第2話 認識

 ジェシカとの結婚が決まったソロモンは、友人たちから盛大に祝われ、その一方で新たな生活に向けて準備を始めていた。新居探しや生活する上でのルールを決めたり、これだけは譲れないことの確認などなど。もちろん、両親を含めた挨拶やそれに付随することも行った。

 忙しい中であり、まだ擦り合わせも出来ていないため、喧嘩に発展することもあるかと思っていたが、今のところソロモンとジェシカの個人同士では、特にトラブルは発生しなかった。

 ソロモンは四男坊ということもあって、結婚後に実家を出るつもりでいた。そのため新居探しも行い、運良く早めに丁度いいアパートが見つかったため、2人でそこに決めた。このアパートは、ソロモンやジェシカからすれば割と格安で、ソロモンが働き出してからも何とか住めそうな価格帯だったが、ビルキースからすれば充分に高額だったようで、かなり驚かれたものである。

 ビルキースの感覚はともかく、ソロモンとジェシカの間では新居探しもお互い上手く話し合いで進めることが出来たし、共に生活するようになってからも、ひとつずつ擦り合わせが出来ていた。

 これは元々の2人の相性もあったと思うが、それぞれ好き同士で結婚した訳ではなく、ある意味『所詮は他人だ』と割り切ることができるというのもあるだろうか。どうあれ順調であった。

 新生活に向けての備えは、寧ろビルキースとアイリーンの方が苦戦しているようでもあった。

 既に明らかになっているように、属する階層が大きく異なることに起因する金銭感覚のズレや家事に対する感覚の違いなど、どうやらお互いの落とし所を探るのに大変苦労したそうだ。例えば、これまでのアイリーンの感覚で買い物をすれば、ビルキースの稼ぎでは直ぐに足りなくなってしまう。今後稼ぎが増えるとしても、今のうちから節約をして行かなくてはいけない。両者もある程度覚悟はしていたろうが、少々悩ましげな様子で備えを始めていた。


 しかし、それ以上に大きな問題が立ちはだかったのは、ソロモンとジェシカの方であった。

 大きな問題とは、結婚式に対する両者の意識の違いだった。

 正直、ソロモンは結構式に全くといっていいほど乗り気ではなかった。愛する人との挙式ならともかく、周りを誤魔化すための式だ。法的な結婚については届出を出せば完了するし、別に挙式なんてしなくていいと思っている。だが、結婚する際は控えめであれ結婚式をするものだ、挙式をしないなんて余程の問題でもあるに違いない――そういう感覚もあるため、仕方なくするのだ。少なくともソロモンはそのような認識である。だから、ジェシカもそうだと勝手に思っていたのだが――結婚式について彼女は、存外乗り気でいたのだ。


「結婚式? 折角だし豪華にしたいわ。私、結構楽しみにしてたもの」

「そ、そうなんだ……へぇ……」


 当然でしょ、と言わんばかりに笑みを浮かべた彼女に対し、ソロモンは内心冷ややかな気持ちでいた。

 その冷めた気持ちは、日程を決めていても、プログラムを考えていももほとんど変わらなかった。周りに比べて一歩引いた気持ちでジェシカ達を見ていたのである。

 何故、偽の結婚なのにこんなにも楽しそうにしているのだろう。反対に、何故自分はこんなにも挙式に興味がもてないのだろう。そんなことを考えながらも、とりあえずは自分のことなのだからと考えて、重い気持ちを抱えながら準備に付き合ってきた。しかし、面白くない。ジェシカや、妹であるアイリーンが楽しそうにしていることも理解できないのに、恋人であるビルキースが楽しそうに準備に取り組んでいる様子は、尚更理解できなかった。

 ビルキースは、ある時は式のプログラムにアイリーンの相談に乗り、ある時は会場の花をどれにするかを悩むなど、全体的に式に対して真剣に向き合ってきた。

 真に愛する人との式ではないのに、何故そこまで気合いが入るのだろう。同じ男性であるビルキースは、きっと、ソロモンの『乗り気になれない』感覚に近いだろうと勝手に思っていたため、一人取り残された気分を味わいながら、最低限の準備に関わっていた。

 そんな中、ドレスをどうするか仕立て屋やプランナーと話をしていた日に、事件は起きた。



「それで、彼女……アイリーンさんは背が高くて細身の体型なので、スレンダーラインのドレスが似合うんじゃないかと個人的に思っているんです。本人もそういうタイプのドレスは好きらしいので、そのようなものを頼めないかなと……」

