第二十六話 暗闇の神様3

 二人はのろのろと教会を出ると、からりと暑い道を歩き出した。ここではまずい、と青年が言い出したからである。


「……いつ気づいたの?」

「最初から。……というのは嘘ですが、そうなのではないかとは思っていました」


 そもそも、最初に出会った時から、どうにも妙だとは思っていた。エドワードは帝国のやり方に対して疎すぎたのだ。

 軍隊の制度はまだしも、国教について知らないのはおかしい。たしかに不人気な宗教ではあるし、オリヴィアほど細かく知っている人間は、神官を除けばそうはいない。

 それでも黒天教は国教だ。聖書は簡易版とはいえいつでも読めるし、そうでなくとも帝国民であれば、創世の流れぐらい知っているものだ。彼に対する違和感はそうしたこまごまとした不勉強的な部分からにじみ出ていた。


「だからまぁ、鎌をかけてみただけです。ご不快でしたか?」


 動揺を隠せないエドワードは、時折あちらこちらへと視界を揺らしていたが、反対にオリヴィアの姿には咎めるような様子がなく、むしろ単純な興味があるように思われた。


 なにせ王国と帝国は、国交を断って久しい。互いに互いがどんな状況なのか、諜報戦において知ることはあれど、国内の実情を一般人が知るすべは少ない。

 軍人であるオリヴィアにすら情報統制が行われており、軍事的傾向であるとか、戦力に関する情報であるとか、その程度しか耳にすることができなかったのだ。

 特に文化――その中に含まれる宗教は、ほとんど禁忌のような扱いであった。明文化されていないだけで、ほとんど犯罪扱いなのである。蛇蝎のごとくとはまさにこのことであろう。


 だからこそ、オリヴィアの興味が向いたのだ。情報を得るだけなら、罪には問われないのだから。


「ああ、別に通報する気はありませんから悪しからず。個人的趣味です」

「その方がどうかと思うよ……」


 オリヴィアのあっけらかんとした態度に、青年は呆れた様子で大きなため息をついた。緊張もろともに心臓でも吐き出してしまいそうな、深い深いため息である。

 それからチラチラと道をみやって、人気のないあたりのベンチに座ると、彼は観念したように喋り始めた。


「ええと……まず言っておくけど、僕はちゃんと帝国民だからね。確かに王国出身だけど、戸籍はもう抹消されてる」

「戸籍が、ですか? それは……」

「そんな大したことじゃあないよ。王国の方だとよくあることだ。能力者に対する仕打ちとしてはね」


 オリヴィアの眉がわずかにひそめられる。それはほとんど、親の仇を見つけた悪鬼のたぐいのような顔だったが、幸いその顔をエドワードが見ることはなかった。


 ――いわく、王国において、精神感応能力者は汚れた人間であると言われているという。


 精神感応能力。それは、自らの精神のイメージでもって理を揺らす力であり、世界を自らの精神に技である。オリヴィアを苦しめる楔にして、エドワードを王国から追い出した原因。

 そこでオリヴィアはたと気づく。そうか、エドワードは能力者だったのだ。完全にそのことが意識の外にあったので、それは思わぬ驚きとなった。


「王国――ペクト=ルヘルの領域において、それは汚れた技だ。精神、つまり闇の神の領域の力だから。帝国の方だとどういう扱いになってるのかな?」

「能力について、黒天教における公式見解は特に出ていませんね。特に特別視することもなく、あるがままの人間が持つ力といった感じでしょうか」

「そうなんだ。……王国のペクト=ルヘルの伝説は、あなたが語ってくれた創世とは少し違う。そもそもペクト=ルヘルは光、太陽でありながら実体を持つ神だとされている。より具体的言うと……竜、かな」


 ドラッヘン。伝説的な生き物のうちの一つ。鱗を持ち、空を舞い、すべてを焼き払う吐息を持つ。雲鯨と同様に、空の試練を乗り越えて、天を舞うことを許されたとされる大いなる生き物の内の一体である。

 雲鯨同様に現代での目撃例はない。似たような生き物の目撃情報程度はあるが、逆に言えばその程度である。結局は伝説上の生き物だ。


 とはいえ、黒天教の神話においては、空を舞う伝説の一体。それがどのような変遷をたどって、太陽の神へと至ったのだろうか。


「創世の順番は逆でペクト=ルヘルから"迷える夜ワンダルム"が生まれたとされてる……ああ、クシェルダルケの王国名ね」


 彼は空中に指先で絵を描くように動かす。目線的に、太陽の方を見ているのだろうか。


「ペクト=ルヘルは光の神にして実体――いわば、"今ここにあるもの"の神だ。クシェルダルケが実体を持たない精神的な存在で、また死後の恩恵ばっかりなのに対して、かの神の加護はすべからく現世利益なんだよ」


