嫌いなわけがないでしょう
掠れたラスターの声を聞いて、少し冷静になったリディアは、泣きたい気持ちになった。
彼に信頼されていたディアナだった時でさえ、彼が甘えてきたことはない。
この十六年間、ラスターはきっと一人で頑張ってきたのだろう。
そのまま背中に手をまわしてそっと抱きしめると、ラスターの体が微かに跳ねた。なだめるように背中をぽんぽん、とたたきながら、そういえばと思い返す。
「そうそう、あなた、マクシミリアンにもちゃんと接していて偉かったわね」
「……………………その名前は聞きたくなかった」
低い声に、機嫌が急降下したのがわかった。
先ほどは思ったよりも仲がよさそうに話していたのに、名前を出すことすら嫌なのかと驚いた。マクシミリアンは一体何をしたのだろうか。
その疑問を察したのか、ラスターが「ディアが悪い」と小さな声で呟いた。
「え? 私?」
「……ディアは、俺と再会した時は逃げ出して人違いだと誤魔化そうとしたのに」
驚いた声を上げるリディアから体を離し、ラスターは赤くなった顔を悔しそうに背けた。
「あいつには自分から声をかけようとした」
どこか傷ついたような横顔に否定しようとして、思い返すと確かにその通りだったと口をつぐんだ。
ラスターは自分の発言が不本意だったようで、後悔するような表情で「くそ」と呻いた。
(確かに……ラスターには嫌われていたから考えてもみなかったけれど。ひどいことをしたかもしれないわ)
たとえ嫌いな相手だったとしても、無視をされてほかの誰かに話しかける姿を見たら悲しくなる。リディアにも覚えがあった。
傷つけてしまっただろうラスターの誤解を解きたくて、リディアは少し悩みつつ口を開いた。
「記憶が戻らない間も、私はずっとラスターのことを考えていたの」
「……」
「記憶が戻って一番先に会いたいと思ったのもラスターだったわ。記憶が戻ってすぐ、あなたがパレードすると聞いたから、一目顔を見たくて見に行ったくらい」
「……じゃあ、何故あの時逃げたんだ」
リディアの言葉に、ラスターが信じられないとでも言いたげな、じとりとした探るような目を向ける。
その視線に怯みつつ、本当のことがバレないよう、だけど嘘にもならないように考えながらリディアは慎重に言葉を選んだ。
「私は全く良い師匠じゃなかったから……気まずくて」
「は?」
ラスターの馬鹿を見るような目線が痛い。
確かに自分でも何を言っているのだろうと思ったが、他に説明の仕様もなくてリディアは頭を抱えた。
この勘の良すぎる対弟子用に、上手に隠し事をできる魔術を誰か今すぐかけてほしい。優秀な弟子を持つと辛い。
「と、とにかく……。そういう事もって、私はラスターが立派に幸せになった姿を一目見れれば十分だったの」
「……俺のことが嫌いだったんじゃ」
「えっ、そんなことあるわけないでしょ?」
急にわけのわからないことを言い出す弟子に、驚いて眉を顰めた。
「私がラスターを嫌いになるなんて、世界が何回ひっくり返っても有り得ないわ」
少し呆れた調子で言ってやると、ラスターは「は」と息を呑んだ。むしろ嫌われているのはこちら側だというのに、ラスターは何を驚いているのだろうこ。
「じゃあなぜ……」
「ああ、ここにおられたか」
ラスターが何かを言いかけようとした時、ちょうど人がやってきた。主役はホールに戻り挨拶をしてほしいというその人は宰相らしく、リディアは少し嫌な顔をするラスターの背中を慌てて押した。
◇
あの祝賀会の日から、ほんの少し。ラスターの態度が柔らかくなった。ツンツンツンツンしていた言動が、ツンツンくらいになったと思う。
今まで常に固かった表情が、時折リディアに対してもゆるむことが増えた。大抵が黒猫のディーと遊んでやっている時なので、おそらく猫を見て和んでいるのだろうが、そんな時のラスターはとてもやさしい目をしている。
(だからこそ、なんだか罪悪感があるわ……)
祝賀会から三日が経った今日、ラスターは朝早くに億劫そうに出かけた。その姿を見送ったリディアは少し顔を曇らせながら、手早く身支度を整える。
結婚の動機がいささかおかしいとはいえ、婚約者である以上、ラスターが嫌いな男性に黙って会うことには胸がちくちくと痛んだ。
(だけど、だけど。あれからどうなったのか、この十六年間に何があったのか聞かないと……)
そう思って自室の中でマクシミリアンを待つ。
午前十時ちょうど、窓ガラスが揺れる気配がして、リディアは窓を開けた。
「覚悟していたが、ここまで来るのに本当に骨が折れた」
やれやれと言った風情で、現れたマクシミリアンが苦笑する。
「――久しぶりだな、ディアナ」
「よくわかったわね」
出窓に腰掛けてふう、とため息を吐くマクシミリアンにそう言うと、「わかるさ」と彼は笑った。
「俺の周りで予想できないことを起こすのは、ディアナしかいないから」
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