大戦争を繰り広げ、敗北した劣等種。旧支配者たちの名を、性質を、弱さを。


 知っている。

 ノーデンス。クタニド。旧支配者と地球の支配者の座を巡って争った、この星に古くから在る神々。旧神たちの名を、性質を、弱さを。


 知っている。

 彼らの強大さを。人間も、人間社会も、築き上げた歴史や文明も、この星も、虫でも払うような気軽さで滅ぼすことが出来る彼らのことを。


 知っている。

 彼らと比した、人間の脆さを。弱さを。


 知っている。

 この世界の真実を。この、泡沫の世界の、夢の世界の姿を。最も強大で最も悍ましい、盲目白痴の魔王が夢見る、この世界の儚さを。この世界が、人も、星も、旧神も、旧支配者も、外なる神々でさえも、一個存在の夢でしかないことを。


 果たしてそんな世界に、一個存在の一挙動で文字通り夢と消えてしまう泡沫の世界に、価値があるのだろうか。


 知っている。知っているのに。知っているだけで脳の芯まで狂気に沈んでしまうような、狂気に落ちることこそが救済であると叫びたくなるような知識があるのに。狂うことができないでいる。



 地下祭祀場でフィリップの前に立つ二人の──否、二柱の外神。

 千なる無貌ナイアーラトテップと、豊穣神シュブ=ニグラス。彼らの自己紹介に則るのなら、ナイ神父とマザー。


 嘲笑と冷笑が混じった微笑を向けられて、しかし、フィリップの心にはさざ波一つ立つことが無かった。


 知識はある。外なる神たる彼らの強大さも悍ましさも知っている。知識は畏れよと叫んでいる。

 だがそれだけだ。フィリップの瞳孔、汗腺、筋肉、恐怖を反映して反応するあらゆる器官は、平常通りに機能している。収縮することも、冷や汗を流すことも、震えだすこともない。


 それに、自分でも驚くほど自分のことをよく理解できている。客観視にも近いほどの冷静さがある。


 「貴女の仕業ですね、シュブ=ニグラス」


 フィリップが恨めし気な視線を向けると、ヴェール越しに優し気な微笑が向けられる。


 「えぇ、その通り。一々怖がられては面倒ですもの。幼年期はおしまい。……それと」


 幼い頃からよく躾けられ、また周囲の大人にも恵まれていたフィリップでさえ舌打ちしそうになるほどあっさりと返す。しかし、言葉の最後でマザーは言葉を切り、微笑に含まれる冷笑の度合いを強めた。


 「みだりに名を呼ぶものではないわ。ヒトにとって、それは耐え難いほどの猛毒でしょうから」


 フィリップは今度こそ舌打ちを漏らした。

 名前を知るだけで精神を汚染する可能性があるとはどんな冗談だと言いたいが、彼女たちがそれだけの存在であり、そしてその懸念は正しいと、与えられた知識がそう確信している。


 「分かりました……マザー」


 この場のように自分しかいないのであれば、問題にはならないだろう。しかし、呼び名や態度と言うものは癖になりやすい。大勢の居るところでポロっと名前を呼んでしまえば、後に待つのは。

 理解して身震いしたフィリップに、マザーは優しく微笑んだ。


 「はい、良い子ね」

 「おままごとは堪能されましたか? そろそろ、このじめじめした場所を出たいのですが」


 ナイ神父が慇懃に、しかし嘲笑を隠さずにそう提案する。

 全くの無意味と知りつつ、フィリップは言い返した。


 「ナイ神父はお好きでは? こういう鬱屈としたところ」

 「えぇ。ヒト風情が神と交信しようとする様も、気紛れにヒト風情と戯れる邪神も、どちらも滑稽で面白いです。ですが──」


 ぱしゃり、と、黒い革靴の爪先で、元は人間だった液体を弄ぶ。


 「こんな汚らしいものが散乱した場所は、魔王の寵児には相応しくないでしょう」


 意外な反応にフィリップが目をぱちくりすると、マザーが困ったような微笑を浮かべた。


 「よく分からないでしょう? お爺様への忠誠心はあるのだけど、同時に見下してもいるの。お爺様の寵愛を受ける貴方にも、似たような感じなんでしょうね」


 知識としては与えられているし、理解もしている。

 しかしいざ目の前にして「あ、こういうことか」という一段階を踏むまで、知識は知識でしか無かった。


 「まぁ、出ようという意見には賛成よ。行きましょう、えっと……そういえば、名前を聞いていなかったわね」


 外なる神が人間ごときの一個体の名を訊ねた。その事実が可笑しくて、フィリップはくすりと笑いを漏らした。

 ごく自然に「人間如き」という思考をしていることには気付かないまま。


 「フィリップ・カーターです。どうかよろしく」

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