四 真意

 すっかり日が暮れた竹林に、蹄の音が響く。

 長旅、急かされ続けた鹿毛はすっかり息が荒くなっている。浄ははじめに予定していたより、半日も早く松柏の地に帰ってきた。

 視界が開け、月光に照らされる竹林の家が見えた瞬間。浄はいつもと違う我が家の様子を感じ取り、眉を寄せた。家の前の土には複数の馬の足跡がついている。家の中に明かりは灯っておらず、人の気配がない。

 まだ止まりきっていない鹿毛から飛び降り、浄は戸口へと駆け寄る。戸は開け放たれたままで、中に誰もいないことは明白だった。

「藤。いないのか、藤」

 この家で、己を待っているはずだった者の名を呼びながら、浄は中へと入る。と、微かな血の匂いが浄の鼻腔に届いた。

 次いで、土間に無造作に置かれている手紙に気がつく。紙を拾い上げ、土間からつながる手前の部屋へと向かうと、火打ち石で燭台に火を灯した。ゆらゆらと揺れる不安定な火の下、手紙を広げ読む。

 そこに書かれていた内容に、浄は細く長く、息を吐き出した。足元から立ち上るような怒りが込み上げてきて、手紙を持つ手に力が籠もる。

 と、その時。外から聞こえてきたのは、草履の、どこか地面を擦るような足音だった。

 家の戸口へと視線を向ける。月光を背に現れた人影に、浄は「藤」と呼びかけようと口を開く。

 だが、その人物が燭台の明かりが届く範囲まで近づいてきたことで、誰だか分かった。

「優。お前」

「浄さん……帰っていらしたんですか」

 優は息せき切って、小さな燭台の灯りでも分かる程に顔を青ざめさせている。左手で右腕を庇っているが、その着物の下に、肩から包帯が巻かれているのが見える。

 優は何かを探すように家の中を見回した後、力尽きるように、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。裸足にはいた草履がひどく汚れ、傷んでいる。

 療養を厳命する医者の目を盗んで逃げ出し、村からこの竹林まで、足を引きずるようにして走ってきたのだ。

 優は深く俯いた。そのまま肩の揺れが大きくなって、すすり泣くような息遣いが漏れる。

「僕が無力なせいで。藤さんは連れて行かれてしまった」

 優の泣き声が次第に大きくなる中。浄は優を立ち上がらせようと土間に降り、左腕に手をかけた。

 しかし、優はその手を振り払い、逆に浄の裾を握り引き寄せながら、顔を見上げて睨みつける。

「どうして、藤さんを置いていったりしたんですか。あの時、あなたさえここにいれば、こんなことにはならなかった」

「……仕方がなかった」

 浄の返事は、低く小さい。

「何が仕方ないんですか! 赤の他人からの頼み事がそんなに大事でしたか。報酬が良かったですか。藤さんが、いったいどんな気持ちであなたを見送ったか」

「藤を側に置いておくためだったのだ」

「その結果がこれですか。藤さんはお金など、一度だって欲しがったことは……」

「違う!」

 優の言葉を遮り、浄は吼える。家中の襖を震わせるような怒声に、優は気圧され口を閉ざした。

「村で朝廷の者に声をかけられたとき、俺ははじめて、依頼を断った。怪我をしている藤の側にいたかったからだ」

「では、どうして」

 浄は奥歯を噛み締めた。手にしていた手紙は、すでに拳の中に握りしめられている。意を決したように、言葉を溢す。

「俺は、藤が六堂タ出身だったことなど、知らなかった」

 優は絶句した。

「俺は昔、六堂タの人間を皆殺しにした。俺が藤の家族を殺したんだ。もしそのことを藤が知ったら、どうなる。朝廷は、もし俺が依頼を受けないのならば、その事実をすぐに藤へ伝える手筈が整っていると言っていた。俺は、藤に……」

 まくしたてるようにそこまで言ってから、浄は声を詰まらせた。

 あの日。浄が朝廷の者に声をかけられたのは、優の元で必要なものを揃えてもらい、家へ帰るために村から出る寸前だった。

 そして久方ぶりの依頼は、事実を暴露するという脅迫と共に成された。

 敵が迫っているなら、浄はいくらでもその者を斬ることができた。藤や自身の身に危険が迫っているなら、守り通す自信があった。だがどう考えても、藤に情報を伝えさせないようにする、などということは不可能だった。

 矢文が飛んできたら。村の者伝で話されてしまったら。藤にそうと伝えず、藤を一生家の中に閉じ込めておくことなど、浄にはできそうもなかった。

 そして、藤の顔が思い浮かんだ。藤の己を見る瞳が、憎悪で満ちていくのを考えたら、たまらなかった。

 浄はただ、藤に嫌われたくなかったのだ。


 全ての事実を知った優は唖然とし、目を見開く。

 次に出てきたのは涙と笑いだった。やり場のない想いに、まるで感情を表現する器官が壊れてしまったかのようだ。

 優は掴んでいた浄の袖を離す。力の抜けた腕が垂れて、土間に手をつく。

「藤さんは、はじめから知っていましたよ」

 優の言葉に、浄は、いったい何を言い出すのかという表情で眼差しを向ける。

「あなたが家族の、壊滅させられた故郷の仇だと知っていて、ずっとあなたの側にいたんです。藤さんは、あなたに二度と人殺しをさせないようにと。それが、藤さんなりの敵討ちだったんです」