「確かに新婦様はそういったものが似合いそうな方ですね! そのタイプですと、今までこういうデザインのものを仕立てさせていただいているのですが――」

「あら、結構色々あるのね。可愛いじゃない!」


 結婚が決まってから暫く経ち、秋に差し掛かってきた頃。4人はウェディングドレスのイメージ固めや採寸を行うため、婚礼衣装も取り扱う仕立て屋を訪れていた。新婦となる2人のイメージや好みを聴取し、いくつかデザインしてもらうか、既存のドレスから選ぶ予定である。挙式予定はまだ随分先だが、ドレスを仕立ててもらう場合時間もかかる。そのため、今のうちに一度採寸をしようとなったのだ。

 アイリーンは、自分が着たいドレスのイメージは特に固まっていなかったようだが、服飾関係の仕事をしているビルキースの協力もあって、順調に進んでいた。夫婦揃って真剣にドレスを選ぼうとするその様は見ていて安心するだろう。

 問題はソロモンであった。

 仕立て屋の店の中。その片隅にある休憩所にて、ソロモンは一人椅子に腰をかけて何かを見つめる。テーブルに置かれたそれを静かに凝視する彼は、時々、コン、とを置く。

 少し離れた場所でのやり取りなど全く気にもとめず、ソロモンは、机の上にあるものを凝視していた。


「ビルキースさん。私にはどういう形のドレスが合うと思いますか?」

「そう、ですね……ジェシカさんは……マーメイドラインなんてどうでしょう。普段の髪型やジェシカさんのスタイルからしても、イメージにも合っているかと思ますよ。これとか、こっちのドレスみたいな形のものですね」

「そう、ありがとう。……ねぇソロモンさん、これとこれならどっちがいいと思います? ……ソロモンさん?」

「……んー、ちょっと待ってください。今いい所なので」


 ビルキースからの意見を聞いて、ジェシカはソロモンにも意見を聞こうと振り返る。しかし彼女がその先で目にしたものは、ひとり黙々とチェスをするソロモンだった。彼は、ジェシカの言葉に適当に返すと、白い駒を動かしてまた口を閉ざす。


「…………ソロモンさん?」

「…………うーん、もう少しなんですけど……」

「……なにが?」

「もう少しでチェックメイトになると思うんですが……なかなか」


 ソロモンの言葉から、彼がジェシカの方ではなくチェスにしか興味を示していないことがありありと分かった。実際、彼が眼鏡のレンズ越しに見ているのは、ジェシカではなく、チェス盤と駒だ。

 ソロモンは、前述の通り、誰から見ても明らかな程に結婚式に興味がなかった。会場の飾り付けや食事を相談している時も、婚前パーティの内容をかんがえていても、彼はどことなく冷めた反応で参加しており、最低限の要望を伝えるだけで、特に大した提案もせず、決定権もほか三人に譲っていた。それに対して自覚が無いわけでも、周りが反応しないわけでもなかったが、偽装結婚の提案からおよそ半年程が経過した現在も、彼の態度に変化はない。

 そんなソロモンに対し、ジェシカとアイリーンは苦言を呈していたし、ビルキースだって『組み合わせは不満だろうけど、一応俺らの結婚式なのだから』と何度か注意はしていた。

 だが、ソロモンの気持ちはこれまでなにも変化しなかった。ソロモンは、挙式に文句がある訳ではないし、相手がジェシカであることに怒っているわけでもない。ただ、興味が持てず、必要も見いだせず、冷めた心持ちでいただけである。

――別に無理して派手にやらなくてもいいのに。しかも挙式にこんなに金かかるなんて思ってなかった……父さんや祖父さんに返すお金が多くなるなぁ……。

 漠然と不満を抱えたまま、ソロモンは周りの声を聞き流してコン、と黒い駒を動かす。

 この光景には流石に仕立て屋もプランナーも驚愕した様で、大層目を瞠った。彼等は顔を見合わせた後、プランナーの男性がソロモンに恐る恐る声をかける。


「あ、あの、新郎様……せっかくですし、新婦様のドレスを選ぶ手伝いをしてはいかがでしょう?」


 眉を下げて傍らにやってきた男性は、分かりやすく狼狽した色を表に湛えている。ソロモンはちらりと彼を一瞥した後、何事もなかったかのようにチェスに視線を戻した。


「別に、好きなの仕立てて着てくれたらそれでいいですよ。彼女が気に入るのが一番ですから」

「そ、それはそうですが……新郎様にも気に入っていただけるものにした方がいいのではないでしょうか。それに、1人で選ぶにも迷って決断できないこともありますし……一言助言だけでも……」

「…………僕の好みを気にする必要はありませんし、迷うとか、男性の意見をとかそういう理由なら、ビルキースに聞いたらどうです。彼の方がファッションに関する知識はありますよ」

