「もし」と「まだ」のスペクトラム

羅・ダラダ

プロローグ

 「我が身のことは人に問え」ということわざがあるが、何も持ち得ない人間は一体誰に自分の欠点を聞けばいいのだろうか。


 「消えたい」


 コンビニのレジにいる藤原は誰にも聞かれない声量でそう呟いた。幾度となく脳裏によぎる愚痴は、言葉にして口から吐き出さなければ気が済まない。度々漏らすのが彼の癖になっていた。

 やがて、死人のように無表情である藤原のレジへ、髪を金色に染めた土方姿の男が並ぶ。その男はレジの机にカップラーメンを置くと、黒い長財布の中から小銭を探し始めた。それに対し、店員であるはずの藤原は心だけが遠足に行っているかのように動かない。今の彼には男の事など気に留める事象ではなかった。


「おい、あんちゃん」


 目の前にいる藤原がなかなか会計を始めず、不審に思っていた男は藤原に声をかける。男の手にはカップラーメンの代金が握られており、今すぐにでも会計が出来る様子だ。しかし、声をかけられている藤原は、ピクリとも動かない。ただただ彼の目線は壁に立てかけられた時計に向いていた。時計の先は12時を指し、上りまであと4時間と目の前の客をよそに彼は思っていた。


「あんちゃん、はよ会計してくれや」


「あっ……すみません」


 声をかけられても会計を始めない藤原に、男はもう一度声をかけた。その声は先ほどよりも声色が強く、男の表情も固くなっている。二回も声をかけられた藤原は、そこでようやく目の前の男に気が付き、会計をし始める。慌ただしい手つきで、カップラーメンとウェットティッシュをレジ袋に詰め込んで、急いで男の方に差し出した。


「お会計は398円です」


「ほんましっかりしてくれよ」


 男は藤原から乱暴にレジ袋を受け取ると、ガニ股でズカズカとコンビニから出ていった。藤原はため込んだ鬱憤を出すように溜息をした後、腰を下げてレジ周りの確認を行う。今の会計に気持ちが落ち込み、放り込むようにお箸の補充を行っていると、彼はすぐにあることに気づいた。


 あれ……俺、さっきのレジ袋にお箸入れたっけ。


 入れ忘れた可能性は高いが、ウェットティッシュと一緒にお箸を入れたような気がしないわけでもない。まぁ、いいかと彼は頭を軽く搔きながら頭を上げた視線の先に、いつの間にか彼の前には先ほどの土方姿の男が立って居た。男の額には青筋が浮かんでおり、それを見た藤原の額には冷や汗が滲み始める。顔の眉間にしわが寄り、語気が強いことから男の機嫌が悪いのは明らかだった。


「なぁ、あんちゃん」


「——はい」


 男の問いに、藤原は消え入るような声で返事する。男はレジの机の上にレジ袋を乱暴に置くと、人差し指で机をトントンと叩き始めた。そのリズムは妙に規則的で、藤原はこれは男がイライラしている時の癖なのかと思った。

 正直、藤原はなぜ男がまたレジに戻ってきたのか内心薄々気づいていた。現に藤原の手には一善のお箸が握られている。しかし、そのことを彼自身から切り出すことは出来なかった。彼のプライドがすぐに自分のミスを認めるのを拒んだのもあるが、それ以上に彼の中ではお箸を入れ忘れたぐらいで、騒ぎ立てる客は居ないだろうという大前提があったからだ。

そのためか、確固たる大前提が早々崩されることになるとは彼は想像していなかった。


「あのさ、お箸入ってなかったんやけど、カップラーメンを手で食えっていうんか?」


「あっ、えっと、今すぐお箸をお付け致しま……」


「そうじゃなくてさ、まずは土下座やろ。おい」


 レジ袋にお箸を入れようとした藤原を荒い口調で止め、男は埃が浮かんだ床を指差す。


 うわ、ガチの迷惑客やん……お箸忘れたぐらいでキレんなよ。


 大前提を崩された藤原は、脳内で呪詛のように悪態をつくと、一歩下がって頭を下げた。男の言い分は想定外であったが、藤原にとってこういう輩は今回が初めてではない。何回も学び得た経験から、彼はとりあえず頭を下げとけば相手も引き下がることを知っていた。


「申し訳ございませんお客様、こちらの不手際で大変ご迷惑をおかけしました」


「いやそんなんわかってんねん、こっちが要求してんのは頭を地面につけろということや」


「あー……他のお客様の目もありますので、そういったことは出来ません」


「は? お客は神様ちゃうんか? ミスしたんやから俺の言うことぐらい聞けやっ!」


 藤原の反省していない態度に業を煮やした男は、勢いよくレジの机を拳で叩く。いつの間にか藤原と男の周りには、火事現場を眺めるように見つめる野次馬が数人出来ていた。しかもその中には藤原と同じコンビニスタッフも居る。


