第2話 歌声の主

 翌週も翌々週も、心結みゆうはほぼ同じ時間にカラオケボックスを訪れた。一時間遅らせれば、あの声の主に会えるかもしれないのに。

 しかし、それは恥ずかしすぎた。


「心結~、今日もカラオケ?」

「あ、ともちゃん。そうだよ」

「ほんとに好きだなぁ」


 帰り支度をしていた心結の肩を叩いたのは、親友のともちゃんこと合澤あいざわ友恵ともえ。ポニーテールがひょこひょこと揺れる、元気いっぱいな高校生二年生だ。

 友恵に背中から抱き付かれ、心結はバランスを崩しかけて机に手をついた。危ないと文句を言っても、友恵は何処吹く風だ。


「ごめんごめんっ。ほら、もう行かないと……」

「──ああ、いた。おーい、花岡はなおか

「あ、はい!」

「呼ばれたか。わたしは部活だから、また明日」

「うん! ともちゃん、またね」


 花岡とは、心結の名字。花岡心結が彼女のフルネームである。

 心結は誰が自分を呼んだのか、と首を巡らせる。すると、教室の前の扉から顔を出す担任教師の姿があった。彼の腕に抱えられているのは、プリントの束。嫌な予感がする。


「先生、何ですか?」

「花岡。すまないが、これをクラス全員の机に置いておいてくれないか? ほとんどの奴らは帰ったが、さっき校長からプリントを渡されてな……。日誌もあるのに、申し訳ないが」

「……わかりました。それくらいなら」

「本当か!? 助かるよ、ありがとう」


 じゃあ、これを。そう言った担任教師に手渡されたのは、最近見かけられるという変質者への注意喚起のプリントだった。確かにこれは、出来るだけ早く皆の手元に届いた方が良いだろう。

 一枚一枚は軽いが、それが四十枚も重なるとそれなりに重い。心結はプリントを抱え直すと、誰もいない教室の机の上に一枚ずつそれを置いていった。


 それから日直の仕事である日報を書いて職員室に届け、校門を出た。友恵と別れてから、既に三十分以上が経過している。


「急がなきゃ」


 心結は慌てて自転車にまたがると、ペダルに足をかけた。

 カラオケボックスに着いたのは、いつもより一時間近く遅い時刻。ガチャンと自転車に鍵をかけると、心結は小走りで受付に駆け込んだ。

 受付にはおじさんがおり、声をかけた直後にいつもと違う風景に戸惑った。しかし、出してしまった声は戻って来ずに疑問形になってしまう。


「おじさっ……ん?」

「やぁ、心結ちゃん。今日は遅かったね?」

「あ、はい。日直で……あの」


 心結がおろおろしていると、それを見ていた青年が苦笑をにじませた。彼は受付の机の上に置かれていた部屋番号の紙を手に取る。


「じゃあ、この紙貰っていきますね」

「ああ。いってらっしゃい」


 振り返った時一瞬心結と視線を合わせた青年は、意志の強い瞳が印象的だ。細めのスクエア型眼鏡の奥、射竦められるようで心結はどきっとした。髪質は固いのかツンツンッとしている。

 おじさんに見送られ、青年は心結に軽く会釈してから廊下を歩いて行った。ぽかんとそれを見送った心結は、カクカクとロボットのように首を動かしておじさんを見る。


「おじさん、さっきの人は……」

「流石に心結ちゃんはわかったか。きみがいつも聞き惚れている、あの声の主だよ」

「うそ……会っちゃった……」


 胸に手を置き、思わず呆けたような声が出る。心結はどくんどくんと高鳴るその音の意味を理解しないまま、ふるふると頭を振った。

 ここに立っているのがここにいる目的ではない。本来の目的を思い出し、心結は受付の奥でニヤついているおじさんに向かって身を乗り出した。


「とっ、とりあえずおじさん、部屋!」

「はいはい」


 顔を赤くして慌てる心結を、孫を見るような目で見詰めるおじさんこと、正田しょうだ貫太かんた。彼の手から部屋番号の書かれた紙をひったくると、心結は駆け出すようにして部屋へと直行した。




「びっ……くりした……」


 部屋のソファーにボスッと座ると、心結は天井を仰いだ。天井にはシンプルな照明と小さなミラーボールが備えられており、音楽が始まれば回り出す。

 顔の熱が引かず、その熱が体中を駆け巡るように感じられる。心結は顔を腕に埋め、暴れる心臓を抑え付けようと必死になった。

 何度も深呼吸を繰り返し、ようやく人心地つく。それを可能にしたのは、隣室から聞こえて来る歌声だった。

 聞こえて来るのは、あの人の声。透き通って、何処までも伸びていくような。このカラオケボックスの屋根を突き破り、空へ何処までも。


「どうして、誰も見付けないんだろう? こんなにも凄い声だと思うのに……」


 自分で言うのもなんだが、ここは都会から少し離れた郊外の住宅地。正直な話、カラオケボックスで歌う青年の声など気に留める芸能関係者などいないだろう。

 それでも心結にとっては不思議この上ない。見た目も声も完璧で、何故、と。

 今もまた、有名ドラマの主題歌を歌う声が響く。

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