「そうだとしても、やはり新郎様の目とご友人の目では異なりますし……」


 プランナーの言葉にソロモンは足を組み直して溜息をつく。結局は自分は夫役であって彼女の真の相手ではないのだから、そんな自分が見たところでどうでもいいだろう――と言葉を口にしかけたが、この状況でこんなことを言うのは流石に不適切だとひとまず口を噤んだ。しかし、一応自分は役とはいえ『夫』であるのだから、多少なりとも関わったほうがよいのだろうか――今更ながら漸くその考えに辿り着き、重い腰を上げかけたその時だった。

 離れたところでビルキースやアイリーンといたはずのジェシカが、感情の読み取れない面持ちでずんずんとソロモンの方へやってきた。普段からクールな様子だが、今回ばかりは流石にいつもの無表情とは異なると明らかに分かるものだった。後ろで2つに纏めた長く豊かな金の三つ編みも、今ばかりは振り乱されている。


「ジェシカ、さん……?」

「……………………」


 滅多に見ない様子に面食らったソロモンが、つい彼女の名を呼んだが、ジェシカは特に答えることなくソロモンの傍らで足を止めた。そして、ジェシカは数秒無言のままソロモンと机の上を凝視した後、勢いよくチェス盤をひっくり返した。


「あっ――」


 いい勝負を展開していた盤面は宙を舞い、駒が飛び散っていく。動揺したソロモンは一瞬飛ばされたチェス盤に目を向けたが、慌ててジェシカに目線を戻した。何故こんなことを、と問いかけようとして口を開きかけたその直後――目に見えたのは、泣きそうな表情のジェシカだった。そんな彼女に動揺した次の瞬間、何かを力強く叩く音が響いて、頬に鋭い痛みが走る。


「……流石に、どうかと思うわ」

「――へ?」


 頬に帯びるジンジンとした痛みに手を添えて、今自分が殴られたことを確認したソロモンは、ずれた眼鏡と視線を戻し、改めてジェシカを見つめる。

 ソロモンが目にしたのは、眉間に深く皺を刻み、怒りを宿した瞳でこちらを睨みつけるジェシカだった。今までに目にした事の無い様に思わず怯みつい後退りした直後、彼女は冷たい声を響かせる。


「あなたが私との結婚に乗り気じゃないのはよく分かるわ。本命相手じゃない結婚式なんてやりたくないわよね。でもね、流石に、ここまで冷たくあしらわれると、私だって嫌なのよ」

「…………へ」

「なにもわかってないって顔ね。最悪だわ。もういいわ。やめましょ、やめ。式なんてしなくていいわ。アイリーンとビルキースさんだけにやってもらいましょ」

「ちょっと、ジェシー、落ち着いて。怒る気持ちはよく分かるけど……」

「そうだよ、ジェシカさん。ソロモンだって別にやりたくない訳じゃないって、多分……。な、そうだろ、ソロモン」


 ジェシカとソロモンの本当の関係性を知らなかったらしい仕立て屋やプランナーは、彼女の言葉に僅かに焦る。その傍らで、ジェシカの投げやりな言葉を聞いたアイリーンとビルキースが、慌ててフォローの言葉を入れる。

 部屋中に焦りと混乱の空気が漂う中、ジェシカが発した言葉に面食らったソロモンは、動揺しながらもジェシカ達の言葉への返答を口にした。


「えっ……挙式しなくて済むなら、それでいいですけど……? 面倒くさいですし、する意味が分かりませんし、お金もかかりますし……。愛する人とする訳でもないこの結婚式なんて、そもそも僕はしたくないですよ」

「……は? お前、何、言ってんだよ」

「え? なんでビルキースがそんな顔してるんですか……? それにもう、好きな人相手じゃないってジェシカさんが言っちゃったじゃないですか」

「いや、だとしても、お前、自分が何言ってるか分かってんのか!?」

「えっ……? なんで貴方が怒ってるんですか?」


 全く悪びれもなく、かつ、心底不思議そうな様子で溢れ出た言葉に、ソロモン以外の者が皆狼狽する。 相当頭に来たらしいビルキースが詰め寄るが、ソロモンは困惑するばかりである。