 見てないでさっさと助けてくれよ。


 自分が理不尽に怒られていること、誰もヒートアップしている男を止めようとしないことに、藤原の頭も沸々と煮え立っていった。元々、彼も短気かつ非常にプライドが高い男である。むしろここまで、自分を抑えたのは彼なりに我慢が出来た方だった。


 自分が気持ちよくなるために、弱い立場の奴にしか強く出れない人間のゴミ屑が。お前には手でカップラーメン食ってる姿がお似合いなんだよ。


 喉元まで出かかったその言葉をなんとかぐっと堪え、彼はもう一度頭を先ほどよりも深く下げた。


「……大変申し訳ございませんでしたお客様」


「なぁ平謝りしてたら満足すると思ってんの? 俺の話聞いてる?」

「ってかさっきからお前の態度が気に食わへん。一個も反省してないその態度がな」


「…………」


「客に対しての尊敬が足りてへんわ。ぼーっとしとるし、土下座もせんし」

「社会に向いてないで、お前みたいなタイプはよ」


「もうわかったし、うっせぇから早くどっかいってくれ」


 数々の罵倒に、藤原の限界はすぐに突破した。

偉そうに説教を垂れているつもりの男に、なぜ自分が我慢しなければならないのか。

二回も頭を下げたのに、なぜ自分を否定されなければいけないのか。彼の頭から自分がコンビニ店員だという意識は、とうに消えていた。

 陰で藤原の暴発を見ていた同業の店員はまたかと、顔に手を当てて項垂れる。藤原の口から出た言葉で、時間を止められたかのように男はピタッと動かなくなった。目の前の人間から、店員らしからぬ言葉が発されて驚いているのだろう。男は数秒、餌を求める鯉のごとく口をパクパクさせた後、目を見開いて勢いよくレジを挟んで藤原の胸倉を掴む。


「お前客に向かって何言うてんのじゃあ、おいコラァ!」


「他のお客様に大変迷惑やから目の前から消えろ言うてんねん」


「それが客に対する態度か…!? お前何様やねん!」


「知るか。会計済ませた奴はもう客ちゃうわ」


 男が藤原の胸倉を掴んだ際に、男の肘がレジ横にある棚に当たってガムが2、3個零れ落ちる。マスクをしていない故か、男の唾がベタベタと藤原の鼻に張り付いた。男の服には泥や土が付着していたため、土と唾と合わさった不快な臭いが彼の表情を歪める。

 その臭いに思わず藤原が「おっさん、臭いんだよ」と吐き捨てようとした瞬間、事の騒ぎを聞きつけた中年の男が、店の奥から二人の前に飛び出してきた。それを視界に捉えた金髪の輩は、すぐにぱっと藤原の胸倉から手を放す。


「あぁー! お客様お止めくださいっ!!」


「おいお前ここの店長か? 店員の教育どうなってんねん、おい!」


「はいぃ……その点ははい、大変申し訳ございませんお客様……」


 男と藤原の前に現れた店長は、すぐに床に膝をついて、非常に形の整った土下座をする。その手際よい所作から、彼は人生において何度も土下座を行ってきたのだろうと察することが出来た。彼は残り少ない髪の毛を床に擦り付けながら何度も、何度も「申し訳ございません」と男に謝り続けた。

 あまりにも物乞いのように頭をこすり続ける店長を見て、男の思考はすっかり冷えきったのか


「あーもう! わかったわかった、店長さんも顔上げてええよ」

「なんか俺、しょうもないことで熱くなってもうたっぽいわ」


「はいぃ……お客様この度は本当に、あのぉ」


「今回はもうこの辺にしとくけど、この新人にはちゃんと言い聞かせとけ」


 新人という言葉に、藤原の眉がピクリと上がる。ここで働き始めてから1年は経とうとしている彼には、やや受け入れがたい単語であった。本来の藤原であれば、ここで我慢できずに二言ほど毒を吐いていたが、店長が自分の代わりに土下座している手前、また火に薪をくべるわけにはいかない。藤原は皮膚に爪を食い込むほどの力を拳にいれ、唇を噛みしめながら頭を下げた。

 それを見た男は自分の髭を指で弄った後、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、箸を入れたレジ袋を持って出口から出ていった。その余りの引きの速さから藤原の思う通り、あの男にとって藤原が箸を入れ忘れたかなどは、些細な問題にすぎなかったのだろうか。コンビニ店員という自分より下の立場に、鬱さ払いをしたかっただけなのかもしれない。


 くそっ……消えてぇ、消えたい、消えたい。早く死んでしまいたい。


 拭いきれない悔しさと恥辱に、いつもの言葉ソレを脳内で復唱する。惨めな自分が周りの目に晒されているという事実が嫌でしょうがない。なにより、日頃から自分に真摯に向き合ってくれている店長に、また迷惑をかけてしまったことが藤原の心をより締め付けた。どうせならば、あのまま男に殴られていた方がまだ彼の自尊心はそれほど傷つかなかったかもしれない。