 身体の健康。幼子の命の保護。戦士に対する勝利の加護。そのほかにも命にかかわる権能はペクト=ルヘルのものであり、それ故にかの神は生きる物すべてを祝福せんとする神なのだ。

 その寛容さで言えばクシェルダルケとそう大差はない、とオリヴィアの知る神話では語られる。


 なにせ、この世に生きるすべての命は、すべからく同じものはない。一見同じに見えても、生まれた経緯や経歴や場所、歩んできた道、それらで異なっている。

 それらを全て祝福する光が寛容でないはずがあろうか。だからこそ、黒天教においても、ペクト=ルヘルは「命の神」として強い敬意を向けられている。

 たとえ、主神クシェルダルケと過去のいざこざがあろうと、生きている人を照らすのは天の光なのだから。


 だが。そうエドワードの話は続く。


「かの神は言う。強くあれ。闇を打ち払え。死は苦痛であり、永遠の生こそ命のあるべき姿である、ってね」

「……それは……」


 それは、ある意味、命の冒涜ではないか。オリヴィアは押し黙りつつも、その思いを隠しきる事が出来なかった。


「どちらが最初で、どちらが歪んでしまったのでしょうね」

「わからない。王国の歴史資料の類も、帝国が生まれたあたりの時代のものは、王権闘争の末に散逸してしまっているから。ただ、闇の神たるクシェルダルケの存在を忌避して、永遠の命こそを至高とする宗派は、少なくとも王国歴が三桁にいたる寸前に生まれたらしい」


 ――もしかすると、歪んでいったのは、国の方かもしれないね。

 青年のそんな言葉に、オリヴィアは黙り込んだ。何も言えなかったのだ。帝国が歪んでいないとは到底言えなかった。


 支配するのだけで負担だというのに、手放すこともできない南部連邦の存在。人手が足りていない軍部を抱えながら、人道ゆえに徴兵といった強い手段に乗り切れない王。補償を受けられず消えていった職人たち。


 オリヴィアは目を閉じて、自分の周りの人を思い浮かべた。

 カンテブルク戦役の傷を抱え、それでも戦う事を強いられる戦役上がりの兵士たち。何かと常に戦い続ける事を基盤に据え、人道に添いながらも、少女すら戦力として数える軍部、そして貴族の在り方。

 奇妙な矛盾だ。"人道"を守ると言いながら、戦いのために人道を捨て、"人"を守ると言いながら、守るために傷つく人を肯定する。そんな矛盾。

 必要な犠牲だというなら、なぜ戦い続けるのか? 互いに言葉で話し合い、剣を手放す事を考えもしなかったのか?


 数百年続く戦いと断絶、それらが帝国に与えた影響は測りしれない。たしかにその分だけ領土は膨らみ続けたが、それはある種、破裂寸前の風船のようでもある。歪んでいないというにはあまりにもいびつだった。


「……歪でもなんでも、生きていくしかないのですけれどもね」

「まったくだ。世知辛いよ」




 エドワードは門限があるからと去っていった。また会おうという言葉を残して。


 有意義な話し合いであった、とオリヴィアは思う。知りたかった事も少なからず知れた。エドワードの境遇についても少しわかった。

 日が暮れていく。真っ赤なオレンジめいた形をした太陽が、帝国の城の背を超えて、山の中へと沈んでいく。休日が終わるのだと思えば、足は勝手に営巣の方へ進んでいた。


 曖昧な考えが、思考の湖で泡となって浮かんでは、パチンパチンとはじけて消えていく。


 ――そういえば、今日は護衛の姿を見なかった。


 ――黒天教に興味を持ってもらえたのはうれしかった。


 ――また王国の話を少しずつ聞き出さねば。


 そんなふわふわとした頭の中に、ふと鎌首をもたげる疑問符があった。なんだろう、と彼女が自分の胸の内と記憶を探ると、ああ、とその疑問に思い至る。


「……王国の歴史資料って、おいそれと触れるものなのでしょうか? それに、なぜ資料が散逸した時期を詳細に把握して……」


 エドワードの素性に近づいたようで、少し離れてしまったのかもしれない。そんな微妙な心地に、オリヴィアはしばらく首をかしげていた。だが疑問に浸る暇もなく、彼女はじきに、その疑問を忘れてしまうことになる。


 つまり――休日の終わりが、彼女の身に迫りつつあったのである。


「……ま、詮索無用ですかね」


 上り行く月のほほえみを背に負って、彼女は歩き去っていった。

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