「そんな、馬鹿な」

 浄の返事に、優は大きく首を振る。

「そういう人だって、浄さんも分かっているでしょう。常識に囚われず、合理的で、感情に左右されずに、こうと決めたら最後までやり通す。それでいて……とても優しいんだ」

 優の言葉を聞きながら、浄の体からも力が抜けていく。そのままよろめくように、上がりかまちに腰掛ける。

「藤は、俺のことをずっと憎んでいたのか」

 呟くような藤の声。

 優は返事をすることができなかった。憎んでいたのは間違いがない。だが、それだけではないことを優も分かっている。むしろ、赦しはじめていたように、優の目には映っていた。だが、それは他人が勝手に推測で言えるようなことではない。

 長い沈黙の後、優は深く息を漏らした。顔を上げると、絶望の籠もる言葉を呟く。

「藤さんは、都へ連れて行かれてしまったんですよね」

 都はこの世界の中心地だ。土地面積としては、六堂、白虎に比べると小さな松柏の、さらに細々とした島を除いた本土部分と同等。

 だがしかし、朝廷が抱える禁軍の総数は二〇万にも及び、その全てが都に詰めている。頭数だけで言えば白虎の持つ組員と同等だが、武士の家系に生まれ、その道を極めた禁軍と、皆が平民である白虎の組員では全体的な質が違う。

 だからこそ、朝廷に目をつけられた白虎は、長年の宿敵であった六堂と同盟を組んでまで、対抗しようとしたのだ。

 加えて、他の土地では形骸化している朝廷だが、都の中では事情が異なる。都に住むのは帝に連なる貴族と、朝廷で働く者、その家族に限られる。警備は厳しく、一般人は通行すら許可されていないため、藤が助力を求められるような者は存在しない。

 考えれば考えるほど、優の心には、もう二度と藤に会えないのだという切ない想いが込み上げてくる。

「いったい、どうして」

「俺への脅しだ。藤を手中に収めておくことで、俺を意のまま動かそうという魂胆らしい。白虎リの次は六堂ニを落としてこいだと」

 今まで放心していた浄が優へ言葉を返し、握りしめて丸まった手紙を土間の上へと放り投げる。

 土間の上を転がっていく、丸くなった紙を見下ろし、優は静かに問うた。

「白虎リの人を、殺してきたんですか」

「一人残らず」

 浄の返事は短い。その感情のない一言の恐ろしさに、優は背筋が震えた。

 と、浄が唐突に立ち上がった。そのまま、まっすぐに戸口へと向かう姿に、優は慌てて声をかける。

「待ってください。六堂ニへ向かうんですか」

 言葉に、浄は戸口の所で立ち止まった。

「都へ行く」

「朝廷は、浄さんを藤さんに、会わせてはくれないと思いますが」

「そんなこと、俺の知ったことではない」

「どういう意味ですか?」

 こちらに背を向けたままの、浄との短い言葉のやり取りに、優は訝しむ。今の流れで都へ行くということは、藤に会いに行くのではないか、と。もしや、ずっと己を憎んでいたかもしれない藤のことなど、もうどうでも良くなったという意味だろうか。などということまで考えて。

 浄がゆっくりと振り向いた。家の外から差し込んできている月光が、彼の高い鼻梁の稜線を照らす。

 その表情の冷たさと、彼の身にまとう気配の物々しさに、優は息を呑む。

「邪魔する者は、皆斬るまで」

 発せられた声は、冴え冴えとしている。

 優は、大隊長だった時の浄の噂を知っている。今の浄の気配を真正面から受け、誇大表現ではないかと感じていた噂の数々が、嘘ではないという実感が持てた。

 思わず怖気づきそうになった優だが、口の中に溜まった唾を嚥下し、浄の腕を掴んだ。

「浄さんの強さは分かっています。しかし、それはあまりにも無謀です。都には禁軍が詰めているんですよ。死ににいくようなものです。浄さんが死んだら、藤さんは……」

 止めるように説得しようと言葉を紡いでいた優だったが、その先が続かなくて、口をつぐむ。

 そんな優の姿に、浄は軽く笑った。

「俺が死んだら、藤は喜ぶんじゃねぇのか」

「そんなこと……」

 ない、とは言い切れなかった。浄はさらに笑い声をたてる。

「仮に俺が禁軍に殺されて死ねば、朝廷も藤を手中に置いておく必要はなくなる訳だ。俺が都へ行けば、どの道、藤は解放される。なら何も問題はなかろう」

 優は眉を寄せ、しばしの沈黙の後に頷いた。目の前の人が死ににいくと言うのなら、それを止めたいと思う一般的な感覚が優にはある。だが、優にとって、最も大事なのは実の兄のように慕う藤だ。浄ではない。

 優にはもはや、浄を止める理由は存在していなかった。

「わかりました。でも、今日はもう日も暮れました。馬は夜走れませんし、そもそも長旅で馬も疲れているでしょう。出立は明日にすべきです」

 それに、と優は言葉を続ける。

「浄さんが真正面から向かっていけば、朝廷の者は必ず藤さんの命を危険に晒して浄さんを止めるはずです。そのための人質なのでしょうから。どう攻めるか、作戦を練るべきではありませんか?」

 優の言葉に、藤は少し考えた後、納得したように家の中へと戻った。その表情からは、先程見せたような壮絶な迫力は消え去っていた。

 奥の部屋へと上がっていく浄を見て、優は思う。

 もし仮に藤の命を盾にとられたら、浄はすぐさま自分の首を斬り落とすだろう、と。

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