 迷惑客が立ち去った後のコンビニに、テレビを消したリビングのような静まり返った空気が循環する。床に散らばったガム、てらてらと光り輝く頭頂を床につける店長、傍から見るその光景は嵐が通り過ぎた惨状を皆に連想させた。

店長は男が居なくなったのを確認すると、頭を上げて膝に着いた埃を叩き落とす。


「藤原君、大丈夫かい?」


「えっ? あっ、はい、一応……」


「良かった。じゃあ、仕事に戻ろうか」


 店長からの問いかけに藤原は面食らい、一瞬だけ硬直してしまう。それもそのはず、店長の言葉は本来ならば藤原が、店長にかけるべき言葉だったからだ。それを一番の被害者でもある店長から掛けられたのが藤原の傷心に拍車をかける。

 店長はズレた眼鏡を正しくかけ直し、柔らかい微笑みを藤原に向けると、とことこと空いたレジで溜まった会計をし始めた。騒ぎで会計を出来なかった客が、ぞろぞろと各レジに列を成していく。藤原も悶々とした表情で、横にいる店長と同じようにお客様の会計をこなそうと動いた。


今度は箸をつけ忘れないよう意識しながら。





「あっ、もう退勤の時間だね。藤原くんもう上がろっか」


「わかりました」


 いつのまにかコンビニの壁に立てかけられた時計の針は、4時を指しており、藤原が退勤する時間となっていた。その頃になると、客の数は昼の頃よりだいぶ減っており、コンビニの中は閑散としている。

 他の店員も裏の倉庫に回っていて、カウンターに出ているのは店長と藤原だけだった。地獄のような始まり方をしたバイトも、店長と共に仕事をしている間は早く過ぎ去ったように藤原は感じた。ようやく訪れた仕事の終わりに藤原は一息をつくと、横にいる店長に改めて昼間に言いそびれたことを言おうと決心する。


「あの、店長……」


「うん? どうしたんだい藤原君」


 レジの机を拭いていた店長は作業の手を止め、顔だけを藤原の方へと向ける。その怒りも何も浮かべていない瞳に、藤原は僅かにいたたまれなくなって思わず目を店長から逸らす。これ以上目を合わせていると、店長の心の広さと自分の心の狭さを比べて辛くなるのだ。もやもやと自虐心だけが藤原の中で大きくなっていく気がした。


「昼間の事なんですけど、店長大丈夫ですか?」


「昼間……? あぁ~! あのことね!」


「すみません俺のせいで、また店長が……」


「全然気にしなくていいよ。僕は大丈夫さ、藤原君に問題無ければ安心だよ」

「それに元はと言えば、倉庫に行ってて騒ぎに遅れた僕が悪いんだしね」


 店長は乾いた愛想笑いを藤原に投げかけ、顔をレジの机に戻してタオルを持つ手を動かす。


 違う、俺には問題しかない。店長は何も悪くないんだ。


 藤原は俯いて自責する。いつもこうである。藤原が騒ぎを起こしたとき、その度に店長は彼の代わりに頭を下げていた。

しかもなぜか、店長は藤原を叱らず、毎回自分のせいだと割り切るのだ。本来ならクビにしてもおかしくないはずなのに、店長は彼を許し続けていた。藤原が客に商品を投げたときも、藤原が店の窓を割ったときも、藤原が棚を壊した時も、店長は彼を許したのである。

 バイトを転々としてきた藤原が、ここのコンビニバイトを1年も続けれたのは、偏に店長の存在が大きくかかわっていた。藤原の方こそ最初は何も気にしていなかったが、一年弱も自分のために罪を背負い続ける店長を見て、徐々に罪悪感に押しつぶされるようになっていた。

 迷惑をかける前に存在ごと消えようかなと思うほどに。


「店長、お疲れさまでした」


「お疲れ様~」


 店長に上りの常套句を投げかけた後、藤原はレジの裏にある控え室に向かう。控え室に入ると、これからカウンターに入るであろうスタッフが、店の制服を着替えているところであった。そのスタッフは扉の開いた入口に目を向けるが、入ってきたのが藤原だとわかると、急いで目を逸らして藤原の姿を視界に入れないようにする。

 藤原はため息を吐いて自分のロッカーの方へと歩き、「9」と書かれたロッカーの扉を開けた。彼は今のような状況に慣れていた。職場で問題ばかりを起こす藤原に、他の店員たちは近づこうとしなかった。詰まるところを言えば、藤原は浮いていたのである。

 藤原の方も別に彼らに関わろうという気もなかったので、さっさと着替えを終わらして帰ろうとする。このコンビニの中で、藤原の存在を認めてくれるのは店長ただ一人だけだった。帰りの準備を済ませた藤原はロッカールームを出て、早歩きで従業員用裏口から出ようとする。


裏口の扉に手を伸ばしたとき不意に


「……おつかれっした」


と呟いた。

しかし、それを返してくれるものはおらず、言葉は壁を反響して虚空へと消えていった。

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