 その態度が余計にジェシカの怒りを煽ったのだろう、彼女は更に眉間の皺を深くして、氷のように冷たい声をソロモンに向けた。


「…………そこで謝罪でも言い訳でもなくそんなこと言うなんて……ほんと、あなた、最低ね」

「え? だって、やめるって言ったのは君じゃないですか。だから、それでいいならそうしようと……」

「……そんなんでよく弁護士になろうと思えたわね」

「今それ関係ありますか?」

「案外、関係あるかもしれないわよ。相手の心が推察できない人に、自分の大事なことを頼みたくないわ」

「なら、自分の気持ちを説明してくれたらいいんですよ、そうしたら僕も分かります。そもそも、弁護士だってきちんと依頼人に話をしていただかないと何も出来ませんよ」

「……もういいわ」


 ソロモンの方をろくに見ず淡々と言葉を紡いだジェシカは、自分が座っていた椅子に置いてあったハンドバックを手にし、そのまま出入口に向かう。慌ててアイリーンが引き止めたが、それも断り、仕立て屋やプランナーに謝罪をして出ていってしまった。

 ドアが閉まった拍子に、カラカラとドアベルが音を立て、やがて沈黙が間を支配する。


「えっ…………と…………?」


 この場で唯一、現状が理解できていないソロモンは、呆然と立ち尽くす。同時に、複雑な感情を面に貼り付けたビルキースが、ソロモンを突き飛ばすように離れる。それによりバランスを崩したソロモンは、机に軽く足をぶつけたが、そんなことは気にもせず、そのまま呆然と床に尻もちをついた。

――……一体、何が、起きたんだ……? というか僕、どうしたらいいんだ?

 混乱したソロモンの頭の中は疑問符で埋め尽くされ、自分のこの後の正解の行動が思い浮かばない。周囲から刺さる視線の鋭さを思えば、自分が今座り込んだままなのはおかしいのだろうということはわかるが、さて、己は、何をするべきなのだろうか。

――とりあえず、散らばった駒を片付けなきゃ。

 くらくらした頭でようやくそれだけ認識したソロモンは、床を一瞥して散らばった駒をひとつずつ拾い上げる。同時に、ビルキースが、信じられないものを見るような目をソロモンに向けたあと、呆れたように片手で顔を覆った。


「……新郎様、そういうのは、こちらが行いますから。その……それより、どちらかというと、新婦様を追いかけた方がよろしいかと」

「……なんで?」

「何故って…………」

「貴方も聞いたように、別に僕達愛し合って結婚するわけじゃないんです。だったら、ボクより親友のアイリーンが追いかけた方が良いでしょう」

「……だとしても、今追いかけた方がいいのは貴方ですよ」


 驚きに顔を歪めた仕立て屋から目を移したソロモンは、ビルキースに目を向ける。助けを求めるような視線を送ったが、ビルキースは片手で頭を抱え、素っ気なく目を逸らす。


「……友人としても、流石にないわ」

「なんで? なんでそんなこと言うの」

「何度も言うけど、お前とジェシカさんの式だろ、これは」

「そうだけど、さぁ。好き同士で結婚するわけじゃないんだから、僕が関わる必要ないでしょ」

「そういう事じゃねえって何度も言ってんだろ!」


 さっぱり理解しないソロモンに痺れを切らしたか、彼の胸倉を掴み無理矢理立ち上がらせたビルキースが、勢いよく拳を振りかぶる。殴られると思いぎゅっと反射的に目を瞑ったが、いつまで経っても痛みが来ない。不思議に思い、恐る恐る目を開けると、そこには、涙を堪えているように、くしゃくしゃとした顔のビルキースがいた。



「へ、ビルキース……?」

「……くっ、そ……ふざけんじゃねぇよ、てめぇ……」


 歪めた顔を晒したビルキースは、振りかぶった拳でソロモンの胸元をドン、と叩く。そして、ソロモンを両手で突き飛ばしたかと思うと、ビルキースは仕立て屋達に謝罪をして、自分の荷物を手に出入口へ向かった。


「すみません、ちょっと頭冷やしてきます。すぐ戻ってきますから」

「ちょっと、ビルキース待っ――」


 ソロモンが、ビルキースへと手を伸ばしたその瞬間、勢いよくその手が払われた。ズキ、と走った痛みに一瞬怯んでいると、ビルキースが鋭くソロモンを睨みつけて、周りに分からないよう、彼の故郷の言葉で叫んだ。


「『引き止める相手は俺じゃねぇ!』」


 その言葉を聞き取ったソロモンは、更に怯む。えっ、と短く声を上げ足を止め、焦った心持ちでビルキースの背中を見送った。

 ビルキースが勢いよく扉を閉めた際に、備え付けのベルが鳴った。その音が鳴り止むと、店の中はしん、と静まり返る。暫く誰も言葉を発さないまま、皆ソロモンの姿を見つめていた。

 ソロモンは、未だにこうなった理由がよく分かっていなかったのだが、とにかく、周囲に自分の味方がいないことは、きちんと理解していた。

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